8.他の誰のせいでもなく

 婚約解消からもう一ヶ月が経とうとしている、ある日の事だった。

 仕事を終えて夕食を済ませて、部屋で本を読もうとしたところを父に呼び止められて書斎へと共に向かう。


 書斎のソファーに腰を下ろすと、家令のマルクが紅茶を用意してからその場を離れた。添えられているクッキーは、ハウスメイドのドロテアが作ったものだ。彼女は掃除に洗濯、料理まで一人で全てこなしてしまう優秀な女性である。


「どうしたの? 難しい顔を……って、トストマン子爵家絡みね?」


 そう指摘すると、わたしの隣に座った父は困ったように少し笑った。その手には白地に赤い薔薇が描かれた封筒がある。

 父の向こうで、暖炉の薪がパチリとはぜた。


「トストマン子爵令息より、お前に手紙が届いている。中身は確認していないが、どうする? 私が読んでもいいんだが」

「わたしが読むわ。いい事が書いてあるとは思えないけれど」


 妙に膨らんだ封筒とペーパーナイフを受け取ったわたしは、ソファー前のテーブルを使って封を切る。取り出した便箋は何枚も重ねられていて、道理であの厚さだと溜息が出た。


 相変わらず綺麗とは言えない字で紡がれた言葉達を拾って・・・いく。長ったらしく書いてはあるが無駄に装飾されたものばかりで、必要な言葉だけを本当に拾っていく作業だった。


「なんて書いてあった?」

「だいぶ無駄な言葉が多いけれど、要約すると『愛人にしてやる』って」

「……何だと?」


 父が怒りの気配を強くする。その様子に苦笑しながら、わたしは便箋をまとめてテーブルへと放り投げた。

 出来る事なら炎が揺れる暖炉の中に投げ込んでやりたいけれど、我慢した自分が偉いと思う。


「君を嫌いになったわけではない。君となら良い関係を築いていける。君ならキーラとも上手くやれるだろう。第二夫人になって貰うが、愛情に順位がつくわけではない。子爵家への援助もよろしくね。……こんなところ」

「あのくそガキ──」

「お口が悪いわ」


 顔を真っ赤にしている父とは反対に、わたしの心は冷めきっていた。というよりも引いた。

 落ち着いたら怒りになってくれるのかもしれないが、いまの心境は気持ち悪いの一言である。ぞっとする。


「第二夫人って何様かしらね。重婚なんて認められていないんだもの、妾として側においてくれるってこと?」

「トストマン領にはうちの商品を出さないと通告する。ここまでバカにされて黙っていられるか」

「落ち着いて」


 自分よりも怒っている人がいると、当人は意外と冷静になれるのはどうしてだろう。今にも部屋を飛び出していきそうな父を宥めながら、顔にかかる若菜色の髪を耳にかけた。


「トストマン子爵からも何かお話が来ているの?」

「フリッチェ男爵令嬢とは別れさせるから、また婚約を結んでくれないかとは言ってきている。全て断ってはいるが」

「そのままお断りしておいて。このお手紙にはわたしからお断りの返事を書くわ。……抗議も程々にしておいてね」


 わたしの言葉に父が言葉に詰まる。

 父と、きっと兄も、盛大な抗議と報復をしようとしていたのだろう。


「フェリクス・トストマンに軽んじられているのはわたしで、商会じゃないもの。これが激化していくようなら、またその時には考えなきゃいけないけど……そこまで馬鹿じゃない事を祈るわ」

