27.弾む心

 日中は少し暖かかったと思ったのに、夕方のこの時間は一気に冷えてしまっている。

 溶けかけていた足元の雪は凍ってしまって、気を付けて歩かないと滑って転んでしまいそうだ。

 繁華街も程近く、人通りも多いこんな場所でひっくり返るのは流石に避けたい。わたしは踏み込む足に適度な力を入れながら歩いていた。


 前にウェンディと一緒に行ったカフェの横を通りすぎる。

 先程聞いたウェンディの恋話を思い返して、マフラーの下で笑みが零れた。どうかうまくいきますようにと、あの笑顔がもっと花開きますように願うばかりだ。



 いつもの小路を進むと、今日も暖かな看板がわたしを出迎えてくれる。出したばかりなのか看板は雪をかぶっていない。


 扉を開けて中に入ると、カウンターには見慣れた黒髪の人がグラスを傾けているのが見えた。


「っ、こんばんは」


 わたしの声を聞いてかこちらへと向いたのは、少し癖のある分厚い前髪。頬にまでかかる大きな眼鏡もあって相変わらず目元は隠されているけれど、露になっている口元が大きく弧を描いた。

 体の線を拾わないゆったりとしたセーターで、少し猫背なところも変わらない。


「よう、元気にしてたか」

「それなりに。久しぶりね、あんたは元気だった?」

「俺もそれなりにってとこかな」


 ノアが隣の椅子を引いてくれる。コートを掛けてから、ありがとうと小さく告げてその席に腰を下ろした。


「いらっしゃい、アリシアちゃん」

「こんばんは、エマさん。これ、うちの母からシュークリームのお礼にって」


 厨房側からカウンターに近付くエマさんに、小さな紙袋を差し出す。首を傾げながらもそれを受け取ったエマさんは、中から小さな箱包みを取り出した。


「お礼なんて良かったのに。気に入って貰えたのかしら」

「ええ、それはもう。両親と兄、それから家令とハウスメイドと一緒に食べたんだけど、みんな美味しいって言っていたわ。ハウスメイドのドロテアなんて、自分も負けていられないってシュークリームの研究を始めたくらいよ」

「それは嬉しいわね。ね、あなた?」


 エマさんが肩越しに振り返ると、マスターが口元に少し笑みを乗せながら軽く頭を下げている。


「何の話?」

「こないだ、ここでシュークリームをご馳走になったの。お土産にも持たせて貰ったのよ」

「え、俺も食いたい」

「今日は違うデザートを用意してあるから、それを楽しみにしてて」


 箱を開きながらエマさんが口にする言葉に、わたしの期待値も膨れ上がる。食欲も戻ったのか、空腹を訴えてくるお腹を軽く擦った。


 エマさんが箱から取り出したのは花器。ころんとした丸いフォルムで背の低い、両手で包み込める程の大きさだ。それに革の持ち手がついていて、持ってきたわたしも可愛いと思うものだった。


