30.覚悟を

「アリシア、誰だその男は。まさか浮気をしていたというのか」


 眉間に皺を寄せながら、フェリクス様は怒気も露にわたしに詰め寄ろうとする。その剣幕に息を飲むと、ノアが一歩を踏み出してわたしの事を背に隠してくれた。


「お前は誰だ。彼女が私の婚約者だと知って近付いているのか」

「婚約は解消されているだろう」

「今は少し仲違いをしているだけだ。お前には関係のない話だろう。分かればさっさと去る事だな」


 ノアが肩越しに振り返る。

 顔は見えないのに彼の感情が分かるようだ。同情と、呆れ。そんな雰囲気が伝わってくる。


「……話が通じないの」

「よくこんなのを相手にしていたな」


 溜息混じりの声に、ただ頷く事しか出来なかった。


 そういえば、どうしてフェリクス様はここにいるんだろう。

 まだ何か喚いている元婚約者を、ノアの後ろから覗き見た。


 頭にはたっぷりと雪が積もっていて、フェリクス様が騒ぐ度にはらはらと落ちている。頭だけではなくて、巻いているマフラーにも、コートの肩も真っ白に染まってしまっていた。


 その様子からもここに長く居たという事は分かるけれど、わたしに何か用事があったというならば、家の者に取り次ぎを願えば良かっただけなんじゃないだろうか。

 何もこんな風に、わざわざ外で待たなくても……。


「……フェリクス様は、どうしてここにいらっしゃるのですか?」

「君に会いたかったんだ、アリシア。少しでも姿が見られたらいいと、そう思って来てしまった」

「いつからここにいらっしゃるのです?」

「そんなに長い時間ではないから、気にしなくてもいいよ」」


 別に気にしているわけではないんだけれど。

 にっこりとわたしに向かって笑みを向けるフェリクス様の手には、木製のカップが握られている。あれは露店で売っているホットワインの器だろう。


「そんな事よりもアリシア、こんな時間に男と二人いるだなんて感心しないな。君はそんな不埒な女性ではないと思っていたのだが……。いや、それも寂しい思いをさせた私が原因の一端でもあると思えば致し方ない。今回ばかりは君を許そう」


 怖い。


「フェリクス様、恐れながら申し上げますが……わたしとの婚約は既に解消されておりますし、それ以降の関係は何もございません。それにフェリクス様は謹慎をされているのでは? もうわたしに、ブルーム家に関わらないようにと子爵様に言われていたのではないでしょうか」

「うん? 婚約を解消しても、私達は想い合っているだろう? 私の手紙や贈り物を受け取ってくれているのは、そういう事だと思っていたが……」

「それらは全て送り返させて頂いております。申し訳ありませんが、中身を見ることもしておりません」

「な……っ」


 フェリクス様の青い瞳が驚愕に見開かれる。

 手紙や贈り物が子爵家でどんな扱いになっていたのかは分からないが、そもそも手紙などを送ってくる事自体が禁止されていたはずだ。


「……どうぞお引き取り下さい」

「今からでも私達は元に戻る事は出来ないのか。私を助けてくれないのか、アリシア」


 悲痛な声が雪の中に溶けていく。

 でも、きっとそれが本音。


 わたしを想っているわけじゃない。自分の立場を守りたいだけ。


 すっかり消えたと思っていたのに、裏切られた悲しみが、蔑ろにされた苦しみがわたしの胸を裂いていくよう。でもフェリクス様にとって、あの婚約破棄も些末な事にしか過ぎなかったのだ。

