28.シブーストよりも甘く
果物が踊る薔薇色ワインを一口飲む。
先程のフライで口の中を火傷してしまったようで、少しだけひりひりするけれど、これくらいならすぐに治るでしょう。食べたり飲んだり、お喋りするのに問題はない。
ふわりと昇るスターアニスの甘い香りを楽しんでから、スプーンで軽くいちごを潰した。いちごの香りが強くなって、ワインに甘酸っぱさが広がっていく。
今度はキッシュに手を伸ばす。
フォークで一口大に切ると、さっくりとしたパイの感覚が伝わってきて、もうそれだけで美味しそう。
口に運ぶとやっぱりパイがさくさくとしていて、卵の甘さに油浸けのイワシのしょっぱさがよく合っている。しゃきしゃきとした食感は玉ねぎだろうか。口の中が幸せで笑みが零れてしまう。
「あー美味しい。やっぱりあんたと一緒に食べるのって、美味しいわ」
「……俺もそう思ってた。だからあんまり食う気にもなれなかった」
「本当? それはお互い痩せちゃっても仕方ないわよね。またご飯が美味しくなったから、すぐに元に戻ってしまいそうだけど」
同じように思ってくれていた。
それを喜んでしまったけれど、その前に中々際どい発言をしてしまった気もする。ちらりと横目でノアを見るも、特段気にした素振りもなくキッシュを食べている。それに少し安心した。
キッシュを食べ進め、ロゼワインを飲む。
少し冷めたワインは飲みやすくて、わたしは一気に飲み干してしまった。グラスの底に沈んだ果物をスプーンで掬い取るのに苦心していると、ふと視線を感じてノアの方へと目を向けた。
表情が露になっているわけでもないのに、その口元に浮かんだ笑みは何かの感情を宿しているようだった。
「なに?」
「いや。お前は本当に……美味そうに食うなって思って」
「絶対違う事考えてたでしょ」
「可愛いなって思ってた」
「……馬鹿じゃないの」
優しく告げられる言葉に、わたしは目を丸くしてしまった。一気に顔が熱くなっていくのはお酒のせいだけじゃなくて。
どう答えていいかも分からないし、恥ずかしさと動揺と、その他にも色んな感情が混ざり合ったわたしの口から出たのは、悪態だった。
ノアはそんな悪態も気にした様子なく、可笑しそうに肩を揺らすばかりだ。
自分の顔がどうなっているのかなんて容易に想像がつくから、照れているのは簡単に読み取られてしまっているだろうけれど。
「エマさん、ホットワインのお代わり下さいな! またロゼで!」
はぁいと返事をしながらこちらに近付くエマさんは、わたしの顔を見て不思議そうに首を傾げている。
「アリシアちゃん、顔が赤いけど……もう酔っちゃった?」
「ち、違……っ、大丈夫だから。気にしないで」
わたしの隣ではノアが口元を抑えて肩を震わせている。笑っているのなんて一目瞭然で、何かを察したらしいエマさんはくすくす笑いながら厨房へと戻っていった。
ノアは笑いを堪える事でもっと可笑しくなってしまったのか、まだまだこちらに戻ってくる様子はない。
それならもう、ノアの分まで全部食べてやろう。そう思ったわたしは、フライを山のように小皿に積み上げると、程好く冷めたそれにソースを纏わせて、どんどん口の中へ運んでいった。
笑いが治まったノアに小皿に取ったフライを取られたり、最後のキッシュを半分こして食べたりしていたら、あっという間に料理は無くなってしまった。
今までだったら、キッシュも一切れ食べるだけ精一杯だったのに。いつもみたいな胸の苦しさも無くなって、以前のような食欲が戻ってきたようだ。お腹がいっぱいで、少しスカートが苦しい気もするけれど。
三杯目のホットワインを飲みながら息をつくと、酒精が濃くなっていた。少し酔いが回ってきたのかもしれない。
「今日のデザートはシブーストよ」
エマさんが両手にお皿を持ってやってくる。
わたしとノア、それぞれの前に置かれたのは、切り分けられたシブースト。綺麗なきつね色のパイ生地の上にはキャラメリゼされた林檎、その上にはふわふわのカスタードクリーム。一番上の艶々なキャラメリゼは灯りを受けてきらきらと輝いていた。
