18.揺れる夕星

 前日、あまりりす亭で飲み過ぎてしまったようだ。

 ホットワインがあまりにも美味しくて、マルクが迎えに来るまでずっと飲んでいた。呆れられるかと思ったけれど、「飲みたい気分にもなりましょう」と優しい声を掛けられると、逆にどうしていいか分からなくなってしまった程だ。



 少し頭が痛むのは、まだお酒が残っているからかもしれない。

 こめかみのあたりを指で揉みながら、わたしは返却された本を本棚へ戻す作業をしていた。

 わたしの腰辺りまであるカートは三段で、八割方が埋まっている。大臣補佐の方々が稟議書類を作成する為の資料にしていた本が一気に返却されたのだ。

 カートを動かす度に、車輪が耳障りな音をたてる。微かなものだけれど、静かな館内では目立ってしまうだろう。あとで油を差さないと、なんて考えていた時だった。


「アリシア嬢」


 わたしの名を呼ぶ低音が誰のものなのか、もう分かっていた。

 振り返った先にいたのは、夕星ゆうつづの瞳を持つ騎士様──アインハルト様だ。


「こんにちは、アインハルト様。先日は檸檬の飴をありがとうございました」

「ああ。効いたようで何よりだ」


 笑みを浮かべるアインハルト様が美しすぎて、何か光を浴びているのかと勘違いをしてしまうくらいだ。

 しかしその笑みもすぐに消え、真剣な顔で声を潜めた。


「貴方の元婚約者が訪れたと団長に聞いたのだが……」

「はい。その節は助けて頂きました」

「今日は来ていないか」

「昨日トストマン子爵が家に謝罪にいらしたそうなのですが、ご令息には謹慎を申し付けたと仰っていたそうです。なのでもうお会いする事はないと思います」


 そう、昨日の日中にトストマン子爵が直々に謝罪に来たそうなのだ。

 今朝の朝食時にそれを聞いたのだけど、随分とやつれてしまっていたそうで。兄が言うには、祖父からかなり厳しく釘を刺されたらしい。


「そうか、それは良かった」

「お気遣いありがとうございます」


 ほっとしたようにアインハルト様が表情を綻ばせる。心配してくれていた気持ちが伝わって、それが何だか嬉しくて、わたしもつられるように笑みを浮かべた。


「手を止めさせてしまったな。今はなんの作業を?」

「返却された本を棚に戻していました」

「随分と大量だな。それに重たそうな本ばかりだ」

「建国以来の歴史書や、様々な統計資料などばかりですので」

「そうか。手伝おう」


 カートから一冊を取り出したわたしは、余りにも予想外の言葉に思わず固まってしまった。その間に、アインハルト様はわたしの手にしていた本をひょいと取り上げてしまう。


「あ、アインハルト様。いけません、それはわたしの仕事ですので……」

「見た目以上に重たいな。これはどこの棚に?」

「アインハルト様、だめです」


 確かに本は重たいけれど、これがわたしの仕事なのだ。騎士様にさせるわけにもいかない。

 しかしアインハルト様はわたしの声も気にした様子なく、穏やかな笑みを浮かべるばかりだ。


「戻ったら団長の稽古に付き合わなければならないんだ。少しここで匿ってくれたまえ」

「ここは図書館ですし、いらっしゃるのは構いませんが……」

「口止め料という事にしてくれたらいい。言っておくが私は引かないぞ」

「……ありがとうございます」


 悪戯に片目を閉じられて、わたしの心臓は撃ち抜かれてしまったようだ。というかこのアインハルト様の仕草にやられない人なんているのだろうか。

 少しだけ、と自分に言い訳をしながら、わたしは一つの棚を指で示した。


「その本は二段目の右にお願いします」

「場所が空いているこの場所だな。わかった」


 棚に戻してもらっている間に、別の本を手に取る。脚立に上ってわたしも本を戻そうとしたのに、その本まで奪われてしまった。


「高い場所は私がやろう。これは番号が振ってあるから分かるぞ」

