14.笑みと本性
お祖父様からトストマン子爵家にお話があった後、トストマン子爵から今まで以上に丁寧な謝罪のお手紙が父の元へと届いたのだという。
これでやっと静かになる、と思っていられたのは──たった二日間だけだった。
「アリシア、久しぶりだね」
職場である図書館のカウンターで業務にあたっていたわたしの前で、
ここは王立図書館。貴族平民の身分も関係なく、誰もが本を楽しめる場所。だからフェリクス様がここにいてもおかしくはないんだけど……。
「お久し振りです、トストマン様」
カウンターの中から頭を下げる。平常心平常心。
「固いな。今までのようにフェリクスと呼んでくれたらいいのに」
「そのような関係ではございませんし、無礼にあたりますので」
貼り付けた笑みはきっと固いだろう。
カウンター内でわたしと同じように業務にあたっているウェンディが心配そうにこちらを見ている。
「そうか……。ねぇアリシア、少し話したいんだけどいいかな?」
良くはない。
だけどこのまま引き下がってはくれないだろう。
腕時計に目を落とすと、もう少しでお昼休みになるところだった。少し早いけど、休憩に上がらせてもらおう。
「ウェンディ、早めに戻るから先に休憩を取ってもいいかしら」
「もちろんよ」
にこりと送り出してくれるウェンディが、囁くように「気を付けて」と口にする。それに小さく頷くと、椅子の背に掛けていた大判ストールを羽織ってからカウンターを出た。
正面の扉をフェリクス様が開けてくれる。
思えばこうして気を遣って貰うのはいつ振りだろう。いつもはフェリクス様が通った後をついていくだけで、扉を押さえてくれることもなかった。
それなのに今は扉を開けて、先に行くよう促してくれる。麗しい微笑みを浮かべながら。
そうだ、こうして微笑みかけられるのも久し振りだ。
しかしその笑みも、この気遣いも、全てに裏があるようで少し気味が悪かった。
図書館の裏手は小さな広場になっている。
中央には噴水があるけれど、冬の今は水が止められている為に物寂しく感じてしまう。
噴水を囲うように二人掛けのベンチが四つ。
そこで昼食を食べる人、猫を膝に乗せて眠っている人、様々な人達が穏やかな時間を過ごしていた。
わたしとフェリクス様はベンチには座らずに、葉の落ちてしまった木の側で話をする事にした。陽光が枝の隙間から降り注いでいて、きらきらと水滴の残る枝を照らしていた。
今日はいつもより暖かいとはいえ、冬には違いない。時折吹き抜ける寒風から身を守るよう、わたしはストールの前をしっかりと合わせた。
「お話とはなんでしょうか?」
「うん。……謝りたくて。君を傷付けてしまった事を」
「謝罪なら既に頂戴しています」
「でも直接、私の口から謝りたかったんだ」
出会った頃の、フェリクス様を見ているようだった。
穏和な話し方も、優しい微笑みも。この人となら夫婦として仲睦まじくやっていけるだろうと、思っていたあの頃の。
「謝罪は受け入れました。もうお気になさらずとも結構ですよ」
「ありがとう。……君はいつもそうやって、穏やかに私を支えてくれていたのにね」
ストールを握るわたしの手を、フェリクス様が取る。その拍子に、合わせていたストールの前が開いて、冬風が入り込んでくる。非常に寒い。
「支えてくれて、寄り添ってくれて、私に本当に必要なのは君だったと気付いたんだ。どうかもう一度、私とやり直してくれないか」
「ごめんなさい」
自分でもびっくりするくらいに返事が早かった。
フェリクス様も驚いたのか、青い瞳を丸くしている。しかし気を悪くした様子もなく、くすくすと笑い始めてしまった。
「早いな。分かっているよ、君の信頼を私は壊してしまったのだと。しかし償いをさせて欲しいんだ。もう君を傷付ける事は二度としない。君の事を愛していると気付いたんだ」
「……あの、キーラ・フリッチェ様は……」
「彼女とは別れたよ」
真実の愛は?
