29.帰路は美しい雪と共に
暖かな色の街灯に照らされた雪が、ゆっくりと降り落ちてくる様は何とも幻想的だった。時間がゆっくり進んでいるような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
隣を歩くノアは体を丸めて歩いている。歩く時も猫背気味なのは変わらないようだ。
「あ、見て。あのカフェのケーキって凄く美味しいのよ」
あまりりす亭に向かう時も通った道で、もう明かりも消えてしまっているカフェを指差す。厚いカーテンが全ての窓を覆っていて、中を窺い見る事は出来ないようになっていた。
「へぇ。おすすめは?」
「チョコレートケーキね。薔薇を模した飴細工が飾ってあって綺麗なの。ケーキ自体は甘さ控えめで、紅茶にもコーヒーにもよく合うのよ」
「気に入ってんだな」
「ええ。わたしが婚約破棄をつきつけられたお店でもあるんだけど」
わたしの言葉に驚いたのか、ノアが軽く躓いた。幸い転んでしまうような事はなかったけれど、長い前髪が揺れて少し乱れている。ノアはそれを片手で直しながら、溜息混じりの言葉を紡いだ。
「災難だったな。気に入りの店なのに、行きにくいだろ」
「いいえ、ちっとも。その後だって友人と一緒にケーキを食べに行ったもの」
「お前に繊細さを求めた俺が馬鹿だった」
「失礼ね、思い出の上書きよ。ケーキに罪はないもの。そんな事で美味しいものを食べ損ねるなんて、それこそ馬鹿げてるわ」
自分としては当たり前の事を言っているだけなのに、隣を歩くノアは低く笑う。その声が心地よく感じてしまうのは、その心に呆れだとか嘲りの影がないのを分かっているからだ。
「お前らしいな」
「褒め言葉?」
「もちろん」
「それならいいわ」
顔を見合わせて二人で笑う。
繁華街の喧騒はすっかり遠くなっていて、商店街ももうすぐ終わる。店は閉まっていても奥で作業をしているのか、幾つかの店ではまだほんのりを明かりが灯されていた。
ブルーム商会の本店もこの通りにあるのだが、明かりは消えて人の気配も感じられない。終業時間になったらさっさと帰る。それが商会にあるルールの内の一つでもある。
「お前んとこの店は誰もいないんだな」
「仕事が終わったらすぐ帰る事を徹底しているの。もちろん、どうしても残らないといけない時もあるけれど、それ以外は早く帰るのよ」
「へぇ……従業員の英気を養う為に?」
「父が早く帰りたいの。従業員が残っていたら父も帰れないから、皆に早く帰るよう急かしているのよ。だから終業後の掃除やごみ捨てだって、父や兄も率先してするんですって。こないだは店の前の掃き掃除をしていたら、秘書にお願いだからやめてくれって泣かれたそうだけど」
「王家からの覚えもめでたいブルーム商会の長が掃除をしていたら、そりゃ周りも驚くだろうな。親父さんはどうしてそんなに、早く帰りたがるんだ?」
わたしの帽子に積もった雪を、そっと払いながらノアが笑う。その手で今度は黒髪から雪を落とす。落とされた雪はふわっとその場で広がってから、ゆっくりと夜気に紛れていった。
「母に会いたいからよ。両親の仲の良さはずっと変わらない……ううん、もしかしたら年々増しているかもしれない」
「それはいい事だな」
「でしょ。だからわたしも、両親のようにお互いを想い合えるような結婚をしたかったんだけど」
「じゃあ俺んとこに嫁に来るか」
「”じゃあ”の意味が全く分からないんだけど。言ってるでしょ、口説くんだったら顔を見せてからにしてって」
「はは、確かに」
この男はさらりとそういう事を言うから困る。熱くなる頬をマフラーに埋めながらわたしは視線を足元に落とした。
ノアはどういうつもりでそんな事を口にするんだろう。わたしの事をどう想っているのか聞きたいのに、踏み込むのがまだ怖い。でももしかしたら、さっきの言葉は踏み出すための起爆剤になったのかもしれなかったのに、わたしはそれを軽口に流してしまった。
後悔の気持ちをぐっと胸の奥に押し込んで、わたしはバッグを肩に掛け直した。俯いていた顔を上げて、真っ直ぐに前を見る。
折角の時間を大切にしたいと、そう思ったから。
「今日のご飯も美味しかった」
「フライを食べた時のお前は凄い顔をしていたけどな」
「あら、それはノアもでしょ。あのタルタル、チーズで濃厚なのにハーブの香りが軽やかで食べやすかったわね」
「サーモンも肉厚だったな。キッシュのサーディンも塩気があって美味かった」
「分かる。卵の甘さと合うのよね、あの塩気が。……ノアは塩辛いものが好き?」
わたしの問いに、思案するようにノアが首に角度を持たせる。
こうして隣を歩いているとどうしてもノアを見上げる形になるけれど、大きな眼鏡のせいなのか、ノアの顔を下から覗き見る事は出来ないようだ。
「甘いものも食うけどな。どっちかっていうとしょっぱいものの方が好きかも。酒が進むだろ」
「確かにね。わたしはデザートを食べながらでも、お酒が飲めるけど」
「お前はまた別格だろ」
「何よそれ」
可笑しそうに二人で笑う。
いつの間にか住宅街まで足を進めていたらしい。見慣れた分かれ道で、右を指差して更に歩む。
「送って貰って今更なんだけど、遠回りになっていない? 疲れているのに悪かったわね」
「送るって言ったのは俺だろ。余計な気は回さなくていいんだよ」
「あんたの家ってどの辺り?」
「あー……アレだよ、実は俺は……何にすっかな」
「相変わらず言うつもりはないって事ね」
わざとらしく溜息をついて見せると、ノアの大きな手がわたしの頭をぽんと優しく撫でる。
「そのうちな」
「別に、あんたが話したくない事を無理に聞くつもりはないのよ」
「前にも言っただろ。俺は臆病で狡いんだって」
「……そう、だったかしら」
狡い、とは……ウーゾを飲みながら、そんな事を言っていたと思う。でも臆病って言っていただろうか。でもその言葉に聞き覚えがあるというか、最近ではないけれど誰かがそれを言っていたような……。
「お前、鼻の頭真っ赤だな」
「寒いんだもの。あんたは寒くないの? マフラーは?」
「気に入ってたのが古くなって、新しいのを買わなきゃなって思ってんだけど……面倒でな。編んでくれてもいいぞ」
「わたしが編み物なんて得意に見える?」
「どっちを答えても怒られそうなんだが」
軽口の応酬に笑いが漏れる。
夜だし、住宅街だし、声を抑えようとは思ってはいるのだけど、ついつい笑い声が大きくなってしまう。
雪をかぶった生け垣が見えてくる。ここを曲がれば門扉があって、そうしたら家に到着だ。
この楽しい時間ももう終わってしまう。それが何だか寂しくて、切なくて……次の約束をしようと口を開いた時だった。
角を曲がったノアが、わたしの腕を掴む。
どうしたのかと足を止めると、門扉に程近い街灯の下に人影がある。
頭に雪を積もらせたその人は──わたしの元婚約者である、フェリクス様だった。
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