イルカに降る雪

あおいかずき

イルカに降る雪

 バルコニーの白いガーデンチェアに腰かけ、あたしは大きくため息をついた。


 見上げればどこまでも晴れ渡った青い空。眼下に広がる白い砂浜。そして空との境界線まで続く、エメラルドグリーンの海。どこからどうみても穏やかなリゾート。でもあたしの視界にある全てのものが、南国の凶暴な太陽を反射してぎらついて見える


 ビーチを行きかう人々の雑多な言語や笑い声が五階のテラスまで届く。ホテルの向かい側にあるショッピングモールからは、日本人であるあたしにも馴染みのあるメロディが鐘の音と共に風に乗って運ばれてきた。


 今年いっぱい馬車馬のように働いて、嫌味を言われながらもようやく取った年末前の有給休暇。吹雪で視界が閉ざされる雪国から逃げるように、イブにハワイへ直行したあたしにとってこの旅行はココロ踊るバカンスのはずだったのに。


 あたしは組んだ脚の上で頬杖を付いて、もう一度盛大なため息をついた。


「……ったく。なーんでハワイ人は商売っ気がないかなぁ」


 マリンスポーツにショッピングに遊びまくるぞと意気込んできたというのに。いざワイキキビーチに着いてみれば、ガイドブックに書かれたお店のどこもかしこもクローズの札がかかっているのだ。


 聞けばクリスマス休暇でイブの午後やクリスマス当日はクローズのお店が多いとか。お店側も従業員にクリスマスボーナスを払うより、休みにしちゃったほうがいいっていうことらしい。


「日本でイブって言ったら、ブランドショップもデパートも稼ぎ時じゃんっ」


 唯一の楽しみが奪われて、あたしは裸足のまま軽くバルコニーの手すりを蹴飛ばす真似をする。すると、つんと当たった拍子に、爪のラインストーンが外れて下に落ちてしまった。


 ツイてない。


 いや、思えば去年にこの旅行を企画したときから、あたしはツイてないことばっかりだ。

 まず昇進試験に落ちた。上司の犬に噛まれた。ピアスホールがかぶれた。そして風邪をひいてパスポートの更新にいけず、新規で取得し直した。 


 そして二ヶ月前。旅行の前金を払った直後、彼と大喧嘩をした。


 きっかけなんてもう忘れてしまうほどに些細なこと。でもお互いにヒートアップして、怒鳴りあいが止まらなくなった。結果、どちらからも折れることのないまま、今日のクリスマスイブを迎えることになってしまったのだ。


 あたしは口を尖らせたまま、ちらりとサイドテーブルに置いた瓶入りのマカダミアナッツに目をやった。空港についてすぐ、顔中にまとわりつくような熱気と甘ったるい香りから逃げるように入った免税店で見つけたそれ。ハワイといったこれでしょ、とばかりに衝動買いした。


 そして部屋に着くなり一つ口へ放り込み、その瞬間に買ったことを後悔したなんて一人旅じゃければ笑い話にできたのに。


 部屋の真ん中に鎮座するダブルベッドは極力見ないフリをした。本当は二人で来るはずだったのに、喧嘩の勢いで彼は旅行を取りやめた。それに対して、一人寝するには広い部屋をキャンセルしなかったのはあたしの意地だった。


 あたしは頬につけた左手を少し浮かせ、親指で薬指の根元を探った。でも何もない。手の平との境にある僅かなへこみが、数日前までそこにモノが存在していたことを無言で示しているみたいだった。


 ふわりと風が舞った。下ろした髪が頬を軽く叩いていく。遮るものがなくなったせいか、そよそよと吹く乾いた風を薬指が敏感に捉えているのが分かった。


 十二月も下旬のハワイ。日差しは突き刺すように強いものの、日陰を通る風は穏やかで時に肌寒ささえ感じることがあるなんてはじめて知った。そして、タンクトップから出た肩に当たる風より左手を掠めるそれはずっと冷たい。


 えいっとあたしは声を上げて立ち上がった。


 こうしていても仕方ない。到着してから何も食べていないから寒いんだ。腹ごしらえとショッピングができるお店を探しに行かなくちゃ。


 あたしはダブルベッドの上に放り投げてあったハンドバッグを引っ掛け、そのポケットにカードキーをねじ込んだ。


 エレベーターを降りてフロントの前を通り過ぎるとき、甘ったるいフルーティな香りがあたしの鼻を直撃した。人の動きに合わせてまとわりついてくるそれは、人の香水のものなのかルームフレグランスのようなものなのか分からない。けど、鼻腔を抜けて胸の奥や頭の芯まで、空気を重くするほどの甘さでくらくらしそうだ。


