13.切実な願いは溜息に溶け消えて
部屋の明かりを兄が灯す。
そのまま暖炉に近付いて薪を足してくれた。既に赤く燃える薪が動く度に、はらはらと火の粉が舞い落ちていく。
わたしは少し冷めてしまった紅茶で喉を潤した。ふぅと小さく息をついてから、疲れきっている父へと目を向ける。
どんなに難しい商談でも、王族との謁見でも、ここまで疲れ果てた様子を見せなかったのに。父には悪いが、留守扱いにしてくれて本当に助かったと思ってしまうくらいだ。
「子爵様はフェリクス様がこんな事をしているって、知っているのかしら」
「前回の手紙を送った後、謝罪を記した手紙は頂いたぞ。迷惑をかけて申し訳ない、今後はこのような事がないようにすると」
「いや、でも今日の来訪は知っていたんじゃないの? 子爵家としては謝罪して婚約解消にも同意したけど、本音を言うならやり直してほしいんでしょ」
父の言葉に、兄が肩を竦める。ソファーに戻ってゆっくりと足を組んだ兄の、その口元には皮肉げな笑みが浮かんでいた。
「あのご令息はこのままだと家を継げないらしいからね」
そうだ、家を継げない。
わたしが居間に来てからも、そんな事を耳にしたけれど……。わたしはよほど不思議そうな顔をしていたのか、兄が肩を揺らし始めた。
「さっきもそんな事を言っていたわよね。フェリクス様がそう言ったの?」
「そう。このままだと弟が家を継ぐ事になるって。だから自分とブルーム商会との縁は切れていないという事を父──トストマン子爵に伝えてほしいって」
「呆れた。でもそれって本当なの?」
同情を引こうとしているんじゃないか、なんて穿ってしまうのは少し性格が悪いだろうか。紅茶をもう一口飲んでから、テーブル上のソーサーに戻した。
「本当らしいわよ。貴重な縁を一方的に断ち切って、社交界ではいい笑い者になっている息子にトストマン子爵が怒っているって」
おっとりとした声で言葉を紡ぎながらも、母の瞳には相変わらず怒りの色が強い。温厚な母だけれど、そんな母も今回の事は腹に据えかねているようだ。
「子爵家の縁談は全て止まっているらしいな」
濡れタオルをテーブルに置いた父が、傍らの母の肩を抱く。母も慣れた様子で身を寄せる。仲睦まじいこの姿は、ブルーム家では見慣れたものだ。
わたしは父の言葉に、トストマン子爵家の事を思い出していた。
フェリクス・トストマンの他にも、成人されたご姉弟がいたはずだ。
「あの家には妹君と弟君がいらしたわよね」
穏やかそうな笑みを浮かべる、控えめで、美しい人達だった。
「家同士で結ばれた婚約を一方的に破棄するような人は信用できないってことさ。その息子を育てた親も、一緒に育った弟や妹も同じことをするんじゃないかって、一線を置かれているらしいよ」
「それはなんだか不憫だけれど……兄さんもよく知っているわね」
「情報を集めるのは大事なんだよ。うちみたいな店をやっているなら、特にね」
兄の情報に舌を巻いていると、にっこりと金の瞳が細められる。
素晴らしい後継者が居てブルーム商会は今後も安泰だ、なんて言う人もいるけれど、贔屓目を抜きにしてもその言葉は間違いではないのかもしれない。
「しかしこのままあのご令息が引き下がるか……」
父の溜息が室内に響く。それに同意するかのように、風が強まって窓が揺れる。
そんな父の様子にくすりと笑みを漏らした母は、優雅な笑みを口元に乗せる。商家の妻が浮かべるものではなく、貴族めいた笑みだった。
「では
穏やかだけれど、有無言わせぬ強い響き。
「貴族の事は貴族で解決するのが一番ですもの。可愛い孫娘の為よ、お父様が否というわけがないわ」
「そう……だな。お義父様に迷惑をかけることになるが……すぐにでも手紙を書こう。この件についてお義父様達は知っているのだろう?」
母の言葉に父が思案するのも一瞬の事だった。大きく頷いた父は困ったように眉を下げる。
「知っているでしょうね。わたくし達もお小言を覚悟しなければならないけれど、それも当然」
「……なんだか、皆に迷惑をかけているわね。ごめんなさい」
家族を悩ませる原因となっているのは、わたしの婚約解消だ。こんな騒ぎになるはずではなかったのだけど。
思わずと謝罪の言葉を口にすると、兄が首を横に振る。
「アリシアが謝る事はないだろう。悪いのはフェリクス・トストマンで、アリシアは一番の被害者だ」
「私があの婚約話を受けた事が原因だ。アリシアがそんな事を思う必要はないんだよ」
「そうよ。あなたはゆっくりと心を休めるのがいいわ」
皆がそれぞれ慰める言葉をくれる。
有難いと思う反面、申し訳なさが募るのも仕方のない事だと思う。
わたしはカップを手にすると、その冷たさに小さく息をついた。カップ同様に冷えきってしまった紅茶で喉を潤す。
「ありがとう。もう本当に、終わってくれるといいんだけど」
切実な願いは溜息の中に溶け消えた。
「伯爵家の介入があればトストマン子爵もおとなしくなるでしょう。ご子息はうちに貴族の後ろ楯がある事を忘れているのかもしれないわねぇ」
「忘れていると思うわ。だって婚約破棄を突きつけられた日に、子爵家の後ろ楯を失って残念だったなって言っていたもの」
「あらあら。それだもの、うちを下に見るわけねぇ」
くすくすと笑う母の目が笑っていない。
わたしの事だけでなく、ブルーム商会、引いては夫を蔑ろにされているのが許せないのだろう。母は家族愛が強い人だ。
「
兄の問いに小さく頷いたわたしは、カップを静かにソーサーに戻した。冷えてしまった指先を暖めるよう、膝の上でぎゅっと手を握りしめる。
「上司は同情的だし、圧をかけられたりはしていないわ。図書館は陛下直轄の施設だから、他貴族から介入される事もないはず。だから子爵家や男爵家が、わたしをやめさせるというのも出来ないと思う。わたし達図書館職員は、陛下から任命されて勤務しているわけだから」
「それを知らない男爵家のご令嬢とかが突撃してくる事はない?」
母が心配そうに表情を曇らせる。
大丈夫とわたしはにっこりと笑って見せた。
「騎士団詰め所と近いし、よく騎士の方々も本を借りに来るの。何かあったら頼るようにって、言ってくださっているわ。まぁ実際に頼るのは気後れしてしまうけれど、騒ぎになれば騎士様が来てくださると思う」
「それなら良かった」
まぁあとはトストマン子爵が、ご子息を言い聞かせられるかどうかだと思う。
社交界を離れた母はともかく、子爵家に嫁いだ姉は今回の件をお茶会で話しては涙を流しているそうだから。
わたしに、ブルーム商会に、同情票が集まっている中でこれ以上騒ぎを大きくするのは、トストマン子爵も避けたいところだろう。
話がひとまず纏まったところで、居間の扉がノックされる。
腕時計をちらりと見ると、ちょうど夕食の時間だった。
美味しいものを食べて、元気になろう。
そう思ったわたしは勢いよく立ち上がった。
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