「あら、可愛い。花器?」

「花器なんだけどお花を飾ってもいいし、キャンドルを入れてもいいし、何でも使えるんじゃないかって母が言っていたわ」

「素敵ね。これもアリシアちゃんのところの商品?」

「そうなの。気に入ったら今度お店にも来てね」

「もうかよっているわよ」

「ありがとう」


 くすくすと笑うエマさんはそれを両手に持って、色々な角度から眺めている。その度に綺麗とか可愛いとか言ってくれるので、わたしまで嬉しくなる程だ。


「やだ、私ったら注文も聞かないで。今日は何にする?」

「ロゼのホットワインを下さいな。それから何かお料理をお勧めで」

「はーい。ノアくんもそろそろ何か食べる?」

「じゃあ俺もお勧めで」

「かしこまりました。ちょっと待っていてね」


 足取り軽く厨房に戻るエマさんの向こうでは、マスターが小鍋にロゼワインを注いでいる。エマさんは花器をマスターに見せているようで、明るい声が響いている。


「痩せたな。食べてねぇんだろ」


 不意に掛けられた声に目を瞬く。

 答えようと口を開くも、ノアの方を見たらその言葉はどこかにいってしまった。


「あんたもね。頬のお肉が少し落ちたんじゃない? 忙しかったの?」


 そう指摘するとノアは片手で自分の頬に触れた。確かめるようになぞる指は相変わらず長くて綺麗だ。


「あー……まぁそんなとこ。俺がいなくて寂しかったか?」

「そうねぇ。あんたもそうでしょ? わたしに会いたかったんじゃないの?」

「おう、会いた過ぎてお前が夢に出るかと思った」

「思っただけで出なかったのね」


 久し振りの軽口に心が弾むけれど、これで間違っていないのかと内心では不安になる。いつもよりも距離が近いんじゃないかとか、声が上擦っていないかだとか、いつもみたいに出来ているのか気になって落ち着かない。

 それに、浮かれているのだと思う。久し振りに会う、ノアだから。


「お待たせしました」


 エマさんがカウンターにロゼワインを置いてくれる。それを受け取ったわたしは、甘い香りを思いっきり楽しんだ。薔薇色の中に沈んでいるいちごと薄切りの林檎がやっぱり可愛い。

 その後ろからやってきたマスターが、わたしとノアの間に両手に持っていたお皿を置いてくれる。ひとつはキッシュで、ひとつはフライだろうか。


「オイルサーディンと玉ねぎのキッシュ。こっちはサーモンのフライ。フライのソースはチーズとハーブが混ぜ込まれたタルタルよ」


 取り皿とカトラリーのセットを用意しながら、エマさんが説明してくれる。ごゆっくり、と言い残して厨房の奥に向かう二人を見ている間に、カチャリと食器の音がした。


「はいよ。まずキッシュな」


 見ればノアが取り分けてくれている。

 既に八等分に切られたキッシュを器用にお皿に乗せて、フォークを添えてわたしの前に置いてくれる。続いてフライも二つ程、ソースを添えてお皿に乗せると、またわたしの前に出してくれた。


「じゃ、乾杯」

「乾杯。今日もお疲れ様」


 ノアは白ワインを飲んでいるようだ。

 酒器同士が微かに触れて、澄んだ音が耳に届く。


 ホットワインを少し吹き冷ましてから口に運ぶ。うん、美味しい。

 甘いのにどこかさっぱりしているのは、絶妙な蜂蜜の加減なのか。果物の爽やかさなのか。これはすっかりわたしのお気に入りになってしまった。


 両手を組んで祈りを捧げる。

 いつもより少し早口だったのはご愛敬という事で、フォークを取ったわたしはまだ揚げ立ての音を奏でるフライにソースをたっぷりと乗せた。


 一口大のフライにフォークを刺して口に運ぶ。

 カリッとした食感の向こうから溢れ出てくる脂に、口の中が火傷してしまいそう。口を押さえながら熱い息を逃がしていると、隣から笑いを堪えるような呻き声が聞こえてきた。


 どうしたと問いたくても、熱くて口を開けない。

 涙目になりながらなんとか咀嚼すると、甘ささえ感じるその脂をやっと味わう事が出来た。しっかりとした肉質のサーモンは噛む度に旨味が零れてくる。


 何とかそれを飲み込む頃には、ノアは堪えきれなかったのかテーブルに突っ伏して体を震わせている。


「……何か可笑しかった?」

「くくっ……はぁ、っ……。美味そうに食べるなって思っただけ」

「美味しいけど、それで笑う?」

「悪い悪い。お前の食べる姿を見てんのが好きなんだよ。やっと見れたなって思って」

「……そう、なの?」


 体勢を起こしながら、笑い疲れたのかノアが深い息をつく。

 何となくそれ以上に文句が言えなくなったのは、彼が本当にそう思ってくれているという事が伝わってきたからかもしれない。


 一息ついたノアもフライを大きな口に運ぶ。

 そうしてやっぱり、わたしみたいに口を押さえて熱さを逃がす羽目になっていた。


 それを見ながら、今度はわたしが笑った。

 

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