 空港を降りたときと同じように、あたしはちょっとだけ息を止めてその場を通り過ぎる。


 香水はキライじゃない。けどやっぱりあたしは日本人なのか、べたべたに絡みつく香りよりほのかに漂うくらいの方が好きだった。


 ――彼も。 コロンをほとんど使わない彼。あたしは彼のそのままの匂いが好きだった。甘ったるい匂いから逃げたくて、あたしは記憶の中で彼の匂いを探した。でもどうしてだろう。上手く思い出せない。すうっと吹いてくる風があたしの左手を撫でる。ひんやりした感触が腕を這い登ってくるみたいで、あたしは右手で左肩をさすった。


 早足でしきりのないエントランスからホテルの外へと出ると、あたしはワイキキのメインストリート目指して歩き出した。


 さすがにワイキキのビーチでは、観光客相手の仕事を完全に休みにするわけにはいかないらしい。有名店は軒並みクローズだったけど、ビーチに面したお店は大丈夫そうだ。


 開いているのはどれも小さなお土産やさんとファーストフード店で、店番のおじさんやおばさんがカタコトの日本語で話しかけてくる。値札もドルと円の二重表記。お店によってはハングルで掲げてあるところもあった。



 ビーチ沿いにあるサンドイッチショップでローストビーフサンドとオレンジジュースを買うと、あたしはすぐさま店の向かい側に建っている東屋へと走った。理由は簡単。店中に充満する甘い香水の匂いと、レジの隣に座った半裸のサンタ像が癇に障ったから。

 

 やっぱりキャンセルするんだった。東屋のベンチであたしはジュースのストローに口をつける。カップに入った氷が解けているのか、ものすごい薄い味がした。酸味も甘みも風味も全てが足りない。物足りない。

 

 それでもあたしは一気にストローを吸い上げてカップを空にし、サンドイッチの袋を破った。ジュースと比べてこちらはさすがファーストフードの国。トマトもレタスもオリーブもたまねぎも、これでもかってくらい入ってる。でも野菜が多すぎて、あたしは口の中でローストビーフを探し続けなきゃいけなくなった。

 

 そんなもごもごと口を動かしているあたしの横を、何語かは分からない言葉を話しながら子どもが駆け抜けた。白い肌を惜しげもなく太陽に晒して走る子どもを、恰幅のいい夫婦が追いかける。彼らを目で追うと、波うち際ではたくさんの人が、それこそいろんな肌や髪の色をした人たちが楽しそうに水遊びに興じているのが見えた。

 

 まだ足元がおぼつかない幼児を抱えたファミリーもいれば、見るからに日本人と分かるホスト風の男とその彼女もいる。白い砂浜で真っ赤に肌を焼いている中年のオバサンもいるし、ヒゲを生やしたオジサンとちょっとマッチョな若者が顔を寄せ合ってひそひそ話しているのも見える。

 

 じりじり照りつけるような日差しの下だけどどの人も笑顔で、その中であたし一人だけがぼんやりしているみたい。


 店先のスピーカーから流れるクリスマスソングを受けて、歓声を上げて波に向かっていく若いカップルを眺めながらあたしは口を尖らせた。意地になって一人で来てはみたものの、南国とはいえキリスト教圏はクリスマス色が強くて、やっぱりむなしさだけがこみ上げる。


 沈んだ自分を引き上げるためにも、何かぱあっと浪費しよう。こうなったらチープなものでもなんでもいいから買い物してストレス発散する以外、ハワイでの楽しみも無い気がした。


 手っ取り早く一番近くにあったお土産やさんに入ると、奥にいたおじさんがニコニコしながら出てきた。別にどれを買うとも何も言っていないのに、コレは一ドル、コレは二百エン、などと日本語で話しかけてくる。あたしは断るのも面倒くさくなって、適当に相づちを打ちながらざっと店内を見渡した。


 ウクレレ、ムームー、木彫りのマスコット、ハワイアンジュエリー、椰子の皮製のストラップなど、雑多な品物が所狭しと置いてある。どれもこれも、いかにもハワイ。購買欲が湧かない。


