10.沁みる優しさ

「ふざけんな、何だその男。自分有責で婚約を解消しておいて、よくそんな恥知らずな事を言えんな。馬鹿なのか?」

「馬鹿なのは間違いないでしょうね」

「エマさん、おかわり頂戴」

「はいはい」


 怒っているノアの姿に、思わず笑みが零れた。

 自分の事でこんなにも怒ってくれる友人がいるのは、とても有難い事だと思う。


「怒ってくれてありがとね」

「馬鹿にされてんだぞ、お前ももっと怒れよ」

「怒ってるわよ。でもなんか、まさかあんたがそこまで怒ってくれると思わなくて、びっくりしちゃったっていうか」

「怒るに決まってる。で? 他にも何か書いてあったんだろ」

「鋭い」


 冷めて食べやすくなったグラタンを完食する。今日も美味しかった。

 白ワインも飲み干して口の中をさっぱりさせてから、わたしはエマさんに向かって片手を上げる。


「ごちそうさま。次は赤ワインを貰える? それから、何かおつまみを下さいな」

「はーい。ノアくんは?」

「俺にも何か頂戴」

「はいはい」


 エマさんはわたし達の前にある、空いたお皿を片付けながら笑顔で応える。その笑みが柔らかくて、見ているだけでほっとしてしまう程だ。そのエマさんの人柄がこのお店の雰囲気になっているんだろうな。

 わたしはエマさんとマスターをぼんやりと見つめていた。寡黙だけれどエマさんの事を大切にしているマスターと、そんなマスターをまるごと愛していると言ってはばからないエマさん。理想の夫婦の姿がここにあって、フェリクス・トストマンとではきっと作れなかったであろう姿でもあった。


「……第二夫人として側においてやるから子爵家への援助も勤めとして忘れないようにとか。第一夫人ともうまくやっていけるだろうし、第一第二とあるが愛情は変わらないとか」

「ほんっとクソ野郎だな」


 わたしが手紙の中身を口にすればする程に、ノアの機嫌も急降下だ。聞いていて楽しい話はないよねと、そこらでやめようと肩を竦める。しかしノアにはそれもお見通しだったようで、白ワインのグラスを傾けながら先を促されてしまう。


「変な気を回すんじゃねぇよ。全部吐き出しちまえ」

「ありがと。でも手紙は大体そんな感じを長ったらしく繰り返しているだけなの。で、どうして元婚約者がそんな手紙を寄越したかなんだけど……」


 小さく溜息を漏らしながら言葉を切ると、それを待っていたかのようにわたしの前に赤ワインのグラスが置かれた。

 続けてわたしとノアの前には、小さなスキレットが用意された。少しつまむにはちょうどいい量で、その中で湯気をたてているのはカスレだ。白いんげん豆とお肉が煮込まれたこの料理は、マスターの郷土料理だと聞いた事がある。

 

「熱いから気を付けて召し上がれ」

「ありがとう」


 にっこり笑ったエマさんはマスターの元へ戻っていく。

 わたしは早速、グラスを口に運んだ。少し甘めで、そこまで酒精が強いわけではない。


「ええと何だっけ」

「クソ野郎が手紙を寄越した理由」

「そうだった。元婚約者の家は商会うちからの援助がどうしても欲しいらしいのよ。事業計画もいくつか流れてしまうみたいだから、それもまぁ、そうでしょうねって感じなんだけど。そんな中で新しいお相手と婚姻するのも難しい。でも彼女は手放したくない」

「それでお前を愛人にすえようって事か。馬鹿じゃねぇの」

「不思議なのは、どうしてそれをわたしが受けると思ったかなのよね」


 カスレをスプーンで掬って、吹き冷ます。上に掛かったパン粉がオーブンで焼かれた事で軽いアクセントになっている。柔らかな豆としっかりとしたお肉がとても美味しい。ふわりとメープルの香りが鼻を抜けていった。


「自分が好かれていると思ってんだろ」

「つくづくおめでたい人だと思うわ」

「違いねぇ」


 ノアもカスレを食べながら、白ワインを楽しんでいる。怒りも少し落ち着いたのか、その言葉も声も落ち着きを取り戻していた。


「お断りのお手紙を出したし、父からも相手の家にお手紙を出したそうだから、もう終息してくれる事を願うわ」

「諦めるだけ賢いといいけどな」

「怖いこと言わないでよ。でもあまりにもしつこかったら、しばらく国を離れてもいいかもしれないし」

「司書の仕事が好きなんだろ?」

「好きだけど、それよりも煩わしさが勝ってしまったらどうしようもないわね」


 赤ワインをちびりと飲みながら、溜息混じりに口にした。

 この生活が気に入っている。お仕事も好きだし、友人にも上司にも恵まれている。お気に入りのお店もあって。気の置けない飲み友達もいる。家族仲も良好だ。

 それを手放さなければならないのは辛いけれど、相手があまりにも面倒すぎた。


「そうならないのを祈っているけれどね」

「お前が国外に出るのは困るな。俺が生涯独身だったら、お前に看取って貰おうと思ってんのに」

「あんたを看取る為に帰国するから心配しないで」


 冗談めかしたやりとりに、二人で笑った。

 グラスを傾け赤ワインを飲み干すと、何だか喉の奥に違和感があった。両手で口元を押さえて小さく咳き込むけれど、違和感は拭えない。


「大丈夫か?」

「んー……風邪かしら。なんか、喉と鼻の奥が変な感じ。お酒を飲めば治るでしょ」

「いや、無理だろ」


 苦笑するのはノアだけでなく、わたしの咳を聞いていたエマさんもだった。

 湯気立つグラスをわたしの前においてくれる。香り立つ蜂蜜と檸檬に誘われるよう、そのグラスを両手に取った。


「蜂蜜檸檬のお湯割り。喉に優しいわよ」

「ありがとう、エマさん」


 温かなグラスに口をつける。熱いけれど火傷するほどでもなくて、ここにもエマさんの気遣いを感じて嬉しくなる。


「疲れてるから風邪も引きやすくなってんだろ。早く休んだ方がいいぞ」

「ノアが優しい」

「俺はいつも優しいだろうが」


 大袈裟に肩を竦めて見せるものだから、思わず笑ってしまった。いつも優しい事に内心では同意しながら。


「そろそろ迎えもくるだろうし、これを飲んだら帰るわ」

「おう。また何かあったら愚痴くらいは聞いてやるよ」

「次は楽しい話になるといいんだけどね」


 美味しいごはんと美味しいお酒。飲み友達に愚痴をきいてもらって、心のもやもやは少し軽くなったようだ。白ワインを飲むノアの顔を横目で見ながらお湯割りを飲んだ。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる気がするのは……きっと気のせい。弱っている時に優しくされたから、だから、気のせい。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る