11.檸檬の飴
翌日、やっぱり風邪気味のわたしはウェンディにカウンター業務を変わって貰った。
喉と鼻の間の違和感がひどくて、時々ひどい咳をしてしまうのだ。
ぽかぽかとした日だまりではあるが、直射日光が当たるわけではない図書館の奥。専門書ばかりで人が来る事も少ない区域で、わたしは本の修繕作業を行っていた。
ここなら咳をしても迷惑をかける事はないだろう。咳をする際に口元に当てたばかりのハンカチをテーブルの端に置いてから、わたしは補修が必要な本に向き合った。
半分ほどページが取れてしまった本。
糊を接合部に少し塗って、丁寧に貼り合わせる。乾くまでそのページがずれないようにぐるりと幅広リボンのような帯で巻いて出来上がり。
修繕が必要な本は少なくない。
積み上がった本の匂いと、冬にしては柔らかな日差し。ぐっと目を閉じては開く事を繰り返し、うとうとしそうになるのを何とか堪えていた。
「
不意にかけられた声にびくりと肩が跳ねる。足音もなく近付いてくるその姿に、眠気なんてどこかに吹っ飛んでしまったようだ。
「アインハルト様」
詰襟の騎士服を着崩す事もなく背筋を伸ばしている姿は、今日も美しいとしか言いようがない。金星が煌めく紫の瞳が細められると、纏う怜悧な雰囲気が少しばかり和らいだ気がする。見惚れそうになるのを何とか堪えたわたしは立ち上がり、スカートの皺を軽く伸ばしてから礼をした。
「仕事の邪魔をしてすまない」
「いえ、大丈夫です。何かありましたか?」
「これを君にと思って」
アインハルト様が差し出したのは、キャンディージャーだった。コルク蓋には檸檬の絵が描いてあって、可愛らしい赤いリボンが結ばれている。
「これは……」
「檸檬と蜂蜜の飴だそうだ。風邪に効く」
受け取ったそれはわたしの両手にすっぽりと収まる程度の大きさで、中にはくし切りにした檸檬を模した一口サイズの飴が詰められている。陽光を受けた砂糖がきらきらと輝いて、とても綺麗。
「風邪だとよくお分かりになりましたね。少し喉の調子が悪いのです」
「……それはちょうど良かった」
アインハルト様の口元が笑み綻ぶ。
……美形の微笑みってこんなにも破壊力が高いのか。眩暈を起こしそうになりながらも、わたしはキャンディージャーをしっかりと持ち直した。
咳が聞こえていたのかもしれないから、もう少し抑えないといけないな。
「アインハルト様が必要でお買いになったのではないのですか?」
「いや、それは付き合いで買ったものだ。以前に本を紹介してくれた礼になれば良いのだが」
「本をご紹介するのも司書の務めですから、そうお気になさらずとも宜しかったのですよ」
「そうか。それでも私の気持ちとして受け取ってくれればいい」
「ありがとうございます。では遠慮なく頂きますね」
食べるのが勿体ないくらいに綺麗だけど、食べないで固めてしまうのはもっと勿体ない。折角の厚意だから有り難く受け取る事にした。気遣いが嬉しくて、笑みが零れてしまう。
頷いたアインハルト様はわたしが作業に使っている机に目を落とす。積み上げられた本や、糊などを確認するように視線を滑らせると不思議そうな声で問いかけてくる。
「いまは何の作業を?」
「本の補修をしておりました。破れたり頁が取れてしまってはいますが、補修すればまだまだ読めるものばかりですので」
「細かい作業だな」
「こういった作業は嫌いではないのです。綺麗に修繕出来た時は嬉しくなりますし」
「そうか。君達のおかげで、私達は綺麗な本を手にする事が出来ているのだな」
「そう言って下さると嬉しいです」
図書館を利用する人に、そう言って貰えるのは嬉しい。
少しでも綺麗な本に触れてほしくて、本の世界に没入してほしくて、そうして今以上に本を好きになってほしいからだ。
わたしは机の上にそっとキャンディージャーを置いた。陽光がガラス瓶を通って、机の上に七色の光を踊らせている。
飴をわたしが受け取って、きっとそれで用事は済んだはずなのに、アインハルト様はまだ机の側にいる。何か探している本でもあるのだろうか。それをわたしが問うよりも早く、アインハルト様が薄い唇を開いた。低く、丁寧ながらも硬い声が言葉を紡ぐ。
「最近は件の令嬢に言いがかりをつけられたりはしていないだろうか。姿は時折見るのだが」
「以前アインハルト様が
「いや、それは構わないのだが。何かあれば、騎士団に頼るといい。詰め所も近い事だ、
「お気持ちは有り難く。ですがわたしの個人的な問題ですし、騎士の皆様を煩わせるのも申し訳ない事ですので……」
予想外の言葉に思わず目を瞬いてしまった。
本当にありがたいのだけど、それは中々に難しい事だ。眉を下げながら首を横に振ると、ぽんと頭に温もりがのった。それが何か分かるのに、予想外すぎて理解ができないというか……。
アインハルト様が、わたしの頭に手を乗せている。
「公共の場で騒ぐ輩が皆に迷惑を掛ければ、それは君の個人的な問題ではなくなるだろう。この場所は陛下が身分に関係なく学びを得る為に作った場所だ。君達がここに勤めるのも陛下の命を受けての事。ならば君達を守るのも、私達騎士の役目であるからな」
「……ありがとうございます」
正直なところ、頭に触れる温もりに意識がいってしまってそれどころではなかった。今にも卒倒してしまいそうというか、どうか誰にも見られませんようにと願うばかりだ。
こんな場所をアインハルト様の信奉者に見られたら、生きて帰られないかもしれない。
「また面白い本が入ったら教えてくれたまえ」
「はい、それはもちろん」
ふ、と笑ったアインハルト様はわたしの頭を撫でてからその場を去っていった。
頭を下げて見送るわたしの顔は、きっと赤くなっていた事だろう。耳も熱い。でもそれも仕方がない。
アインハルト様が何を思って触れたのか、それを考えても分からない。
わたしはまた椅子に座ると、積み上げられた本を一冊手にとった。付箋をつけておいた場所を開くと、頁が破れてしまっている。補修用のテープに手を伸ばすと、キャンディージャーに指先が触れた。
騎士団の詰所と近い事もあって、騎士の方々は図書館に訪れる事も多い。騎士団長が本を読むことを促しているというのも大きいけれど。
戦術集から娯楽小説、様々な辞典に他国で発刊された書物まで、騎士の方々は借りていく。戦術集ばかりだけれど、その中にはもちろんアインハルト様もいて。図書館に勤めるわたし達と騎士の方々はそれなりに距離が近いと思う。
だけどアインハルト様って、あんなに個人的な距離が近かったっけ?
婚約解消の件は噂にもなっているだろうし、男爵令嬢に絡まれているのも見られているし、同情しているのかもしれないな。
わたしは小さく息をつくと、ガラス瓶の封をしているコルクを指でつついた。
檸檬の色が可愛らしい。それを見ていると頭に触れる温もりが甦るようなのに、思い浮かんだのはなぜかノアの姿だった。
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