26.閉館間際に
「なんだか落ち着いた?」
書棚の整理をしながらウェンディがそう問いかけてきたのは、もう夕陽もすっかり沈んだ頃だった。閉館時間が迫る館内には人が少ない。
カウンター業務はするから、本の整理をしてきて欲しいと上司に頼まれたのは、もう一刻ほど前の事だ。
「そう見える?」
「ええ、相変わらず痩せてしまっているけれど。まだ食べられないの?」
「食べてはいるのよ。少ない食事に体が慣れてしまったのか、すぐに満腹になってしまうの」
「少しずつでも食べる量を増やせたらいいわね」
「そうね、ありがとう」
押していたカートを目当ての棚の前で止めると、ウェンディが一冊の本を手に取った。ある恋愛小説の続刊で、それを棚へとしまっていく。
「恋を自覚して、それに振り回されてたのかもしれない。不安はあるけれど、それは今の関係を壊してしまうんじゃないかって事だけで。彼を想うと胸が温かくなるって、その気持ちを大事にしていこうと思ったの」
「ふふ、素敵ね。その方がアリシアらしいわ」
安心したようにウェンディが笑う。心配させていたのだ。
わたしはカートを押す手を止めて、ウェンディの手を握った。ほっそりとした柔らかな手。指先が少し荒れているのは、紙に触れる機会が多いからかもしれないし、わたしも同じ状態だ。
「ありがとう、ウェンディ」
「あら、私は何もしていないわよ」
「心配してくれていたでしょう。その気持ちが嬉しいの」
「だってあなたは私の大切な友達だもの」
当然とばかりにウェンディが笑う。ピンクの瞳がきらきらと輝いて、とても綺麗だと思った。
「さ、早く終わらせましょ」
「ええ」
ウェンディの手を離したわたしは、またカートを押し始めた。
そう言っても残りはあと数冊で、場所も
目当ての棚を確認しようと書棚に設置されている案内板を見ながら、そういえばと思って口を開いた。
「北の砦に赴任していた騎士様達は帰ってきたんでしょう? 帰還したときは何か式とか開かれないの?」
一団が今日の夕方に帰ってきた時、道の両端に女性陣が列を成して出迎えていた。高い声が響くのを図書館内で聞いていたのである。
「内々ではあるかもしれないけれど、壮行式のような一般の方も参列出来るものはないわね」
「そうなの。じゃあ団長の挨拶が見られないのは残念ね」
「……あのね、ここだけの話にして欲しいんだけど」
本を棚に入れたウェンディが、気恥ずかしげに口を開く。その声に宿る恋慕や羞恥に、聞いているわたしの鼓動まで跳ねるようだ。
「……今度ね、カフェにご一緒するの」
「団長と、ウェンディが?」
「そう」
顔を上げたウェンディの頬が朱に染まっている。隠しきれない嬉しさが伝わってきて、わたしの頬も緩むばかりだ。
「良かったわね。いつ? 団長から誘われたの?」
「アリシアったら。私よりもあなたの方が喜んでいるみたいだわ」
「だって嬉しいんだもの。ウェンディだってそうでしょう」
「それは、まぁ……そうだけれど。昨日ね、ラジーネ団長が本を返しに来たんだけど、その時にお手紙を頂いて。……次のお休みの日に、ケーキでも一緒にいかがですかって」
恥ずかしいのか、ウェンディの声が小さくなっていく。その時の事を思い返しているのか、漏れる恋慕の吐息がわたしの耳を揺らしていった。
それを聞いているだけなのに嬉しくなってしまうのは、やっぱりわたしはウェンディの事が大好きだからで。幸せになって欲しいと願う人だからなのだと思う。
「素敵ね。カフェに行ったら、またその時の話を聞かせてくれる?」
「聞いてくれるの?」
「もちろんよ。楽しみにしてる」
気持ちを映すように、わたしの声も弾んでしまう。
まだゆっくりと話を聞いていたいけれど、腕時計に目をやると閉館の時間が迫っていた。
「いけない。もう終わらせなくちゃ」
「私はこの二冊を持っていくから、そっちの二冊はアリシアにお願いしてもいい?」
「ええ、任せて」
カートを押すよりも、手で持って移動した方が早い程の冊数だ。わたしはカートから同じジャンルの本を二冊持つと、その場を離れた。
わたしが手にしたのは子ども向けのお伽噺だ。昔から伝えられているお伽噺に、美しい挿絵がつけられている。子どもでも読みやすいように大きな文字で紡がれたその本を、どんな人が手にするのかと考えるだけで楽しくなってしまう。
目的の棚はわたしの腰よりも下、子どもの手が届く場所だ。
床に膝をついて、美しい表紙が見えるように本を置く。きらびやかなお姫様のドレスは、きっと目を引く事だろう。
これで仕事も終わり、と一息ついた時だった。
こちらに急いで向かってくる足音がする。わたし達の履く靴が奏でる音よりも、もっと固い靴の音。
こんな閉館間際にどうしたんだろうと振り返る。
そこには、美貌の騎士様が居た。
「……アインハルト様」
「久し振りだな、アリシア嬢。変わりはないか」
膝をついたままだったわたしは慌てて立ち上がろうとするも、アインハルト様がすっと手を差し出してくる。その手に自分の手を乗せると、軽く引いて立ち上がるのを手伝ってくれた。
少し掌が固い、剣を握る人の手だ。爪は短く手入れされて、骨張った長い指。わたしよりも少し冷えた手だった。
「ええ、何もありませんでした。アインハルト様は……少しお痩せになられたのでは?」
頬の肉が少し落ちたのか、それとも疲労困憊なのか。もしくはそのどちらもか。
「砦の食事があまり合わなくてな。そういう貴方も痩せてしまっているようだが。体の調子でも悪いのか?」
「いえ、元気です。少し、食が進まなくて」
「食を楽しむ事が好き……だと聞いているが。何かあったのか」
誰がそんな事をアインハルト様に教えたというのか。
いや、食堂でいつもあれだけ食べていれば目にも止まってしまうかもしれない。
「寒い日が続いたからでしょうか。少し疲れてしまったのかもしれません。でももう大丈夫ですから」
「それならいいのだが……」
「アインハルト様は先程お戻りになられたばかりですよね? お帰りなさいませ。お疲れ様でございました」
「ありがとう。貴方にそう言って貰えると、疲れも取れる気がするよ」
にっこりと微笑むアインハルト様は相変わらず麗しい。
「もう閉館になりますが、何かお探しの本があるならお手伝い致しますよ」
「いや、そういうわけでは……」
言い淀む様子が珍しい。
アインハルト様は片手で自分の口元を抑えながら、視線を足元で彷徨わせている。
どうかしたのかと声をかけようとした時に、鐘がなった。
終業時間を報せる鐘であり、図書館の閉館を報せる鐘でもある。
「……閉館だな。また日を改めよう」
「アインハルト様?」
「本を探しに来たんだが、題名を忘れてしまってね。また後日、手伝ってくれたまえ」
いつものような、固いけれど穏やかな声。
何か違和感があるのだけれど、それを追及することはきっと許されていない。
わたしの頭にぽん、と触れて踵を返したアインハルト様は、振り返る事もなく歩んでいった。
アインハルト様は、もしかしたら……わたしに会いに来たんだろうか。
そんな都合のいい考えを自分で笑って、わたしは閉館作業をすべく足早にカウンターへと向かっていった。
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