12.チョコレートケーキを居留守のお供に

「お部屋から出ないようにと、クラウス様から言付かっております」


 休日の午後、わたしの部屋をノックしたマルクは、どこか緊張したような面持ちだった。兄からの言葉を告げる声もいつもより固い。

 その手に持つトレイにはお茶セットが用意されていて、差し出されたわたしは首を傾げながらもそれを受け取った。


「どうして?」

「お客様がいらっしゃるそうです」


 兄がわたしを遠ざけたい来客。

 そんなの簡単に思い当たって、わたしは思わず苦笑いを漏らしていた。


「トストマン子爵家の関係者が来るのかしら」


 マルクはそれには答えずに、ただ笑みを浮かべて腰を折るばかりだ。綺麗な一礼を残してその場を去る家令を見送って、わたしは部屋の中へと戻った。



 テーブルの上にトレイを置く。ソファーに座って湯気たつポットをそっと開けると、いちごの香りがふわりと昇る。早速それをカップに注ぐと、琥珀色の水面が揺れた。

 いちごジャムを溶かした紅茶は、最近のわたしのお気に入りだ。それを知っているドロテアが用意してくれたのだろう。


 紅茶を一口楽しんでからカップをソーサーに戻し、ケーキに目をやるとその大きさに苦笑が漏れた。わたしの両手を合わせたくらいのチョコレートのホールケーキ。

 上部には削ったチョコレートが飾られていてシンプルだけれど華やかだ。切り分けもせずにホールケーキが用意されたという事は、話が長くなっても部屋から出るなという兄からのメッセージなのだろう。


 わたしは下ろしたままだった若菜色の髪をひとつにまとめ、くるくるとねじってからバレッタで留めた。

 手にしたフォークに一口分のケーキを乗せる。スポンジにもチョコレートが練り込まれていて、見るからに濃厚だ。


 美味しそう、と思わず漏れた口にケーキを運ぶ。うん、美味しい。

 見た目を裏切らない濃厚さなのに、甘さがくどいわけじゃない。周りを覆うチョコクリームも軽やかで、これはいくらでも食べられそうだ。


 カップを手にして紅茶を飲む。いちごジャムの酸味が口の中をすっきりさせる。

 この紅茶とケーキがあれば、長時間引きこもっているのも構わない。


 階下が少し騒がしくなった事には気付かない振りをして、わたしは読みかけの本に手を伸ばした。大声で「アリシアは」なんて聞こえた気がするけど気のせいだ。それがフェリクス・トストマンの声に似ているのも、全部気のせい。



 ケーキも紅茶も綺麗にお腹の中へとおさまって、本も読み終えてしまって、それでもお客様はまだ帰られないようで。

 いつの間にかソファーに横になって眠っていたわたしは、ノックの音で目が覚めた。室内も薄暗くなっていて、いまにも陽が沈んでしまいそうだ。

 ノックの主はマルクで、どこか疲れたような顔をしている彼に連れられて、わたしは居間へと足を運んだ。



 そこには両親も兄も揃っていた。

 にっこりと笑みを浮かべているけれど、目が笑っていない母。珍しく無表情で金瞳も露になっている兄。ぐったりと疲れた様子でソファーに深く体を預ける父。

 それだけでお客様・・・のお相手をするのに苦労したのは簡単に伝わってくる。


「ええと……みんな大丈夫?」


 一人掛のソファーに腰を下ろしながら、言葉を探したけれど、結局出てきたのはそんな声だった。


「大丈夫じゃないよ。本当に話が通じなくて……あれが嫡男だなんて、子爵家も長くないね。家を潰すよ、間違いなく」

「嫡男だっていうのも今だけでしょう。ご自身で仰っていたじゃない、弟が後を継ぐかもしれないって」


 兄と母の言葉を耳にしても、何があったのかはよく分からない。来客がやっぱりフェリクス・トストマンだったという事と、彼は残念な人だっていう評価を改めて下されたらしいという事くらい。


「それだとアリシアも良く分からないだろう。ちゃんと最初から話そうか」


 マルクの用意した温かな濡れタオルを額に乗せながら、父がゆっくりと体を起こす。

 全員の前に紅茶を用意して、マルクは居間を後にした。


「来客はトストマン子爵令息、フェリクス様だ。訪問の先触れもなかったからね、お前は留守だという事にしたよ」

「平民はいつだって暇にしていると思っているのかねぇ」


 兄が皮肉げに肩を竦める。それを窘めるつもりは、父も母もないようだった。

 

「彼の言う事は支離滅裂で、まぁ……まとめると、アリシアとやり直したいと、そういう事らしい」

「え、無理よ」

「分かっているよ」


 父の言葉に反射的に返事をしてしまう。父は苦笑いをしながらも頷いてくれた。

 その隣では母が紅茶にお砂糖を落としている。スプーンでゆっくりとかき混ぜる、細い指先はいつだって優美だ。


「勢いで婚約破棄など突きつけてしまった謝罪をしながらも、貴族だから貴族の妻を迎えなければならないと仰っていた」


 そうなの? それならわたしとの婚約なんて最初から無理だったんじゃないの?


 そんな疑問がわたしの顔に出ていたのか、母はにっこりと笑いながら首を横に振った。


「家格によって平民が嫁ぐのは難しい家もあるけれど、子爵家とブルーム商会に大きな格差があるとは思えないわ。それならわたくしがこの家に嫁ぐのも難しいはずでしょう」

「いや、母さんは父さんにべた惚れで、結婚できないなら死ぬってお祖父様を脅したって聞いているけど。だから家格とかはまた別なような……」


 兄の指摘も気にした様子なく、母はにっこりと微笑んでいる。それが事実だというのはわたし達子どもは知っているし、今だって母は父にべた惚れだ。


「それはともかく、この縁談は子爵家から持ち込まれたものだ。本来ならば身分が、など言い出せる筈がない。しかしあの息子殿は……一体何を考えたのか、貴族は貴族と結婚すべきと考えているみたいだね」


 父の溜息が居間に響く。

 それは、きっと……新しいお相手が何か吹き込んだのかもしれないな。あのカフェで婚約破棄だと騒がれた時、似たような事を言っていた気がするもの。


「それはフリッチェ男爵令嬢が、そう言っていたからかもしれないわ。でもそれはまぁどうでもいいとして、貴族を妻に迎えるのにわたしとやり直したいって、どういう事?」


 カップを手にして問いかける。口に運んだ紅茶は少し濃いめで、寝起きの頭には丁度いいくらいだった。


「正妻にはあの男爵令嬢を迎える。でもアリシアも好きだし大事にしたい。だから愛人として自分の側にいてほしいんだってさ。今度は大事にする。きっとアリシアも喜んでくれるって」


 兄の纏う空気が冷え込んでいる。

 その言葉に、母の顔からも笑みが消えるし父は盛大な溜息をついた。


「わたし、あの人の事を好きだと思われているのかしら」


 小さく零した呟きは乾いた笑いと悪態に消えていった。


「ばっかじゃないの」


 返事をするように、暖炉の薪が大きくはぜた。




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