 震える心は言葉を織る事が出来ずに、ただ深い息だけが漏れた。


「諦めろ。アリシアを裏切ったのはお前だろう。彼女を思うのなら、もう姿を現さないべきだと思うが」

「誰に向かって口を利いている。これは私とアリシアの問題だ。お前には関係がない」

「関係はないが、俺にとってアリシアは誰よりも幸せにしたいひとだ。辛い思いをするのを見過ごせない」


 ノアの声は低く、凍りついているようだった。怒りを帯びた声は研ぎ澄まされた刃のようだ。

 その雰囲気に気圧されたように、フェリクス様が言葉に詰まる。ノアの後ろにいるわたしに視線を向けてくるけれど、わたしはもう応えるつもりもない。


 わたしの思いを感じ取ったのか、フェリクス様の目が据わった。わたしを、ノアを、蔑むような眼差しだった。


「平民風情が偉そうに……! お前に何が分かると言うのだ!」


 フェリクス様の手が動く。

 飛沫の音が雪へと落ちて、白を赤く染めていく。


 ひ、っ……と、声にならない悲鳴が漏れたのは、ノアの髪からそれが滴っていたからだった。


「ノア!」

「あー……冷てぇ」


 強く香る酒精。空になった木製カップがフェリクス様の手から落ちた。

 どうやらワインをかけられたらしい。雪を染めるのは赤ワインだと気付いて、わたしは安堵の息をついた。

 ノアが血を流しているのかと思ったのだ。


「大丈夫?」

「平気。だが……そろそろ頃合いか」

「え……?」


 小さな呟きは風に消える。

 ノアは長くて分厚い前髪をかきあげると、掛けていた眼鏡をまるでカチューシャのように頭に乗せた。


 ノアが顔を露にしている。 

 背中に隠されているわたしは、その顔を見ることが出来ていない。しかし真正面からノアの顔を見たフェリクス様の顔色が一気に悪くなった。


「お前、いや……あなたは……」

「失せろ」


 低くて硬い声──わたしは、その声を知っている気がする。

 肩を跳ねさせたフェリクス様はそれ以上何かを言う事もなく、踵を返したかと思った瞬間に走り去ってしまった。



 フェリクス様は何を見たというのか。いや、何というか見たのはノアの顔なんだけれど。

 わたしはバッグからハンカチを取り出すと、ノアの背に触れた。


「冷たいでしょう。うちで着替えて──」


 紡いだ言葉は、ノアが振り返った事で途切れてしまう。

 その夕星の瞳が、困ったようにわたしを見つめていたから。


「……アインハルト様」


 美貌の騎士が、ノアの姿でわたしの前にいる。

 ノアがアインハルト様だったという事は、もう分かりきっている事なのに、わたしの頭はそれを理解できていないようだ。

 いつも後ろに流していた髪は前髪だったんだな、なんて割とどうでもいい事ばかりが頭の中を廻っていた。


「やめてくれ、ノアでいい」

「どうして……」

「言っただろう。私は臆病で狡いのだと」


 ハンカチを差し出したまま止まっていた手に彼が気付く。ありがとう、とそれを受け取って、濡れた顔を拭いてから顔をしかめた。


「赤ワインだった事を失念していた。染みになってしまうかもしれない……新しいものを返そう」

「いえ、そんな……」


 動揺が治まらない。

 わたしはノアが好きで、ノアはアインハルト様で、ということは……わたしはアインハルト様に恋をしていた?

 それはまた違う気もするけれど、いや、今はそれはどうでもいい。


「アリシア嬢」

「は、はい」

「くく……っ。アリシア」


 思わずぴんと背筋を伸ばしてしまったわたしに、彼は可笑しそうに低く笑う。それがアインハルト様なのに、やっぱりノアで、わたしの頭はどうにかしてしまいそうだった。


「顔を見せれば口説いていいんだよな?」

「え?」

「よく言ってただろ。”顔を見せてから口説いてよね”って」

「あれは……」

「もう遠慮はしない事に決めた。お前も覚悟だけは決めておけよ」

「か、覚悟……?」

「俺のものになる覚悟を」

「え、ちょ……っ」


 わたしの頭にぽんと温もりが触れる。

 頭を軽く撫で乱した大きな手が、頭から頬へと滑り落ちた。


「おやすみ、アリシア。また図書館で」

「……おやすみなさい」


 何を言えばいいかも分からず、口から出たのは短い挨拶の言葉だけだった。

 それでも彼は満足そうに笑って、あとはもう振り返らなかった。


 雪が強くなってくる。

 風に煽られる雪花の中、わたしはその背を見送っていた。目を離す事が出来なかった。

 

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