17.口説くなら顔を見せてからに
「で? 元婚約者が家に来て、他には?」
頭から離れていく温もりが恋しいだなんて、わたしはもう酔っぱらっているのかもしれない。
そんな思いを振りきるように、お肉を口の中へと運びながら頷いた。
「図書館に来たの」
「は?」
「元婚約者が図書館に来たのよ」
「いつ」
「一昨日」
顔は見えなくても、唖然としているのが雰囲気でわかる。いつもは飄々としているノアが、そんな雰囲気を漂わせているのが無性におかしくて笑ってしまった。
「そんな話聞いてねぇぞ」
「言ってないもの。あんたと会うのも久しぶりでしょ」
「あ、いや、それもそうだな……」
「変なノア」
「予想外過ぎたんだよ」
肩を竦めたノアは赤ワインのグラスを一気に傾けて、空にしてしまう。おかわり、とエマさんに頼むとすぐにまたグラスが満たされた。ビロードみたいな滑らかな赤がグラスの中で波打っている。
「アリシアちゃん、パンはいる?」
「くださいな」
にっこり笑ったエマさんは、ロールパンの乗ったかごをわたし達の前に出してくれる。温めたばかりなのか、まだほかほかと熱を持ったパンを二つに割ると湯気が立って消えていく。もうその湯気までもが美味しそうで、わたしの頬は緩むばかりだ。
「あー……何だった? 元婚約者が図書館に来て……?」
「ええ、復縁を求められて、断って。手紙やら何やらと同じやりとりなんだけど……今までと違ったのは、お相手のご令嬢と別れたんですって」
「お前とやり直すために?」
「そう言っていたけれど、結局はお相手のご令嬢も傷付けるだけになったわよね。それに、もうわたし達には関わらないように子爵家から言われている筈なんだけどね。子爵家にも、わたしのお祖父様の家から苦言がいっているし」
「頭悪い奴に何を言っても聞きゃしねぇだろ」
「それも実感してる」
一口大にちぎったパンに、ワイン煮のソースを乗せて口に運ぶ。鶏と野菜の旨味がたっぷり詰まったソースは濃厚で、柔らかなパンに簡単に染みていく。それがとても美味しくて、わたしはあっという間にパンを一つ食べ終わってしまった。
「それ美味そう」
「すっごく美味しい」
もう一つだけ、とパンを手にしたわたしは、同じように千切ったパンをソースに浸す。それを口に運ぶよりも早く、ノアに手首を掴まれてしまった。何だと問うよりも早く、手首を引き寄せられて、ソースたっぷりのパンはノアの口の中へと消えていった。
「わたしの!」
「うん、美味い」
「自分で食べなさいよね」
「一口だけでいいんだよ。で、その元婚約者はすぐに帰ってくれたのか?」
わたしはまた同じようにしてソースに浸したパンを口に運びながら、首を横に振った。
手首が、指先が、熱いのは気のせいだと言い聞かせながら。
「騎士団長様が助けて下さったの。騎士団の方って優しい方ばかりなのね」
わたしの言葉に、ノアは両のこめかみを指で押さえながら深い深い溜息をついた。
「ノア?」
「……何でもねぇ」
そういえば……わたし達の距離がいつもより近いような? そうだ、いつもは椅子一つ分の距離が空いているのに、今日は違う。
まぁ今まで距離を空けていたのは、わたしに婚約者がいたからであって。他にお客さんがいるわけでもなし、そこまで気にしなくてもいいのかもしれない。
「それでね、昨日は誰が来たと思う?」
「……その口ぶりだと、浮気相手の男爵令嬢だろ」
「ご名答! よく分かったわね」
「災難続きでお前が可哀想になってくるぜ」
パンを食べ終えたわたしは、まだ湯気を立てているパンかごへと目を向けた。美味しいけれど、食べたいけれど、これ以上食べるのは危険な気もしている。伸ばし掛けた手を意識して引っ込めるも、名残惜しげな視線を送るくらいは許されるだろう。
「わたしもそう思うわ。彼女はね、元婚約者の顔とお金目当てで近付いたってはっきり言ったの。もうびっくりしちゃった」
「あー……お前の元婚約者、顔はいいもんな。でも裕福なわけじゃねぇだろ?」
「よく知ってるのね。ブルーム商会からの援助があったから、羽振りよくしていたみたい。それもこの婚約解消で打ち切られたけど。それでね、愛人として認めてあげるから援助を続けなさいなんて言われちゃって」
「バカ女」
「口が悪い」
悪態をついたノアは低く笑ってグラスを傾ける。
わたしはナイフとフォークを持ち直すと、またお肉を切り分けた。骨からするりとほどけるお肉を口に運ぶと、いっぱいに広がる旨味に吐息が漏れてしまう。
「男爵家の事も祖父にお願いしたの。これでもう終わりになるといいんだけれど……」
「それで引くような頭を持っていねぇだろ」
「怖いこと言わないでよ。
「はは。いっそお前が別の相手を見つけたらいいんじゃねぇの?」
「簡単に言わないでよね。わたしは婚約解消をした身だし、中々難しいものよ」
「じゃあ俺にしとくか」
言葉遊びと分かっていても、その声がなんだかひどく優しく聞こえて。
思わずノアの顔をまじまじと見つめるも、相変わらず分厚い前髪で顔なんて全然分からない。どんな気持ちでそんな事を口にしているのか読み取れないのが悔しくて、わたしは誤魔化すように肩を竦めた。
「……口説くなら顔を見せてからにしてよね」
「違いねぇ」
可笑しそうにノアの唇が弧を描く。
良かった、これで間違ってなかった。こうして冗談めかして、それで良かったんだ。
胸の奥のもやもやを流してしまいたくて、わたしは残ったワインを一気に飲み干した。
もう今日は飲んでしまおう。このもやもやも、胸の奥が疼くのも、すべて忘れてしまえるように。
「エマさん、おかわりくださいな!」
「はいはい。同じものでいい?」
「んん……ホットワインにしようかな。今度は白で」
「あ、じゃあ俺も」
「かしこまりました」
にっこり笑うエマさんが厨房へと顔を向ける。頷いたマスターは既にワインを小鍋に注いでいる。蜂蜜、それから檸檬とオレンジだろうか。スライスされた果物をマスターが慣れた手つきで入れていく隣で、エマさんはころんと底が丸まったグラスをふたつ用意している。
「ああ、そうだ。ノアくん、頼まれていたお酒、明後日には入るわよ」
「やった。じゃあ明後日に来るから、何か合う肴をよろしく」
カウンターを振り返ったエマさんの言葉に、ノアは声を弾ませる。
「何か頼んでいたの?」
「ああ、飲んでみてぇのがあって。お前も来いよ。奢ってやるから」
「いいの? じゃあ遠慮なく」
明後日。
次の約束をするのは初めてで、それだけでわたしの心は弾んでしまう。
いつまでそれに知らない振りを出来るのか、それは考えたくもなかった。
カウンターに置かれたホットワインは、シナモンの香りがした。
とても優しい、甘い香り。
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