「ありがとうございます」


 そう言うとアインハルト様は脚立に乗ることもなく、難なくと本をしまっていく。

 それなら甘えて、わたしは低い場所のものを戻していこう。


 カートを移動させて、また本を戻す。場所を教えて、その本について時折説明を求められる。そんな時間がとても優しくて、居心地が良いのが不思議だった。



 少しだけと思っていたのに、手際のいいアインハルト様と一緒だと、作業もあっという間に終わってしまった。

 カートを押しながら、人のいない棚間の通路を並んで歩く。陽が短いせいもあって、窓から差し込む光は少しずつ色を濃くしているようにも見える。



「貴方に薦めて貰った小説が面白くて、その作者の過去作も全て読んでしまったよ」

「お気に召して頂けて嬉しいです。わたしは『迷宮』が好きなのですが、アインハルト様は特別好きなお話はありましたか?」

「貴女もか。私も『迷宮』が一番面白かったな。まさか最後に全てがひっくり返されるとは思わなかった」

「あれは衝撃でしたね。思わず最初から読み直したのですが、さりげない伏線があの結末に繋がるとは思いませんでした」

「それでいて読後感が爽快としているのだから、あれは何度も読みたくなってしまうな」


 好きな小説の話題になって、思わず声が弾んでしまう。

 思わず大きくなってしまいそうな声を意識して鎮めながら、カートの持ち手をぎゅっと握った。


「ああいうお話がお好きでしたら、きっとお気に召す推理小説があるんです」

「それは是非紹介してくれたまえ」

「ではご案内しますね。……アインハルト様は推理小説以外もお読みになりますか?」

「恥ずかしながら貴方に薦めて貰うまで、文芸書は手に取らなくてな。アリシア嬢はどんな本を好む?」


 案内する先は、それなりに利用者が多い区画だった。

 アインハルト様を見た婦女子の方々が、声にならない悲鳴をあげる。その隣に居るわたしに怪訝そうな顔を向けるのも一瞬で、司書と分かれば興味を失うようだ。わたしを品定めするよりもアインハルト様を見つめていたいのだろう。


「わたしは何でも読みます。冒険小説も恋愛小説も、幼い頃に読み聞かせて貰ったおとぎ話も」

「今日は推理小説を借りるとして、今度は貴方のお薦めの冒険小説も紹介してほしい」

「かしこまりました。恋愛ものはお読みにならないです?」

「恋愛小説か……」


 目的の棚の前で足を止める。

 本の下側、作者の名前を指でなぞって本を選ぶ。目当ての一冊を抜き出してアインハルト様に差し出すと、アインハルト様の視線は別の棚の方へと向かっていた。


 そこにあるのは恋愛小説。わたしも読んだ事のあるものばかりだ。

 アインハルト様は、その本達の背表紙を長い指先で撫でながら溜息をつく。


「それを読めば女性の心も分かるようになるだろうか」


 意外な言葉に目を瞬くと、アインハルト様は肩を竦めた。


「この見目だ、注目を浴びては居るが人の気持ちというのはままならないものだからな」

「そう、なのですか」

「貴女が思っているよりも、私はずっと臆病な男なんだよ」


 アインハルト様の零した言葉は、どこか自嘲めいているようにも聞こえて、それに返す言葉をわたしは持っていなかった。

 わたしに向き直ったアインハルト様は、わたしが差し出したままだった本を両手で受けとる。


「これが貴方のお勧めだな。ではこの本を借りよう」

「は、はい。かしこまりました」


 いつものように、にっこりとアインハルト様が微笑むけれど、その瞳の明星が揺れているように見えたのは、わたしの気のせいだったんだろうか。

 本を手にして去っていく後ろ姿が見えなくなるまで、わたしは目を離すことができなかった。

 

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