33.朱に染まるのはお互い様

 冬にしては暖かい、柔らかな日差しが降り注ぐ午後。

 道に積もっている雪も所々が溶け始め、氷の上に水溜まりを作っていた。歩く度に跳ねる飛沫が陽光に煌めいている。


「顔が赤いが大丈夫か?」


 笑みを含んだ声で問われ、わたしは隣を歩く男を軽く睨んだ。そんな事で怯む人ではないのはよく分かっている。現に彼は可笑しそうに肩を揺らすばかりだ。


「誰のせいだと思っているのよ」

「俺のせい」


 相変わらずの分厚い前髪で顔を隠しているノアは、その口元を機嫌よく緩ませている。

 そんな様子に溜息を漏らしながらも、わたしの足取りが軽いのは自覚しているし、ノアも気付いているだろう。

 ちらりとノアの横顔を覗き見ながら、わたしは先程の事を思い返していた。



 * * *


 約束した時に言っていた通り、ノアは家まで迎えに来てくれた。


 その前にフェリクス様が落としていった爆弾発言を、わたしがのらりくらりとかわしていたのは、何と説明していいか分からなかったからだった。飲み友達よ、とは言っても兄は中々信用しない。それだけではないだろうと笑顔で更に追及してくる程だ。


 そんな時にやってきたのがノアだ。

 顔も見えないノアに家族が警戒をしていたのも、彼が胸に手を当てて騎士の礼を取るまでだった。


「はじめまして。私はジョエル・ノア・アインハルトと申します」


 背筋を伸ばした美しい一礼。

 その名前に驚きを隠せなかったのは、家族だけではなく……わたしもだった。ノアって、本当にノアって名前だったのね。アインハルト様のお名前がジョエルというのは聞いていたけれど、ミドルネームがあったとは知らなかった。


「アインハルト様というと……騎士団に所属している、あの?」


 母がにっこりと問い掛けると、ノアは長い前髪を横に流した。大きな黒縁眼鏡の向こうにもよく見える夕星の瞳、通った鼻筋、形の良い薄い唇、誰もが知る美貌の騎士だ。


「目立つ事は自覚しています故に、このような姿を取っております」

「そのお姿だと、確かにアインハルト様だとは気付きにくいですわねぇ。騎士服を着ていらっしゃらないのと、その髪型で随分と印象が変わりますもの」


 ほっそりとした手を頬に寄せた母は、合点がいったとばかりに頷いている。わたしとノアを交互に見つめながら意味深に微笑む様子に、わたしは頭を抱えたくなった。


「アインハルト様は、娘とどういう関係でしょう」


 にこにこと微笑む母とは違い、父の顔は険しい。

 きっとわたしの事を心配してのものだろうとは理解しているが、ノアが不快に思うのではないかと不安になったのも事実で。しかし窺い見たノアはそんな素振りも見せずに穏やかな笑みを浮かべていた。


「アリシア嬢とは良い友人関係を築けていると思っています。私としてはもう少し踏み込んだ関係になりたいとも思っていますが……もちろん、アリシア嬢の気持ちが一番大切ですがね」

「アインハルト様、ご存知だとは思いますが娘は婚約を解消しております。それでも?」

「彼女が被害者だという事も含めて、理解しています」


 わたしの事を話しているはずなのに、わたしの心はどこかに逃げ出してしまったようだ。

 父は何を思ってノアにそんな話をしているのか。ノアの言う踏み込んだ関係とは、親の前で話すものなのか。現実逃避にエントランスホールのシャンデリアの装飾をひとつふたつと考えていたら、兄に腕を小突かれてしまった。

 兄を睨むも、飄々とした笑みを浮かべている。これは何か面白がっている時の顔だ。


「……私が決めた婚約で娘には不憫な思いをさせてしまった。私はもうこれ以上、娘を傷つけさせたくないのです」

「承知しています。アリシア嬢、それからご家族からも信用して頂けるよう努力していくつもりです。アリシア嬢を守る盾になると、心に決めております」

「……分かりました。アリシア、気を付けて行っておいで」

「え、ええ。ありがとう」


 不意に声を掛けられて、わたしの肩がびくりと跳ねた。

 出掛ける支度もとうに終わっている。エントランスで迎えを待っていたら、家族全員が集まってしまったのだ。


「では行こうか」


 髪型を直したノアは腕を少し曲げて見せる。手を添えろとそういう意味なのは分かっているが、どうにも気恥ずかしい。家族の前で押し問答をするわけにもいかず、顔に熱が集うのを自覚しながらわたしはそこに手を掛けた。

 控えていたマルクが扉を開けてくれる。それに会釈をしたノアは、わたしの足元を気遣いながら外へ出た。


 * * *



 家から離れて、わたしは添えていた手を離した。

 嫌なわけじゃない。恥ずかしいのと、触れる事に頭が茹だってしまいそうだったのだ。そしてその顔の赤さを、ノアに揶揄からかわれている。


「いい家族だな。お前の事を大事に想っているのが伝わってくる。しかし……お前の兄さんは、にこにこしながらとんでもない殺気をぶつけてきたぞ」

「ええ? 殺気? 物騒ね」

「俺がお前に相応しくないと判断したら、何が何でも排除するってそういう気概がひしひしと伝わってきた。話をしていないのに釘を刺された気分だ」


 おどけたようにノアは笑っているけれど、兄がそう思っていたのは事実だろうと思う。よくそれを感じ取ったものだと感心するけれど、やはり騎士様だからなのだろうか。


「嫌な気持ちにならなかった?」

「全然。絶対認めさせてやると思ったね」


 何をだ。

 問いたくても薮蛇になりそうで、わたしは口をつぐんでおく事にした。


 街路樹から落ちる滴が、ぱたぱたと軽やかな音を立てている。

 水滴に穿たれた雪の穴に、水が溜まって溢れていく。


「ねぇ、出掛ける時はいつもこの姿なの?」

「滅多に出掛けねぇけどな。いつもの姿だと色々めんどくせぇだろ」

「すぐに囲まれてしまいそうだものね」

「お前はどっちが好きだ? この姿と、騎士の姿と」


 ノアの口元が悪戯な笑みを浮かべる。


「どっちがって……」


 どっちのノアも、わたしを大事にしてくれていたのは分かっている。姿を変えても場所を変えても、いつだってこの人はわたしを気遣ってくれていた。


「どっちもあんたでしょ」

「騎士姿が好みかと思った」

「好みを言ってる訳じゃなくて。思うところがあって使い分けているんだろうから、わたしとしてはどちらでもって事よ。中身は同じだもの」


 低く笑ったノアは眼鏡のつるに触れて、それを少し持ち上げる。前髪が浮き上がって覗いた夕星は楽しげに煌めいていた。


「お前が騎士姿がいいって言うなら、そっちを選ぶぞ。面倒な事になってもいい」

「折角一緒に居るのに面倒になるのは嫌だわ。邪魔をされて──」


 余計な事を口走ったと気付いたのは、ノアに手を取られたからだった。思わずその顔を見上げると、口元に深い笑みが浮かんでいる。


「そうだな、俺も邪魔はされたくねぇし」

「……っ、うるさい」


 何を言っても誤魔化せる気がしない。赤くなる顔や耳も、寒さのせいにするには今日は暖かすぎる。

 諦めたわたしは、ノアの手をぎゅっと握り締めた。驚いたようにノアがわたしを見るけれど、その少しだけ覗く頬に朱が差しているのが分かる。


 それに気をよくしたわたしは、手を繋いだままでいる事にした。

 お互いの手袋で、温もりが伝わらないのが、少し残念だと思いながら。

 

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