31.それは、宵色
翌日のわたしの顔は、それはもう酷いものだった。
出勤したら上司とウェンディはぎょっとした顔でわたしを見ていたけれど、その反応も致し方ないと分かっている。
目の下に出来たクマが、化粧でも隠れてくれなかったのだ。
生気が無いなんてウェンディには言われるし、上司にはどこか悪いのかと心配までされてしまう。
クマが出来た理由は簡単で、眠れなかっただけ。
一睡も出来なかったのである。
家の前でフェリクス様に会ってしまって、一悶着あった事が原因ではない。それも中々に大変な出来事だったはずなのに、その後の衝撃に霞んでしまった。
まさか、ノアがアインハルト様だったなんて。
いや、でも今になって思えば重なる部分は多かったのかもしれない。だけれどもそんなのに気付けるわけもなく。
しかも彼は何と言ったか。
口説くだの、覚悟だの……あの時の事を思い出すだけで顔に熱が集まってくる。頭に触れる優しい手の温もりまで思い返されて、わたしは何度目かも分からない溜息をついた。
その溜息が余りにも大きかったものだから、慌てて周りを確認するけれど人影がない事に安堵をする。それもそうだ。いまわたしが居るのは、図書館の奥。滅多に人も来ない、専門書ばかりが並ぶ区域だからだ。
わたしは上司の命で、この場所で新刊の登録や補強作業を行っているのである。
そんな疲れた顔でカウンターに居るのもね、なんて言われてしまったけれど、それが上司の優しさなのは分かっている。眠ってもいいよ、なんて囁きまでされては気付かないわけもない。本当に眠ったりはしないけれど、その気遣いが有り難かった。
曇り空から降る雪が、強い風に煽られて窓に当たる。そんな少し暗い冬の午後。
遠くの空はもっと暗くて、斑模様の変わった空。館内の照明は全て灯されていて、時間さえどこか曖昧になってしまう。そんな空の色をしていた。
わたしは窓の隣にあるテーブルで、新しく入ってきた本に図書館のものであると示すための印を貼っていく。それから表紙を補強して、どこの棚に置くのかを帳面に記していく。
勤め始めた頃は難しく感じたけれど、すっかり慣れた今では一番好きな作業かもしれない。
次に手にしたのは推理小説。アインハルト様も好きだとおっしゃってた作家の新刊だ。つい先日に新しい本が出たばかりだというのに、もう次の本を出した事に驚いてしまう。
そんな事を思いながら、印を貼ろうとした時だった。
人が近付く事のない区画に、足音が響く。固い靴音は力強さを感じさせる。それが誰のものなのか、わたしの耳は既に覚えているようだ。
顔を上げた先、こちらに近付いてくるのは夕星の騎士様──アインハルト様だった。
「アリシア嬢、少しいいだろうか」
「はい、大丈夫です」
立ち上がって礼をしてから返事をする。……正直気まずい。昨日の今日で、どんな顔をすればいいのか。
内心で動揺しているわたしとは対照的に、アインハルト様は穏やかな笑みを浮かべて落ち着き払っている。……昨日の事は夢だったのかもしれない。
「借りたハンカチだが、やはり赤ワインが染みになってしまったんだ。申し訳ないが、これを代わりに使ってくれたまえ」
夢じゃなかった。
差し出された紙包みを両手で受け取りながら、わたしはゆっくり息を吸ってから言葉を紡いだ。
「お気になさらずとも良かったのですが……。開けても宜しいですか?」
「ああ。女性にものを贈る事には慣れていなくてね、気に入って貰えるといいのだが」
了承を得たわたしは丁寧に紙包みを開けていく。
中にあったハンカチは、薄紫に染められた美しいものだった。縁を飾る白レースは繊細で丁寧に編まれているのが分かる。
「こんなに素敵なものを宜しいのでしょうか……」
「貴方の為に選んだものだ。使ってくれると嬉しい」
