32.終止符

 今日は休館日。

 ノアと出掛ける約束をして、心が浮き足だって……は、いなかった。いや、浮かれてはいるし、楽しみにしていた。お肌の手入れもいつも以上に念入りにしたし、着る服に悩んでクローゼットの中身を全て出してしまった程だ。

 それなのに今のわたしが、どちらかといえば憂鬱な気持ちでいるのは……午前に来客の予定があったからだった。


 わたしは憂鬱だし、家族は物々しい雰囲気を醸し出している。

 父は朝から険しい顔をしているし、母は貴族の顔をしている。兄に至ってはそれはもういい笑顔で、この人はこういう顔をしている時の方が恐ろしいと分かっている。


 家族がこんな顔をしているのは、ひとえに訪ねてくる人物が、トストマン子爵とそのご令息であるフェリクス様だからだった。



 約束の時間きっかりに訪ねてきたトストマン子爵は、エントランスホールに入るなり深く腰を折って頭を下げた。以前お見掛けした時よりも、お痩せになってしまった気がする。その顔色は酷く悪く、寒い日だというのにしきりに汗をハンカチで拭っていた。

 子爵に負けず劣らず、フェリクス様も顔色を悪くしていた。傲慢な様子は欠片も見えず、言葉も少ない。


 それは、父が応接間に促してからも変わる事はなかった。



「愚息が起こした度重なるブルーム家ご息女への非礼な行為、お詫び申し上げる。本当に申し訳ない」


 ソファーに並んで座ったトストマン子爵とフェリクス様は、揃って深々と頭を下げる。

 テーブルを挟んだ対面のソファーに腰を下ろしている両親は、顔を見合わせている。トストマン子爵はともかく、フェリクス様がそんな態度をとる事が初めてだったからだろう。


 一人掛けのソファーに座っているわたしも、少し離れた場所で壁に背を預けている兄も、一体これはどうなっているのかと唖然としていた程だった。


「アリシア嬢、本当にすまなかった。人のせいにするつもりはないが、自分にとって都合のいい事ばかり耳に残していたのだと思う。そのせいで、何度も貴方を傷つけてしまった」


 何て言っていいか分からずに言葉を探していると、それを待たずにフェリクス様が口を開く。その声色は、出会った当初のように落ち着いて優しいものだった。


「自分が裏切った事を棚に上げて、許してくれない貴方が悪いのだと思い込んでいた。全て自分の所業が招いた事にも関わらず、私が苦境に立っているのは貴方のせいだと。浮気だって、大した事ではないと思っていたのだろう。貴方が私との関係を築こうと努力してくれていた事を当然のように受け取って、いつしか……貴方は私の事が好きだから、何をしても許してくれると思っていたのかもしれない。本当に愚かで、慚愧ざんきえない」


 フェリクス様の自省する言葉に、兄の顔から笑みが消える。眉間には深い皺が刻まれていて、不快に思っているのは簡単に読み取れる。しかし口を挟むことはしないでいてくれるようだ。


 誰も手をつける事のない紅茶から、香りを含んだ湯気が立ち上っていく。

 暖炉の薪が爆ぜる音が、やけに大きく響いた。


「あの……不思議に思っていた事があるんですが、伺っても宜しいですか」


 わたしは深く息を吸ってから問いかけた。少し声が上擦ったのは、緊張しているのかもしれない。


「もちろん」

「フェリクス様は謹慎されていると聞いておりました。それなのにどうやって、お手紙や贈り物をして下さったのか不思議だったのです」


 わたしの言葉に、フェリクス様は眉を下げた。困ったように笑うその青い瞳が翳っている。


「……侍女長が協力してくれていたんだ。私の乳母をしていた女性でね、私を可愛がってくれて……私も彼女を信頼していた。彼女が言う言葉を鵜呑みにしていたのは、やっぱり私は都合のいい言葉だけを受け入れていたからなんだろう」

「その方は、何とおっしゃっていたんですか?」


 問い掛けにフェリクス様が言い淀む。その様子に、きっといい言葉ではないのだろうと察しはつく。

 わたしの問いに答えたのは、トストマン子爵だった。


「彼女が言っていたのは……”アリシア様は拗ねているだけだ”、”フェリクス様の気持ちを試しているのでしょう”など、そう言った言葉だったそうだ。彼女はフェリクスが大事で、悲しい顔をさせたくなかったからだと言っていたが……だからといってアリシア嬢に迷惑を掛けて良いわけではない。その言葉に流された愚息が一番悪いのは言わずもがなだ」

「その侍女長はどうしているのです?」

「執事をしていた夫も共に辞職して、夫婦で郷里に戻る事になった。郷里では息子夫婦が店をやっているから、そちらの手伝いをするそうだ」


 問うた父の声は相変わらず険しいものだった。それに気付いているだろうが、トストマン子爵は丁寧に答えている。


「私は数日のうちに領地へと戻る事になっている。もう貴方に会う事はないだろう。……本当に申し訳なかった。私が言える立場ではないのだが、貴方の幸せを願っている」


 そう口にするフェリクス様の顔は、何かを吹っ切ったような晴れやかな顔をしていた。

 自分が正しいと思っていたのに、実はそうではなくて。それを受け入れるのもきっと大変な事だったのだろう。

 同情するつもりも、憐れむつもりも全くないけれど……わたしもフェリクス様の幸せを願っている。



 この場はそれでお開きとなった。

 今回の件で更に慰謝料を支払うとトストマン子爵はおっしゃっていたけれど、それは父に一任させて貰った。わたしから特に何かを願う事はない。


 帰りがけにフェリクス様がわたしの側で足を止めたのは、予想外だったけれど。


「君があの彼と一緒に居る姿を見て、君が彼を信頼している事も、彼が君を大事に想っている事も分かったんだ。それで目が覚めたのかもしれない。私は君から貰うばかりで、君に何かをしようとしなかった。不快な思いをさせてばかりだっただろう。すまなかった」


 警戒する兄が聞き耳を立てている。これはあの彼・・・について説明しなければならないようだ。アインハルト様の名前を出さなかったのは、フェリクス様の気遣いだったかもしれない。


「元気で」

「フェリクス様もどうぞご自愛下さい。さようなら」


 子爵家の紋章が刻まれた馬車に乗って、トストマン子爵とフェリクス様は帰っていった。それを見送ったわたしは、これで本当に終わったのだと実感する事が出来たのだった。


 そして──兄に追及される前に、自室へと飛び込んだ。

 

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