「家族が蔑まれているんだ、それで済ませるわけにはいかんぞ」

「愛人なんて言っているのは子爵家じゃなくてフェリクス・トストマンよ。ああ、でも子爵家にお断りする時に、ご子息がこんな事を言っているってのは伝えておいてね」

「それはもちろんだが……」

「ご子息が暴走しているだけでしょ。子爵家で抑えられないようなら、父さん達を頼らせて貰うわ」


 いまだ不服そうに眉を寄せている父は、それでも頷いてくれた。不承不承を隠す事もなく、嫌そうな顔をしていたけれど。


「部屋で返事を書いてくるわ。明日にでも子爵家に送っておいてくれる?」

「分かった。……アリシア、すまない。この婚約がこんな事になるとは」

「わたしも思っていなかったし、子爵家も思っていなかったと思うわ。だから父さんが気にする事はないのよ」


 わたしは手を付けていなかった紅茶とクッキーの小皿をトレイに乗せた。もちろん自分の分だけだったが、父はトレイにもうひとつの小皿も乗せてくれる。


「部屋で食べなさい」

「ありがとう。遠慮なく頂くわね」


 持ったトレイで両手が塞がっているのをいい事に、封筒も便箋もテーブルに置いたままにした。父が預かってくれるだろうし、あんなものを部屋に持ち込みたくないからだ。父には悪い事をするけれど。



 自室に戻ったわたしは、書き物机にトレイを置いた。冷めてしまったけれど紅茶は美味しい。それで喉を潤しながら、クッキーをひとつ口に運ぶ。絞り出しクッキーの真ん中には赤くて可愛いいちごジャムが乗せられている。このジャムもドロテアのお手製だ。

 サクサクとした食感に、控えめな甘さのジャムがとてもよく合う。うん、美味しい。


 あっという間にクッキーを一皿分食べ終えたわたしは、深呼吸をしてから引き出しを開けた。取り出したのは真っ白な便箋と封筒のセット。飾り気のない、白一色のものである。

 押し花が飾られていたり綺麗なものも持っているけれど、この手紙はこれでいい。


 愛人にはならない。

 お互いの為にも、もう手紙は送らないでほしい。


 それだけを丁寧な言葉で記していく。丁寧だけれど無駄はなく、拒絶の意図が伝わるように。……伝わるだろうか。照れているとか遠慮しているとか拗ねているとか、変な風に捉えられないだろうか。そこまで馬鹿じゃないと信じたい。


 封を留めて、名前を書く。

 一仕事終えたわたしは手紙を端に追いやって、読みかけだった本に手を伸ばした。栞を挟んでいたページを開いて、少し前の部分から読み直す。

 紅茶とクッキーをお供に、大好きな読書の時間。


 ……なのに、目が滑るばかりで内容がまったく頭に入ってこない。いつものように没入出来ない。

 溜息をついたわたしは、また栞を元の場所に挟んでから本を閉じた。


 思っていた以上に、わたしも腹を立てていたらしい。

 無心でクッキーを食べる。口一杯に頬張って一気に食べる。紅茶も一気に飲み干して、わたしはベッドに飛び込んだ。


 お気に入りのクッションを抱えながら、深呼吸を繰り返す。

 ……腹立つ。あの手紙の気持ち悪さが引いたと思えば、沸き上がってくるのは怒りだった。


 なんなの、あの男。

 何が第二夫人よ、何が良い関係よ。ブルーム商会の援助がほしいだけじゃない。わたしじゃなくても良くて、お金を持っていれば誰でも良くて、そんなのお断りするに決まっている。


 いつまで経っても、どこに行っても、わたしはブルーム商会の娘としてしか見られない。ブルーム商会の娘としてしか価値がないと言われているようで、悔しくて、悲しくて、そして寂しい。

 わたしを、アリシアとして見てくれると……そう思っていたのに。


 ブルーム商会の娘という肩書き以上の価値を、自分で引き出せていないのはわかっている。

 ブルーム商会の娘という肩書きを使えばいいのもわかっている。


 二十歳で成人だってしているというのに、まだ上手く立ち回れるほど大人にもなれていない。そんな自分が嫌いで、涙が出た。


 こんなくらい感情に飲み込まれるのも、こんなにも悔しくて悲しくなるのも、怒りがおさまらないのも、今だけにしよう。

 思いっきり泣いて、怒って、お風呂に入って寝てしまおう。


 そうすれば、明日からはまた笑えるもの。

 わたしがこんな気持ちになっているのは、自分のせい。決してあのフェリクスのせいではないと自分に言い聞かせながら、クッションに顔を埋め続けた。


 寒い夜だった。

 とても寒い、風のない夜。

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