「……ありがとうございます」
美しすぎて使えるかは分からないけれど、持ち歩こうと思った。両手でそのハンカチを持ち直すと、嬉しい気持ちが胸の奥から沸き上がってくる。
わたしの為に選んでくれたと言った。そんなの、嬉しいに決まっている。その気持ちを押し殺す事も出来ずに、わたしは笑みを浮かべていた。
「やっと笑った」
紡がれる声は、先程までよりも柔らかい。
そう、まるで──ノアのような。
「クマも出来てるし、疲れた顔してんな。眠れなかったのか?」
くく、と低く笑うその様はやっぱりノアで、違和感を感じてもおかしくないのに、何だか妙にしっくり来るのも当然の事なのかもしれない。
「……色々、ありましたもので。アインハルト様は──」
「ノアでいい」
わたしの声を遮った当人は、紫色の瞳を優しく細めている。
「二人の時は、ノアでいい」
「ですが……」
「その固い口調も無しだ。調子が狂う」
調子が狂っているのはわたしの方だ。
しかし本人がいいと言うなら、そうさせて貰おう。わたしが拒んだとしても、何度も同じやり取りを繰り返す羽目になりそうだから。
「……昨日はありがとう。あんたが一緒じゃ無かったら、もっと面倒な事になっていたと思うわ」
「いつも通りに迎えを頼んでいたら、会うことさえ無かっただろうからな。礼を受け取っていいものなのか悩むところだが……あの男のお陰で俺も踏み出せたってのは複雑だな」
「踏み出せた?」
「顔を晒すって事だよ。あんな生温い関係も嫌いじゃ無かったんだが、まぁ……潮時だったのかもしんねぇしな」
「……何て答えたらいいのか、分からないわ」
わたしだって同じ気持ちだったから。
あの時間を壊したくないのに、もっと深くまで知りたくて。踏み込みたいのに、それが怖くて怖じ気づいていたから。
きっとこの人は、あの分厚い前髪の下で、こんな風に笑っていたのだろう。
真面目で固い印象を与える美貌の騎士も、少し気怠げで猫背でよく笑う飲み友達も、そのどちらもノアなんだ。
改めてそれを感じると、昨日からのもやもやとした気持ちがゆっくりと晴れていくようだった。
「なぁ、明日は休館日だろ? お前の予定は?」
「午前中はお客様が来るの」
「午後は空いているなら、俺と出掛けないか」
ノアと、出掛ける?
その甘い響きに、わたしの胸は簡単に高鳴ってしまう。
「ええ、いいわよ。どこに行く?」
「甘いもんでも食いに行くか。昨日言っていたカフェでもいいぞ」
「わたしが婚約破棄を突きつけられたお店ね?」
「俺との思い出でも上書きしたらいいんじゃないか」
ノアと一緒に過ごしたら、フェリクス様とのあの時間なんて一気に霞んでしまいそう。
フェリクス様がうっすらと消えていく光景が脳裏に浮かんで、わたしは肩を揺らしてしまった。
「それもいいけど、本当にあのお店のチョコレートケーキは絶品なんだから。是非食べて貰いたいわ」
「それは楽しみだ。ゆっくり話したい事もあるしな」
低くなる声にさえ鼓動が跳ねる。
ノアはわたしに手を伸ばすと、目の下のクマを親指の腹でそっと撫でた。その優しい温もりが心地好くて、漏れた吐息は恋の色をしている気がする。
「迎えに行く。いいか?」
「いいけど……面倒じゃない? お店で待ち合わせてもいいのよ?」
「俺がそうしたいんだ」
「……じゃあ、お願い。楽しみにしてる」
「俺も。また明日な」
わたしの言葉に嬉しそうに笑ったノアは、頬を一撫でしてからゆっくりと離れた。軽く手をひらつかせてから、来た道を戻っていく。
その背を見送ったわたしは、握ったままのハンカチに視線を落とした。
ああ、これは──宵の色。
高鳴る胸を抑えるように、ハンカチを胸に抱き寄せた。
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