36.恋の話は穏やかに
「食欲が戻ったようで良かったわ」
鯛のクリーム煮を一口食べたわたしが頬を緩ませていると、わたしの前に座っているウェンディがくすくすと笑った。
ここはお昼の食堂。日差しは薄手のカーテンに遮られる窓辺で、わたし達は昼食を食べていた。今日のメニューは鯛のクリーム煮、キノコのテリーヌ、バゲット、デザートにはチョコレートタルトが添えられている。
ほくほくとした鯛にクリームソースが絡んでとても美味しい。玉ねぎやにんじんの甘さがソースによく出ている。バゲットにそのソースを掬うとこれまた美味しかった。
「そういうウェンディも、いつにも増してご機嫌ね?」
朝からにこにこと表情を緩ませている友人に指摘をすると、ウェンディの顔が朱に染まった。もしかして自覚は無かったんだろうか。
「……そんなに分かりやすかった?」
「とっても。何かいい事が……もしかして、昨日のお休みは団長とお出掛けをしたとか?」
「どうして分かってしまうのかしら。……前にお手紙を頂いた話はしたでしょう? その約束を果たして下さったの」
キノコのテリーヌをフォークでつつきながら、ウェンディが小さく言葉を口にする。大切な宝物を見せてくれるような、そんな優しくて可愛らしい声だった。
「素敵な時間だったのね」
「ええ。ラジーネ様も舞台がお好きなんですって。それでね、次は歌劇を見に行く約束をしたの。凄く素敵で、夢のような一時だったわ」
ウェンディのピンク色の瞳が、きらきらと輝いていてとても綺麗。そんな姿にわたしの心も弾んでしまう程だった。
ラジーネ団長は人望も厚く、剣の腕も立ち、決断力に優れた人だと聞く。そんな人ならきっとウェンディを傷付ける事はないだろう。
「それでね、その……”これからもこうして、会ってくれないだろうか”って……」
思わぬ言葉に、わたしはテーブルに身を乗り出していた。わたしの様子にウェンディは苦笑いをしているけれど、そうなるのも仕方がない。恋話は気になるし、それが親友のものならもっと聞きたいと思ってしまうもの。
「もちろん、ウェンディは了承したのよね?」
「うちは弱小貴族だし、あちらは侯爵家でしかも嫡男でしょう。釣り合わないのは分かっているんだけれど、それでもやっぱり好きなの。私なんかでいいのかとも思うわ。でも……ラジーネ様が選んでくれた私を、”私なんか”って思っちゃいけないのよね。身分の差はどうにもならないけれど、それなら尚更相応しくなれるように努力したいと思えたの」
図書館に勤めてから彼女とは長い付き合いになるけれど、こんなにもウェンディが輝いているのは初めて見たかもしれない。美しさが増しているというよりも、眩い。きっとそれが恋なんだろう。
「ねぇ、それは……ゆくゆくは結婚をするという事?」
「そうね。近い内に、婚約を願いに来て下さるって」
こういうところはやっぱり貴族だと思う。
お付き合いした先に結婚というのではなく、結婚を前提にお付き合い……それが婚約なのか。
そう思うとノアはわたしに合わせてくれているのかもしれない。”嫁に来い”なんて結婚を仄めかすのも貴族ならば当然の事なんだろうか。
「良かったわね、ウェンディ。あなたが幸せだとわたしも嬉しいわ」
想い合って結婚するなんて、貴族にとってそれがどれだけ難しい事なのかは知っている。そんな中でも恋を叶えたウェンディを心から祝福したいと思った。
「ありがとう。ねぇ、アリシアは? 好きな人とは会えたんでしょう?」
「え、ええ……どうして分かったの?」
「その食欲を見れば、ねぇ」
くすくすと笑われたわたしは、大袈裟に肩を竦めて見せた。テーブルに乗り出していた姿勢を戻すと、バゲットを小さく千切って口に運ぶ。
「名前も顔も、何をしている人なのかも知る事が出来たの」
「良かったわね。素敵だった?」
「そう、ね……ええ、素敵だった。……彼もわたしを想ってくれているようなの。わたしの気持ちにも気付いているみたいだけど……わたし、はっきりと気持ちを伝えられていなくて」
「あら、どうして? ”私もお慕いしています”ってそれだけでいいのに」
「……恥ずかしいじゃない、そんなの」
それを言うと考えただけで、羞恥に声が掠れてしまう。
わたしは空咳をひとつ落としてから、ゴブレットの水を飲んだ。ふぅと一息ついてから、チョコレートタルトに取りかかる。
艶やかなタルトにまぶされる金箔がまるで夜空にように美しい。クッキー生地のタルトにフォークが簡単に沈んでいった。
「お相手もあなたを好いてくれているんでしょう。恥ずかしいなんて言っている場合じゃないわよ」
「そうだけど……」
ずっしりとしたチョコレートなのに、思った以上に甘くない。滑らかな食感に促されるよう、わたしはタルトを一気に食べてしまった。
「それに、伝えたらきっとお相手も喜ぶんじゃないかしら」
「喜ぶ?」
「そうよ。あなただって、想われていると知って嬉しかったでしょ。その人だってアリシアに気持ちを伝えて貰ったら嬉しいわよ」
「……そう、ね」
ウェンディの言う事はもっともだ。
恥ずかしいから、不安だからを言い訳にして気持ちを伝えないなんて、狡いどころの話じゃない。
いつまでもこんな関係で居られるわけもないのだから。
「ありがとう、ウェンディ。勇気がもらえたわ」
「いいのよ。どんな人か、いつか紹介してくれる?」
ウェンディもよく知っている人よ。
そう思うけど、今それを口にするわけにはいかない。親友だけど、ノアが隠している事をわたしの口から話せないもの。
「ええ、あなたにも会って貰いたいわ」
「楽しみにしてる」
笑ってくれる親友に、内心で謝罪をしながらわたしは頷いた。
日差しが翳ってふと窓へと目を向けると、薄いカーテンの向こうに厚い雲が流れているのが分かった。それだけで、感じる温度が下がっていくようだ。
「正式に婚約をしたら、大々的に発表されるの?」
「ラジーネ様はその役職もあるし、大掛かりなものになるかもしれないわ」
「何か必要なものがあったら、うちの店も贔屓にしてね」
「もちろんよ」
そういえばわたしが婚約をしていた時に準備をしていた諸々はどうなったのだろうか。怒れる母がすべて任せるように言っていたから、わたしは考える事さえしていなかったけれど。帰ったら確認してみなければ。
不意に鐘が鳴った。
反射的に腕時計に目をやると、昼休みの終わりが近い。
それを合図に周囲の人々も立ち上がっている。
わたし達も昼食のトレイを手にして席を立つと、それを返却しようと足を向けた。
「ねぇウェンディ。婚約したらまた、色々話を聞かせてね」
「ええ。アリシアの話もね」
幸せそうなその様子に笑みが零れる。わたしもきっと同じような顔をしているのかもしれない。
自分で触れてみた頬は、ほんのりと熱を持っていた。
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