「えくすきゅーず、み……」


 出よう、と断りを入れようとしたそのときだった。お店の棚の一角に、きらりと光るものを見つけたあたしの口が止まった。


 スノードームだ。


 ハワイでスノードーム。なんともミスマッチな気がして、あたしはその中の一つに手を伸ばした。


 波と戯れるイルカと、その周りに何故かパイナップルとかパパイヤとかの果物があって、それ全体をガラスの球体が覆っている。そっと手に取ってひっくり返すと、中に沈んでいたラメがきらきらと水中を踊り始めた。


 手の平に載せてあたしはじっとスノードームを見つめた。透明な球体の中の世界は、光が差し込む水中でイルカが泳いでいるようにも見えたし、水面に躍り出たイルカが舞い散る雪に戯れているようにも見える。


 ふいに雪の匂いがした。


 いや、それは気のせいだったのかもしれない。乾燥した風に含まれるのは、ホテルや空港で嗅いだのと同じく甘い香りだ。湿って重たい、空中の埃と水分が混じったような、あんな匂いがするわけがないのに。ありえないと頭では分かっていて、手に持ったスノードームとは全く関係がないだろうと思うのに、無性にこれが欲しくなった。


「ソレ十二ドル。ケド十ドルデイイヨ」


 ぼうっとスノードームを持ったままのあたしに、おじさんがニコニコと話しかけてきた。


 あたしはバッグから十ドル札を出すと、おじさんにそのまま手渡した。包むかと聞くおじさんに首を振り、両手でスノードームを抱えたまま店を出る。アスファルトに炙られた風があたしの指先を撫でた。さっきまで無言だった指輪をはずした薬指が、何か声を上げようとして疼いてる。


 さっきまではあんなに癇に障ると思っていたフロントの匂いも、エレベーターの匂いも気にならない。鍵を開けるのももどかしく部屋へ入ると、あたしはスノードームごとベッドへ倒れこんだ。


 ベッドの鮮やかな青いカバーは麻だろうか。少しざらついた質感の布が、あたしの頬を擦る。両手と両足を伸ばしてもまだまだ広いダブルベッドは、カバーの青さのせいもあって海みたいだ。あたしはその海の上で、胸に抱いたスノードームを日の光にかざした。

 

 透明な球体の中で、ちらちらとラメが舞う。銀色のそれは太陽の光をいろいろな方向へと反射して、七色に光る小さな雪とイルカが戯れて泳いでいるみたいだ。


 イルカの表情はどこまでも楽しく朗らかで、その目はどことなく彼に似ていた。彼がスキーの話をしているとき、スキー場で風のように滑り降りているときのそんな目。


 すん、と鼻が鳴る。泣こうと思ったわけじゃない。けど鼻をすすった拍子に、また雪の匂いがした。青いベッドカバーからは甘いルームフレグランスの匂いしかしないはずなのに、確かにあたしの鼻の奥は、雪国で慣れ親しんだ初雪の匂いを捕まえてる。その匂いの記憶は南国の匂いに麻痺していたあたしの脳を揺さぶって、初めて嗅いだ彼の匂いをも強烈に思い出させる。


 念入りに手を洗ったらしい石鹸の匂いと、少し焦げっぽい、灯油ストーブを焚いた匂い。それにほんのちょっぴり混ざったお味噌汁の匂い。


 あたしはバッグの中から小さなポーチを取り出した。フェルト地のポーチを開け、ところどころ黒ずんでいるけど銀色に光る指輪を手の平に載せる。それを今にも暴れだしそうな薬指にはめた。ずしりと重い。けど心細さは消える。


「ハワイと日本の時差って、何時間だっけ」


 電源を切ったままにしてあった携帯電話を開き、あたしはボタンを押した。ディスプレイに示される時刻は朝の六時。イブじゃない。二十五日、クリスマスだ。


 ――こんな時間に電話したらどう思うかな。でもクリスマスの朝は特別だもんね。


 あたしは寝起きで不機嫌な彼の声を想像しながら、彼の番号を一つ一つ押していく。電話が繋がったら何を話そう。何を伝えよう。怒られるだろうから、まずは謝るとこから始めようか。


 街に流れるクリスマスソングに後押しされるように、あたしは最後のボタンを押した。



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イルカに降る雪 あおいかずき @yukiho-u

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