35.話は尽きずに
二つ目はやっぱりチョコレートケーキにした。それからコーヒーに、ミルクをたっぷりと。
ノアが選んだのはチーズケーキ。飲み物はコーヒーが好みらしい。
チョコレートケーキを一口食べる。うん、何度食べてもやっぱり美味しい。今度は飴で出来た薔薇を散らしてみる。苦味の強いチョコレートだけれど、それがこの飴と合わさるように計算されているのだろう。
「そういえば、『迷宮』の作者さん、新作を出したのよ」
「もう? こないだ出たばかりじゃなかったか」
「ええ、でも新作が図書館に入ったの。上司に聞いたら、とても精力的な作家さんで書きたくて堪らない人なんですって」
「へぇ、凄いな。じゃあ近い内に借りに行く」
ノアはチーズケーキを一口分、フォークに乗せるとわたしの口元に差し出してきた。
……お裾分け? 有り難いけど、確かにそのチーズケーキも気になるけど、それよりも恥ずかしさの方が勝ってしまう。
「なに照れてんだよ」
「恥ずかしいに決まってるでしょ」
「誰も見てねぇ」
「そういう問題じゃないってば」
「じゃあいらない? すっげぇ美味いけど」
にやにやと、口元が笑みを形取る。楽しげな様子を見せるノアを睨んでみても、怯んでくれるわけもなく。
早くとばかりにフォークが揺れて、わたしはわざとらしく溜息をついてから、そのフォークからケーキを食べた。
チーズの風味がふわりと香る。滑らかなのは生クリームのおかげだろうか。クッキー生地のタルトはさくさくとして、全体的にまとまってる。これは美味しい。
「美味しい。もっと早くにチーズケーキを試しておけばよかった」
「……そりゃ良かった」
もっと揶揄われるかと思ったけれど、ノアは静かにコーヒーを飲んでいる。これはもしかして……。
「ねぇ、照れてる?」
「……別に平気だと思ったんだけど。なんか、変に恥ずかしい」
「やめてよ。あんたが恥ずかしがったら、わたしまでそうなっちゃうじゃない」
「はは、顔赤いぞ」
「うるさい」
熱を持った顔がどんな色になっているかなんて、自分でもわかっている。わたしは悪態をつくと、ケーキを食べるのに集中する事にした。
「本だけど、他にもおすすめがあったら何冊か借りたい。選んでくれるか」
「もちろんいいわよ。いつ読むの?」
「夜、寝るまでの時間だな。宿舎にもでかい本棚があるんだけど、面白そうなのは読み尽くしちまったし」
「え、宿舎住まいなの?」
「おう。最初はみんな宿舎に入るんだよ。結婚したとか爵位を継いだとか、環境が変わって出ていく奴も多いけどな」
騎士の宿舎は王宮の近くにあったはずだ。ノア……というより、アインハルト様がそこに暮らしていたのも知らなかった。
それなら先日、わたしを家まで送ってくれたのはだいぶ遠回りになってしまったはずだ。
「俺もそのうち家を買うつもりだけど」
「そうなの。うちの店は家具も取り扱っているわよ」
「本当に手広いな。一緒に選ぶから心配すんな」
心配とは。
何と返していいか分からなくて、わたしはコーヒーを飲んだ。ミルクをたっぷり注いだから、ほどよい苦味となって飲みやすい。
チーズケーキを食べ終えたノアは、静かにフォークをお皿に置いた。コーヒーを楽しむ口元は優しく綻んでいる。
「ねぇ、次はいつあまりりす亭に行くの? 良かったら、また一緒にどうかしら」
ノアと一緒に美味しいものを食べるのは楽しいから。そう思って誘ってみると、カップをソーサーに戻したノアはテーブルに身を乗り出した。
「お前はいつがいい?」
「わたしはいつでも平気だけど……」
「じゃあ二日後はどうだ? 帰りはまた送るぞ」
「遠回りになっちゃうでしょ。家に迎えを頼むからいいわよ」
「俺が、お前と一緒に居たいんだ」
「そんな、ちょっと……もう少し言葉を……」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、わたしは両手で顔を覆い隠した。
ここがお店じゃなかったら、もしくはお酒が入っていたら、きっと足をばたばたとしていたかもしれない。
「くく、まぁ家の人に迎えはいらないって言っとけよ。遅くならないでちゃんと送るから」
「……はぁい」
ゆっくりと深呼吸を繰り返したわたしは、指の隙間からノアの事を窺い見る。前髪に隠れて見えないけれど、きっと紫の瞳は優しく細められているんだろう。
「そういえばエマさん達って、あんたの事は知っているの?」
「いや、特に言ってねぇ。だけどマスターは気付いているかもな。あの人、中々鋭いから」
「確かに」
マスターなら知っていてもおかしくなさそう。なんだろう、何でも知っているんじゃないかって謎の万能感があるのだ。
でもそうか、エマさんはきっと知らないんだ。だからわたしに”アインハルト様との関係”なんて聞いてきたんだ。本人を、目の前にして。
「エマさんが前に、わたしに聞いてきたでしょ? アインハルト様とはどうなのって。あの時はどんな気持ちだったの」
ちょっと意地悪な質問かもしれないけれど、わたしだって散々恥ずかしい思いをしているんだから、お互い様だ。両肘をテーブルについて、揶揄うように問いかけた。
ノアは少し驚いたように肩を跳ねさせて、それから口元を片手で覆った。
そんな事をされたら、ただでさえ見えない表情がもっと分からなくなってしまう。
「あれは……焦った。でも、お前が
口を隠しているせいで、いつもより声が低い。
その声に、わたしの胸は苦しくなってしまう。いますぐにその髪を避けて、どんな顔をしているのか見たいと思った。
「でもやっぱり狡いだろ。顔も晒さないでお前の気持ちだけ勝手に知って、そんなのおかしいしな。思い止まった俺を誉めてくれ」
手を落としたノアはいつも通りに笑っていて、声色だっていつも通りで。
「でも、狡いのはきっとわたしも一緒ね」
ノアの事を好きだと自覚していて、ノアの気持ちに応えないで。
不安のせいだって踏み出そうとしていないわたしは、もっと狡い。
「いいんだよ、お前は多少狡いくらいで」
「ふふ、何よそれ」
「そういうところも可愛いからいいんだ」
「……ああもう、またそういう事を言うんだから」
喧騒もどこか遠くにいってしまったようだ。
ノアの声だけがわたしの耳に届いてくる。
赤く染まった顔を隠す事も諦めて、わたしはチョコレートケーキを最後まで食べる事にした。苦いのも甘いのもよく分からなくなってしまって、それも全部ノアのせいで。
それから陽が傾くまで、わたし達は色んな事を話した。
春になったらのんびりお散歩をしたいとか、今度は本屋さんを巡ろうとか、お互いの仕事の話だとか。
時間が溶けていってしまったのが少し寂しかったけれど、帰り道はまた手を繋いで歩いた。
寂しいと、ノアも思ってくれたらいいのに。そう思いながら見上げた空は夕陽が沈む宵の口。細い月が浮かんでいた。
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