19.約束の日、変わったお酒

 細かな雪が降っている。

 帽子をかぶっていない、こんな時に限って雪が強いのだから、溜息のひとつも漏れてしまうのは仕方ないだろう。


 わたしは『あまりりす亭』への道を急ぎながら、髪型を崩さないように気を付けて頭の雪を払った。

 いつもは下ろしていたり、ひとつにまとめている事が多いのだけど今日は違う。顔横の髪と前髪を編み込みにして、カチューシャのように留めている。髪留めも花を模した金細工で、若菜色の髪に似合っていると自分でも思う。いつもはしないけれど、今日は緩く巻いたりもして……端的に言えばお洒落をしているのだ。


 それが、何の為かだなんて……もう誤魔化す事が出来ないのも自覚している。

 少しでも可愛いと、あの男・・・に思ってもらいたいからで……それがどうしてかだなんて、理由はひとつしかない。あの男が気付くかは分からないし、望む言葉を掛けてくれるかも分からないけれど、それはそれでいいのだ。

 可愛い自分で在りたい。ただ、それだけ。そんな気持ちは初めてだったけれど、気分的には悪くない。


 今日も『あまりりす亭』の看板は温かな明かりを灯している。この明かりを見るだけで、ほっとしてしまうのはどうしてだろう。

 扉を開いて中を伺うと、カウンターには黒髪の男が座っていた。他にお客さんはいない。


「よう」

「こんばんは」


 顔を向けてきたノアの口元が笑みを浮かべる。

 ノアは自分が座っているのとは隣の椅子を引いてくれて、わたしはそこに腰を下ろした。脱いだコートを椅子の背に掛けて、少し冷えた指先を口元に寄せて温めると、隣から小さな吐息が聞こえた気がする。


「……何だか今日は違うな」

「え、分かるの?」

「そんだけ額が出てりゃな」

「何か言うことない?」

「可愛い」


 あまりにもさらりと紡がれた言葉に思考が止まる。瞬きさえ忘れてノアのことを見つめると、当の本人は可笑しそうに肩を揺らした。


「なんて顔してんだよ」

「え、それは……ノアがあまりにも素直だったから」

「なんだそれ」


 けらけらと笑う様子にわざとらしく肩を竦めながらも、わたしの口元は緩んでいた。

 気付いてくれた。可愛いと言ってくれた。それが嬉しくて、心臓がどきどきとひどく騒がしい。


「いらっしゃい、アリシアちゃん。今日はお任せでいいかしら?」

「こんばんは、エマさん。ノアが頼んでいたお酒なんでしょう? 楽しみにしてたの」


 エマさんはにっこり笑いながら頷くと、カウンターに背の高いグラスを二つ置いた。中は白く濁った液体で満たされているけれど……これが、ノアが頼んでいたお酒?


 グラスを取ったノアがわたしに一つを差し出してくれる。それを受けとったわたしは、グラスを掲げた。ノアがそれにグラスをぶつけて、高い音が耳に響く。


「いただきます」

「おう」


 奢ってくれると言っていたけれど、これはどんなお酒なのか。なんだかわくわくする気持ちを抱えながら、グラスにそっと口をつけた。


 ……甘い。だけど、結構強い。

 口の中に広がる甘い香り……これはアニスだろうか。それ以外にもスパイスやハーブが使われているのか、複雑な味がする。


「……不思議な味。なんだか癖になりそう」

「分かる。すげぇ美味いって言えねぇんだけど、飲みたくなるな」


 お互い、味の感想に大きな相違はないようだ。

 わたし達は顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。


「これ、なんてお酒?」

「ウーゾ。葡萄、干し葡萄もかな。それらを使った蒸留酒だ。そこに色んなハーブやら何やらを加えてこんな味に……なるんだな」


 わたし達の様子を見ていたエマさんがくすくすと笑みを漏らしながら、ボトルを掲げて見せてくれる。そのボトルに満たされているのは透明な液体で、グラスに満たされているものとは全く違う。


「お水で割ると白く濁るの。不思議でしょう」

「えー、面白い。割って飲むのが一般的なの?」

「強いお酒だからね。で、今日のおつまみはこのウーゾを使った貝の酒蒸しよ」


 両手に小振りのスキレットを持ったマスターが、わたし達の前にそれを置く。ふわりと漂おうアニスの香りも、お酒として味わうのとはまた違って食欲をそそる。

 湯気の向こう、ぱっくりと開いているのはあさりとムール貝。


「美味しそう」


 お祈りをしながら漏れてしまった声に、隣でノアが笑っているのが分かる。

 わたしはそれを気にしないで、早速とばかりに添えられているピックを取った。左手であさりの貝殻を押さえながら、貝柱にピックを刺す。くるりと回して簡単に外れたところを口に入れる。


「んんん、美味しい。ウーゾの風味も合っているのね。旨味が強くてすごく美味しい」

「うん、美味い。あー……なんか本当に癖になるな、この酒」


 グラスをぐいと傾けたノアが、酒精混じりの声で呟いた。

 それに大きく頷きながら、わたしもグラスを口に寄せた。


「これも合うわよ。小魚のフライ」

「絶対美味しいやつー!」


 エマさんがどこか悪戯っぽく、わたし達の前にフライの乗った皿を置く。艶めくタルタルソースが添えられたフライは揚げたてだと分かるくらいに熱を放っていた。


 早速とばかりにソースを乗せたフライを口に運ぶ。一口大だったから全部口に入れてしまったけれど、思った以上に熱くって、はふはふと熱の籠った吐息が溢れた。


「今日は元気そうだな」


 一気にグラスを傾けてウーゾの水割りを飲み干したノアが、穏やかな声で言葉を紡ぐ。フライを飲み込んだわたしは、口の中を冷やそうと同じようにグラスを傾けた。


「安心した」


 何でもない事のように言うけれど、その声はどこまでも優しい。

 胸の奥がずくんと疼く事を感じながら、わたしは小さく頷く事しか出来なかった。感傷を誤魔化すように、またフライを一つ、口に運んだ。


 用意されていたウーゾのボトルと水差しに手を伸ばしたノアは、慣れた様子で手ずから水割りを作っていく。ガラスのマドラーで混ぜると、グラスと氷が当たって綺麗な音が鳴った。


「俺もフライ食べたい」

「どうぞ」

「手が塞がってんだよ」


 水割りを混ぜながら、ノアが口を開く。

 ……いや、もう充分混ざっていると思うけれど。


 わたしの考えている事が分かっているだろうに、ノアは混ぜる手をやめようとしない。それどころか座ったまま、椅子をわたしの方に少しばかり近付ける。


「……仕方ないわね、奢りだし」


 わたしはフォークにタルタルソースをたっぷりと乗せたフライをフォークで刺すと、ノアの口元に差し出した。わたしは中々に恥ずかしかったけれど、ノアは全く気にした様子もなくフライを一口で食べてしまう。


「美味い。酒が進んでやばいな」


 フライを飲み込んだノアはようやく満足したのか、水割りを混ぜる手を止めた。

 わたしもフライを食べようと、手にしていたフォークに意識をやって……ようやく、自分のフォークを使ってしまった事に気付いた。


 気付いてしまうと、無性に恥ずかしい。

 だけどそれを口にする事も出来ないし、フォークを変える事だって出来るわけがない。だってちらりとノアを窺うも、何も気付いていないようだったから。


 わたしも何も気付いていない振りをしながら、そのフォークを使ってフライを一つ口に運んだ。

 美味しかったはずなのに、熱さばかりで味がよく分からない。熱くなる体を冷ますように、グラスを口に寄せてウーゾを一気に飲み干した。


 


 

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