わたしが呆れた視線を向けている事に気付いていないのか、それとも気にしていないのか、フェリクス様は盛大な溜息をついて見せる。悲愴に満ちたその表情はまるで舞台俳優のようだった。
「彼女は……私の顔と、資産しか見ていなかった。高い贈り物をねだってきて、それを断るとずっとめそめそといじけるんだ。『フェリクス様はわたくしを愛していないのですね。愛しているならこれくらい買ってくださるはずです』なんて……私じゃなくてもいいんだろう。彼女の物欲を満たしてくれる男ならば」
いやいや、それをあなたが言いますか。
ブルーム商会との繋がりがほしいだけでしょうに、なんて思うくらいにはわたしの心は荒んでしまっているようだ。
「もし、わたしがブルーム商会と縁を切ると言っても、同じように求婚して下さいますか?」
「それはもちろんだよ。でも家族は大事にした方がいいとは思う」
隠しきれていない本音が出ているぞ。
「君となら、互いを支え合う夫婦になれると思っている。一時の気の迷いで君を傷付けた事は本当に申し訳なかった。アリシア、もう二度と君を悲しませたりしない。君だけが私の唯一だ」
熱の籠った言葉。熱を帯びた眼差し。
それでも──わたしの心は動かなかった。
「ごめんなさい。わたしとトストマン様には縁が無かったのだと思います。どうぞわたしの事はいないものとして、貴族のご令嬢と婚姻を結んで下さいませ。トストマン様の幸せを心より願っております」
「平民と蔑んだ事を拗ねているのか? あれはキーラに唆されて言ってしまった事だ。君の家はただの平民ではない、余所とは違う」
「いいえ、なにも違いません。わたしとトストマン様では住む世界が違ったのです」
「……アリシア、拗ねるのはやめるんだ。その事については謝っただろう?」
「はい、謝罪は受け入れました。しかしその通りだとわたしが思ってしまったのです。では失礼し──」
頭を下げてその場を立ち去ろうとするも、フェリクス様は離してくれない。それどころか強く引き寄せるものだから、わたしはたたらを踏んでしまった。
「……お離し下さい」
「私との婚姻を結ぶと、そう言ってくれたら」
「それは出来ません。人目を引きます、お戯れはおやめください」
「どうして分かってくれないんだ。私はこんなにも君を愛しているのに」
フェリクス様の目が据わっている。
先程までの穏やかな表情は消え失せて、いまはもう見慣れてしまったわたしを蔑む表情をしている。でも彼はきっと、それに気付いていないんだろうな。
「ブルーム嬢」
不意に掛けられた声に、フェリクス様が慌てたように手を離す。その隙にわたしは数歩後ずさって距離を取った。
声の方へ目を向けると、そこには騎士団長であるラジーネ様がいた。騎士服に身を包み、団長の証である白の肩マントをつけている。
茶色の目の下には小さな刃傷。しかしその美貌に翳りを落とす事はない。穏和な笑みを浮かべた団長は、寒風に揺れる肩までの金髪を耳に掛けている。
「大丈夫かい?」
「はい、あの……」
にこにこと問われては頷く以外にない。しかし何と言ったものか。
わたしが考えを巡らせている間に、団長はわたしとフェリクス様の間に割り込んだ。
「フェリクス卿、うら若き女性の手を掴むのは宜しくないな」
「……」
「卿がこうしてブルーム嬢と一緒に居れば、口さがない者もいるだろう。気を付けたまえ」
「……忠告、痛み入る」
侯爵家の嫡男でもあるラジーネ団長に苦言を呈されたフェリクス様は、顔色を悪くしてこの場を去っていく。それを見送ったわたしは、いつの間にか詰めていた呼吸をふぅと大きく吐き出した。
「ありがとうございます。お陰で助かりました」
「いやいや、気にすることはないよ。本を借りに来たら、ウェンディ嬢に様子を見てくるよう頼まれてね。礼なら彼女に言ってあげて」
「まぁ、ウェンディったら。申し訳ありません、お手を煩わせてしまって……」
「だから気にしなくていいんだって」
悪戯に片目を閉じた団長は口笛を吹きながらその場を去っていった。
ウェンディの気遣いに感謝をしながら、わたしは図書館に戻る事にした。肩から落ちてしまったストールを羽織り直す。体がすっかり冷えてしまったようで、ぶるりと震えた。
昼食を食べたら、あの檸檬の飴を舐めよう。
なんだか面倒な事が起こりそうで、溜息が漏れた。
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