16.優しい手
次の日、帰宅するわたしを待ち構えている人はいなかった。
それにほっとしながらも、何となく周囲を確認しながら、わたしは家へと別の場所へ向かう。
ゆっくりと落ちてくる雪が積もる中で灯されているのは──『食事処あまりりす亭』の看板だ。相変わらずその明かりを見るだけでほっとする。
わたしは扉を横に滑らせるように開いて、中へと入った。
「いらっしゃい、アリシアちゃん」
「こんばんは」
一人居たお客さんはもう帰るところらしい。お会計を済ませたその男の人の為にドアを開けると、会釈をしてくれた。その顔がお酒で赤らんでいる。
他にはお客さんはいない。
わたしはカウンターの右から二番目の席に腰を下ろした。コートを椅子の背に掛けて、帽子や手袋をバッグにしまう。
「今日は何にしましょうか」
「白ワインと、それに合う食事を何か。おまかせで」
「はい、かしこまりました」
にっこり笑うエマさんは今日も綺麗だ。動く度に頭に飾る大輪花が小さく揺れて可愛らしい。
すぐにカウンターに置かれたグラスを手に取ると、軽く掲げてから唇に寄せる。花のような香りが鼻を抜けていく。口触りは軽やかで甘味が強い。うん、美味しい。
「なんだか疲れた顔をしているわね。大丈夫?」
「ちょっと色々あって。でもエマさんの顔を見たら元気が出ちゃった」
「あら嬉しい」
くすくすと笑うエマさんは、わたしの前に小皿を置く。小皿の中身はピーナッツとピスタチオ、くるみだった。早速とばかりにくるみをひとつ口に入れると、塩がまぶしてあってとても美味しかった。
ガラリと扉の開く音がする。
ピーナッツを口に入れながらそちらを見ると、頭の雪を払いながらノアが入ってくるところだった。
「よう」
「こんばんは。最近よく会うわね」
「俺も結構来てるからな」
「わたしに会いたくて?」
「自炊すんのがめんどくせぇ」
けらけらと笑うノアはわたしの隣の椅子を引く。脱いだコートを綺麗に畳んでから椅子の背に掛けて、それから座った。
「エマさん、エール頂戴。あとなんか適当に出して」
「はぁい」
エマさんの向こうで、マスターが頷いている。
相変わらず無口だけど、エマさんを見つめるその眼差しはいつだって優しい。
「お前、風邪は? 治ったの?」
「だいぶいいのよ。風邪に聞くっていう飴を舐めていたからかしら」
「良かったな。やっぱり檸檬って聞くんだな」
「ん? ええ、そうね……?」
なんで檸檬の飴って知っているんだろう。
用意されたエールのジョッキを受け取りながら、ノアは不思議そうに首を傾げる。
「なんで檸檬の飴って知っているのかと思って」
「あ? ……檸檬の飴は知らねぇけど、エマさんが檸檬に蜂蜜混ぜたのを用意してくれてただろ」
「あ、そっか」
そっちか。確かにあれも美味しかったし、喉に優しかったなぁ。
わたしが納得して頷いていると、ノアがジョッキを掲げてくる。わたしも白ワインのグラスを掲げると、酒器同士が触れ合って高い音がした。
「最近どうよ。落ち着いたか?」
「それがそうでもないのよね」
「愚痴なら聞いてやるぞ」
「ありがと。でも最近ずっとわたしの愚痴になっているでしょ。なんだかそれも申し訳なくて」
「変な気を回すんじゃねぇっての。話を聞くくらい、いくらでもしてやるよ」
ノアの薄い唇が笑みを描く。
柔らかな声が耳を擽る。……いやいや、わたしどうしたんだ。
「ありがとう。じゃあ遠慮なく」
「おう。それに世の中には変わったやつもいるんだって思えるからな。面白ぇわ」
「ちょっと、わたしの不幸で楽しまないでよね」
揶揄めかすと可笑しそうに肩が揺れた。
ノアが小皿に手を伸ばして、ピスタチオを持っていく。つまみやすいように互いの間に置いてやると、今度はくるみを持っていった。
……よく見ると綺麗な指をしていると思った。少し骨張った長い指は男らしいのに、とても綺麗だ。短く整えられた爪と、よく見れば手の平は固くなっているような……いや、何を見ているんだわたしは。
羞恥を誤魔化すように白ワインをぐっと呷った。
「……元婚約者が家に来たりもしたんだけど、まぁそれはいいのよ」
「いいのかよ」
「わたしは会ってないし。話が通じなくて、対応した家族はぐったりしていたけれど」
そこまで話したところで、ふわりといい匂いが鼻を擽った。香ばしい匂いに誘われてカウンターの向こうを見ると、エマさんが湯気たつお皿を両手に持っている。
「今日のおすすめはこちら、鶏の赤ワイン煮よ」
「美味しそう。エマさん、赤ワインくださいな」
「俺も」
「はいはーい」
これには絶対赤ワインでしょう。
わたしとノアの前に置かれたお皿には骨付きの鶏肉。小玉ねぎとマッシュルームがころんと何とも可愛らしい。
手を組み祈りを捧げてから、ナイフとフォークを手にする。柔らかく煮込まれているからか、ナイフがすっと入って骨とお肉が簡単に切り離される。
小さく切り分けたお肉を口に運ぶ。広がる赤ワインの香りと、焼くことで閉じ込められていたのだろう肉汁が合わさってすっごく美味しい。
ほろりとお肉が崩れていく。お肉に野菜の旨味が染み込んでいるのがわかる。
「んんん、今日も美味しい」
「うん、美味い」
「良かった。ぶつ切りの鶏肉も入れているんだけど、そっちは雛鳥だからもっと柔らかいわよ」
小玉ねぎが口の中で溶けていくのを楽しんでから、これかなと思うお肉を口に入れる。やっぱり雛鳥だったようで本当に柔らかい。
「こっちのお肉も美味しい~!」
「美味いけど俺は骨付きが好きかな。旨味が強い」
「それもわかる。どっちも美味しい」
カウンターに置かれた赤ワインを口に含むと、スパイシーな芳香が口の中いっぱいに広がっていく。飲みやすい辛口で、ふぅと吐いた息は酒精が濃い。
「はぁ……美味しいもの食べてる時が一番幸せ」
「疲れてるから余計に染みるんだろ」
「それもある。……ずっとこうやって居られたらいいのにな」
ここを出て、また明日。
今日は突撃されなかったけど、明日はどうか分からない。
毎日そんな不安を抱えるのは、正直なところ心が辛い。
思わずそんな言葉を漏らすと、頭にぽんと温もりが乗った。ノアが頭を撫でている。
「……ノアが優しい」
「泣きそうな顔してたからな」
そんな優しい声で、そんな優しい手で撫でられたら本当に泣いてしまいそう。
胸の奥が疼く。いや、そんな事よりも、この温もりをわたしは知っている気がする。
思い出せないそれは頭の端に追いやって、わたしはグラスを口に寄せた。頭に触れる手をほどくこともせずに。
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