20.真意を問えず
空になったわたしのグラスをノアが取る。
ボトルからウーゾを注いで、お水を足す。ウーゾとお水が触れた場所から濁っていく様は見ていて何だか面白い。マドラーでかき混ぜられて全てが白くなっていく。
わたしの心も、いつかこうして混ぜてひとつにする事が出来たらいいのにな……なんて、何を考えているんだろう。やっぱりウーゾは強いお酒だ、思考が纏まらなくなっている。
「薄めにしたけど無理すんなよ」
「ありがと」
差し出されたグラスは、ついていた筈の水滴が綺麗に拭き取られている。気遣いに感謝しながらグラスを受け取って、早速口に運んだ。
ノアの言う通り薄めだからか、先程よりもさっぱりしていて、うん、飲みやすい。
「ねぇアリシアちゃん」
掛けられた声に顔を上げると、エマさんがにこにこと笑っている。その頬が少し赤いのはお酒のせいかもしれない。手にはエールで満たされたジョッキがしっかりと握られているからだ。
「ちょっと聞いてもいい?」
「どうぞ」
何だろうと不思議に思いながらも、もちろん頷いた。ウーゾを含んだ口中は、アニスの甘い香りでいっぱいだ。
「ジョエル・アインハルト様とはどうなの?」
「……ごほっ、っは……!」
噎せたのはわたしではない。
口中のウーゾを吹き出しそうになったけれど、わたしは何とか耐えた。
ノアは激しく咳き込むとポケットから取り出したハンカチで口元を拭っている。
「ちょっと大丈夫?」
「ノアくんが珍しいわね。お水いる?」
「……大丈夫。ちょっとぼーっとしてたら変なとこに入った」
また軽く咳をしてから、ノアはまたグラスを口に寄せた。今度は噎せないで飲めたようだ。
「昨日ね、図書館に行ったのよ。異国レシピの料理本を借りたいと思って。アリシアちゃんにも声を掛けようと思ったんだけど、騎士様と一緒に居るところを見ちゃったから」
「あー……お勧めの本の場所まで案内していただけですよ」
「そうなの? 何だか仲良さげに見えたから──」
どこか楽しそうなエマさんの言葉は途中で遮られた。苦笑いのマスターが腕を掴んで奥まで引っ張っていってしまったからだ。
別にアインハルト様と何かがあるわけでもないし、
ぷりぷりの身を口に運ぶと、広がるのはやっぱり旨味。ウーゾの香りのその奥から潮香が鼻を抜けていく。あさりとはまた違った味わいで、こっちも美味しい。
「仲いいんだ?」
「え?」
酒蒸しを堪能していると、隣から掛けられた声に目を瞬く。
何のことだと思ったのも一瞬で、それが先程のアインハルト様との件を指しているのだとわかった。
「仲がいいってわけじゃないのよ。前に本をお勧めしたら、それを気に入って下さったようなの」
仲がいいのとはちょっと違う。
わたしは仕事をしただけで、アインハルト様だって本を気に入っただけ。声を掛けて下さる事が増えたのは、きっと最近は招かれざるお客様が多いからで……うん、それだけ。
「お前はどう思ってんの?」
「……アインハルト様を?」
相変わらず分厚い前髪で顔が隠れているノアは、いま、どんな顔でわたしを見ているのだろう。
「……あー、やっぱりいいや」
「え、あ……うん」
「狡いもんな」
「狡い?」
「……何でもねぇよ」
知らない間に、わたし達の空気感は少し緊張していたようだ。
いつものようにノアが笑うと、その雰囲気が一気に和らいで……それに安心してしまった。だからわたしはノアがどんな気持ちでその言葉を口にしていたのか、問うことが出来ないでいた。
きっとそれは、今のわたし達にはまだ早いのだと、自分に言い聞かせて。
他愛もない話をしながらお酒を楽しむ。
あっという間にグラスは空になってしまったけれど、続けて飲むにはウーゾはちょっと強すぎる。そう思ったわたしは、グラスにお水だけを注いだ。
「大丈夫か?」
「ええ、ちょっと休憩」
「違うものを頼んでもいいからな」
「ありがと。でも珍しいお酒だからもう少しこれを飲みたい気もするし。……そういえば珍しいわね、お酒を取り寄せてもらうなんて。初めてじゃない?」
冷たい水で喉を潤すと、火照っていた体がゆっくりと落ち着きを取り戻していくようだ。グラスで冷えた手の平を、熱を持つ頬に添えながら思ったままに言葉を紡いだ。
ノアは手にしていたグラスを、くるりと回しながら小さく頷いた。
「……しばらく来れねぇんだよ。だからその前に、飲みたい酒でも飲んでおこうかなって」
「そう、なの……?」
しばらく来れない。
その言葉は思った以上にわたしに衝撃を与えたようだ。自分でも驚くくらいに声が上擦っている。
「しばらくっても一ヶ月くらいか。ま、お前と飲むいい口実にもなったけどな」
「本当に何をしているか謎な男よね」
「あれだよ、あれ。……実は隣国の王子なんだよ」
「隣の王子さまはまだ七歳だったと思うけど?」
「じゃああれだ。あー……」
「言うつもりがないって事だけは分かったわ」
大袈裟に溜息をついて見せると、可笑しそうにノアが笑う。
わたしに向かって伸ばされた手が、そっと頭に乗せられた。優しく頭を撫でる手は、髪型を崩さないようにと気遣っているようだ。
「しばらく話を聞いてやれねぇけど、無理すんなよ」
「……そうね。あんたも、わたしの話が聞けなくて寂しいだろうけど」
「図書館でまた絡まれるような事があったら、すぐに逃げろよ。騎士団の事も頼れるだろ」
「そうならない事を願うけれど。……随分心配してくれるのね?」
「お前の事は気に入ってんだ。そうは見えねぇかもしれないけど」
気に入ってる。
それはどういう意味なのか、問い質してもいいんだろうか。わたしと
頭の中がぐるぐると沸騰してしまいそうなところで、わたしが口を開くよりも早くにノアが笑う。
頭に触れていた手を下ろしたかと思えば、その指先でわたしの額を強くつつく。
「何て顔してんだ」
「だって、ノアが変な事言うから」
「はは、それは悪かった」
わたしの抗議もどこ吹く風で、ノアは低く笑うばかりだ。
ぐいと水を飲み干したわたしは、無言でグラスをノアに向ける。はいはい、と軽い調子で受け取ったノアは綺麗な手付きでウーゾの水割りを作ってくれた。
受け取ったそれを飲みながら、わたしはこの時間が止まる事を願っていた。そんな事が叶うわけはないけれど……この夜が終われば、一ヶ月近くは会えないから。
それが凄く寂しくて、少しでも時間を引き伸ばしたくて。
もちろん、そんな事は出来なかったけれど。
マルクが迎えに来てくれた帰り道、馬車の窓から見た空に星は無かった。
ゆっくりと落ちる綿雪が、音を飲み込んでしまったかのように静かな夜。
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