9.愚痴を零す

 返事をしたためた手紙は、朝になって父に託した。父からも子爵家へ手紙を送るそうだから、それと一緒にしてくれるそうだ。

 兄も母も笑っていながらも、怒っているのが雰囲気で伝わってくる。朝食の場にしては少し雰囲気が悪かったけれど、誰かが文句を口にすれば、盛大な悪口大会が始まってしまうのを皆が理解していた。黙って食事に集中したのも、皆の心遣いだと分かっている。



 いつも通りの仕事を終えたわたしは、自宅ではなくて飲食街へと足を向けた。

 今日は飲んでから帰ろうと決めていたわたしは、朝のうちにマルクにそれを告げていた。今夜も時間を見計らって迎えに来てくれるそうで、いつもそれに甘えてしまっている。


 見えてきたのは『あまりりす亭』の看板。優しい灯りが看板を照らしていて、なんだかほっとしてしまう。

 慣れた扉を開けて中を伺うと、お客さんはまだ誰もいなかった。


「いらっしゃい、アリシアちゃん」

「こんばんは。今日もおすすめを下さいな」

「かしこまりました。飲み物は?」

「とりあえずエールで」

「はぁい」


 コートを脱ぎながらエマさんに注文をする。カウンターの向こう、調理場ではマスターが小さく頷いているのが見えた。

 カウンターにある四席のうち、右から二つ目。その椅子の背にコートを掛けてから座る。


「最近、ノアは来てる?」

「何回かね。あの人も気まぐれだから」

「そうね」


 わたしがお店に来るのも一ヶ月ぶりくらいになるだろうか。

 ノアとは飲み友達だけれど、連絡先を知っているわけではない。このお店で会えば一緒に飲むし、会わなければ一人で飲む。そんな関係なんだけれど、今日はノアに話を聞いて貰いたかったわたしは、彼の姿がない事を少し残念に思っていた。


 置かれたエールのジョッキを呷る。喉を流れる冷たさと程好い苦味、それから酸味。半分ほどを一気に飲んだわたしは、ふぅと大きく息をついた。


「あー……美味しい」

「とりあえずこれをつまんでいてね」


 わたしの様子に笑いながら、エマさんがカウンターに小皿を置く。トマトソースが絡まったラビオリのようだった。


「美味しそう」


 両手を組んで感謝の祈りを捧げてから、わたしはフォークを手に取った。一口サイズに作られたラビオリにトマトソースを乗せて口に運ぶ。噛んだ途端に溢れる肉汁が熱くて、口許を手で押さえながら吐息を零した。

 肉汁に絡まるチーズに、こりこりとした食感……これはブロッコリーだ。なにこれすっごく美味しい。


 飲み込んでもまだ熱い口内を、エールで冷やす。エールにも合うけれどワインもいいな。


「エマさん、これすごく美味しい。お肉にチーズが絡まってそれだけでも最高なのに、固めのブロッコリーがいいアクセントになってて、これは白ワインが合うと思うの。お願いしますっ!」

「はーい。気に入ってくれて嬉しいわ。ね、あなた」


 エマさんが調理場を振り返りながら笑うと、マスターが頷いている。相変わらず表情は変わらないけれど、纏う雰囲気は柔らかい。


 エマさんがわたしの前に白ワインのグラスを置く。残っているエールを飲んでしまおうと、ジョッキを傾けた時だった。


「うー、さみぃ。……お、来てたのか」


 扉が開いて、聞き慣れた声がする。

 エールを飲みながら顔を向けると、頭に薄く積もった雪を払っているノアの姿があった。


「久しぶりね。元気だった?」

「それなりにな。お前は元気になったか?」

「元気だけど苛々はしてる」

「何かあったんだな」


 わたしの左隣の椅子をずらして、互いの間に距離を空けるのもいつもの事。引いた椅子にコートを掛けてからノアは腰を下ろした。


「エマさん、俺にも白ワイン。あとなんか適当に出して」

「はぁい」

「このラビオリ、すっごく美味しいわよ」

「じゃあそれも」

「はいはい」


 皿に残っていたラビオリを食べ終えたわたしは、白ワインのグラスを手に取る。ノアの前にもグラスが置かれて、わたし達はそれを掲げて乾杯とした。

 距離を開けているわたし達の乾杯はいつもこの形だ。


 白ワインを楽しんでいると、ふわりとチーズの香りがした。それに誘われて目を向けると、わたしの前にグラタンが置かれた。楕円形の深皿からは湯気が立ち上っている。

 ノアの前にはラビオリと、お魚のフリットが用意された。フリットには大きく切られたトマトや黒オリーブのソースがかかっていて、それも美味しそう。


「で、何があったんだ?」

「色々あって、どれにも腹が立っているんだけど。まずはね、元婚約者の新しいお相手がわたしに文句を言いにきたのよ」

「へぇ?」


 グラタンにスプーンを入れながら、わたしは口を開いた。

 サク、とチーズの層を破って、スプーンがホワイトソースの中に沈む。中にはサーモンとほうれん草が入っているようだ。ピンクと緑が白に映えてとても綺麗。


「元婚約者とそのお相手の婚約話が進まないのは、わたしが家の力を使って妨害をしているからなんですって。未練がある風に思われているなんて、心外過ぎて苛々するわ」


 スプーンに乗せたサーモンを口に運ぶ。滑らかなホワイトソースに程好い塩気。うん、これも美味しい。

 ノアはお魚を綺麗に切り分けて、トマトを添えて口に運んでいる。そういえばこの男は食べ方の所作が綺麗だ。


「否定しても話が通じなかった?」

「よく分かったわね、その通りよ。しかも図書館の中で大声を出すのよ。貴族子女の方もいらしたから、また社交界に話題を提供してしまったと眩暈がしたわ」

「お前が悪くないってのも社交界に広まりそうだけどな」

「もし社交界に伝手つてがあったら、わたしの話はしないようにして頂戴」

「ねぇよ」

「そうよねぇ」


 可笑しそうにノアの口元が笑みの形を作る。相変わらず分厚い前髪で顔の半分以上は隠れてしまっているけれど、声や口元で充分に感情は分かる。


 ワイングラスを軽く揺らしてから一口飲む。ぶどうの酸味と香りが強い。薄い琥珀色が灯りを映して煌めいている。


「その時は騎士様が助けて下さったんだけど、それよりももっと面倒な事が起きてしまって」

「いや、今のもだいぶ面倒な話だと思うけどな」


 苦笑いしながらグラスを空にしたノアは、カウンターの中にいるエマさんにグラスを掲げて見せる。頷いたエマさんはワインのおかわりを用意しはじめた。


「元婚約者から手紙が届いたのよ」

「は?」

「色々書いてあったけど、纏めると『愛人にしてやる』って手紙だった──」

「ああ?」


 グラタンのチーズ部分をスプーンに乗せながら愚痴を零す中、わたしの言葉はノアの声によって遮られた。その険しい声に驚いたわたしはノアへと顔を向ける。

 表情は分からないけれど、怒っているのが雰囲気で分かる。


 ワインのおかわりをカウンターに乗せたエマさんは苦笑いだ。ノアはグラスを受け取ると一気にそれを飲み干してしまった。

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