「美味しそう!」
美しい層に早速フォークを入れていくと、キャラメリゼがぱきぱきと割れていくのが気持ちいい。それをカスタードクリームに絡めてから口に運ぶ。軽いクリームは飴状のキャラメリゼと一緒に、口の中で溶けてしまう。
その口に林檎とパイ生地を入れると、一転してしっかりした歯応えが楽しくて美味しい。
「んん、美味しい。パリパリなのにふわふわで、シャキシャキのサクサクで美味しい以外に言葉が出てこないんだけど」
「うん、美味い」
「良かった。お代わりもあるから遠慮しないで言ってね」
わたし達の言葉に嬉しそうに笑ったエマさんは、手を振って厨房へと戻っていく。洗い物をしているマスターを手伝うようで、腕捲りをしながらだ。
「さっきの話なんだけど」
「さっき?」
「夢にお前は出てこなかったって話」
そういえばそんな事も言っていたっけ。
夢で会えたら、なんて可愛らしい願いは出来ない。夢だけじゃ、きっとわたしは満足できないもの。
シブーストを食べ終えたノアがフォークを置く。その拍子にわたし達の肩が触れた。
いつの間に、そんなに近い距離に居たんだろう。でも嫌なわけではなくて、恥ずかしいわけでもなくて、こんなにも傍に居られる事が嬉しくて。
「夢には出なかったけど、お前の事は考えてた」
「わたしを……」
「
「心配させてた?」
「そういうんじゃねぇよ。ただ、俺がお前を
何を答えていいか分からない。わたしも、ノアの事ばかり考えてた。でもそれは口にしていいんだろうか。
ノアはどんなつもりで、そんな事を言っているのか。考えがちっとも纏まらない。
でもその声が、シブーストよりも甘いように響いてきて、胸の奥がきゅぅっと締め付けられてしまう。
「はは。久し振りに飲んだから、もう酔いが回ってんのかもしんねぇ。今日は早めに帰るとするか」
わたしが何か言うよりも早く、自嘲めいた口振りでノアが笑う。それに少しだけほっとしながら、わたしもシブーストの最後の一口を飲み込んだ。
「疲れているのね。ゆっくり休んだ方がいいわ」
「お前も帰るなら送ってやるぞ」
「いいの? じゃあ甘えちゃおうかしら」
「その代わり徒歩だぞ」
「分かってるわよ」
いつものようにマルクに迎えを頼んでいるけれど、それは今よりももっと遅い時間を言ってある。今帰っても、マルクと行き違いになってしまう事はないだろう。
それに……このお店を出ても、まだ一緒に居たいと思ってしまった。
「エマさん、会計して。アリシアの分もまとめて」
「自分で払うからいいわよ」
「久し振りに会ったからな、奢ってやるよ」
「前回も奢って貰ったんだけど……」
「気にすんな」
「じゃあ遠慮なく。ご馳走さま」
ご馳走になってばかりだからお返しをしようと思っても、何をしているか分からないこの男に、何を贈れば喜んでもらえるのか検討もつかない。次に会えたら、その時はわたしが奢る事にしよう。そう思いながらコートのボタンをして、マフラーを巻いた。
わたしが帰り支度をしている間に会計を済ませたノアは、黒いコートを羽織った。コートのポケットから取り出した革の手袋をしながら、扉を開けてくれる。
いつもゆったりとした格好だし、髪も整えていないように見えるから、容姿に頓着しないのかと思っていたけれど。よく見れば纏う衣服もこのコートも、手袋だって上質なものだ。こだわりを持って選ばれたのが分かる。
ぼんやりとそんな事を考えていると、ノアの口が弧を描く。
「よし、行くか」
「ありがとう。エマさん、マスター、また来るわね」
「はぁい。今日もありがとねー」
エマさんとマスターに見送られて、わたし達は外に出る。
空を見上げると、はらはらと舞うような灰雪が降り落ちてくる。わたしもしっかりと手袋をしながら、街灯の下を歩き出した。
厚い雲に遮られて、星も月もその姿を隠している。
ノアと一緒に肩を並べて歩くと、見慣れた道が違って見えた。
いつもより少しゆっくりの歩調で、雪に足跡を残していった。
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