第9話

 立成19年度の星花女子学園高等部始業式は、生徒たちの輝かしい一年の幕開けとなる日……であるはずなのに、かつてない大混乱が起きていた。


 大騒ぎの原因は、日本で知らない人はいないと言っても過言ではないくらい有名な女優、雨野みやびが自分たちと同じ星花女子学園の制服を着て登校したこと。


 彼女が現れた先々で、周囲が静まり返って辺り一帯が無音になるという事態が多発したのはもちろん、モーセが割った海のように廊下の左右で彼女をひと目見ようとする生徒が相次ぎホームルームがどこのクラスも時間通り進まなかった。

 偶然居合わせた生徒はまさかの人物の登場に生徒たちは絶句し体の動きを止め、待ち構えていた生徒たちは憧れと羨望の眼差しを静かに、しかし熱烈に彼女へ送っていた。

 そして彼女がいなくなるとホッと一息をついて上級生下級生関係なく今起きた出来事について大興奮した様子で語り合うという様子が一日中行われていた。


 *


 始業式の翌日に行われた立成19年度の星花女子学園高等部の入学式は、下ろしたての制服に身を包んだ新入生が高校生という新しい身分を手に入れる記念すべき日であるはずなのに、かつてない大騒ぎが起きていた。


 大混乱の原因は、誰しも一度は耳にしたことのあるであろう椚坂108(ワンオーエイト)のセンターを務める大人気アイドル、ひさかべちゃんこと姫咲部律歌が、新入生の椅子に座っていたこと。


 いつもテレビ越しで見る、人々を幸せにする天使の笑顔を浮かべていた彼女は、会場の新入生、在校生、保護者、教員問わずすべての人から一挙手一投足を注目されていた。


 教員たちは昨日の光景とどこか既視感を覚えながらも、ただでさえ浮かれ気味な新入生をどうにか現実に引き戻して入学式とその後の顔合わせを進めた。


 話題の彼女は一日中誰とも言葉を交わさず、式典やホームルームに模範的に参加すると、下校時間になると彼女の教室に押し寄せる生徒たちの存在を予見したのかいつの間にか姿を消していた。



 ***



 今日は新学期初日。

 わたしは明日入学式を迎える麗よりも一日早く学校に向かっていた。


 二年生から編入する立場のわたしは、はじめての登校だけど普通の在校生と同じように今日から始まるのだ。


 事前に波奈さんから、クラス分けが発表されて大混雑する掲示板に寄らなくてもいいようにと知らされていたわたしのクラスは二年三組。

 先月校内を案内をしてもらった五行椿姫さんと同じクラスだ。


「雅さま。学園に到着いたしました。下校時間に合わせて車をご用意いたしますが、お時間の変更がありましたらこちらにお電話くださいませ」


 そう言って老齢の運転手、山崎さんが名前と電話番号の書かれた名刺を手渡してきた。

 わたしはお礼を言ってそれを手提げかばんから取り出した名刺入れにしまう。

 その間に山崎さんは車を降り、私が座る左後ろのドアを開けてくれていた。


 正直言ってVIP待遇は慣れない。肩肘張るし緊張する。

 演技でお嬢様の役を演じてお嬢様っぽい敬われ方をされるのと、本職の人に洗練された無駄のない動作で本物の待遇を受けるのとは訳が違う。

 所詮わたしは庶民なのだ。きっとこれからも慣れないだろう。


 でもわたしは雨野みやびなのだ。

 お嬢様の演技を思い出して、おかしく見えないように優雅な動作で車を降りる。


 降りるときにできた一瞬の隙に周りを見渡すと、ちょうど登校のピークだったのかかなりの数の車と生徒たちの姿が見えた。


 山崎さんが背後で頭を下げている気配を感じながら、校舎に向って一歩を踏み出した。

 ……踏み出したところで、わたしは周りがやけに静かなことに気が付く。

 どうやらここでも、いつものあれが起きたに違いなかった。それをわたしは勝手に『超絶句タイム』って呼んでいる。


「おはよう、雅ちゃん」

「おはよう、椿姫ちゃん」


 やけに静かな道を通って昇降口へ向かうと、ちょうどそちらから椿姫さんが手を振りながら歩いてきた。

 今まで遠目から黙ってわたしを見るだけだった周りの子たちから、椿姫ちゃんとわたしが挨拶する様子をみて少しざわめきが起きた。それだけ椿姫ちゃんは学校で有名な人なのだろうと勝手に予想してみたり。


「もしかして、待っていてくれたの?」

「うん。きっと騒ぎになるだろうなって思ったんだけど……全然心配なかったね」

「たまにこうなっちゃうの。もっと仲良くしたいんだけどね」


 ちょっと冗談めかした軽い感じで話しかけてくれる椿姫ちゃんの意図を察してわたしは答えた。

 わたし達は普通の声で喋っていたけれど、静かなわたし達の周りに十分届く声だった。

 これでへんに遠慮しないで話しかけてくれる人も増えるだろう。


 わたしは水族館のイルカになりに来たんじゃなくて普通の学校生活を送りにきたんだ。

 そういうことを軽くこの前会ったときに五行姉妹に話していた。椿姫ちゃんは早速それを実行にうつしてくれたみたいで本当にありがたい。


「今日はどういうスケジュールなの?」

「ホームルームがあって始業式をしたあと軽く連絡があっておしまい。私は生徒会と一緒に明日の入学式のお手伝い」

「初日は思ったより楽なんだね」

「そうだね。休み明けてすぐだからみんなもいきなりは疲れるでしょうし」


 それに今週はほとんど授業以外の実力テストとか健康診断だけで終わるんだよ、と教えてくれた。

 わたしはなるほど、と頷く。

 高校のことはわかないけどそういうものなのかな。


「それで、ここが私達の教室よ。一年間よろしくね、雅ちゃん」

「こちらこそ。これからも仲良くしてもらえると嬉しいな」


 わたし達はお互いの右手を伸ばして握手する。

 ……実はなんだかハグされそうな感じの雰囲気で椿姫ちゃんが近寄ってきたから、先手を打って手を伸ばしたのは秘密。この前のことがあるから不用意に身体の接触はしないほうが良さそうだと結論づけていたから。


 この日は何事もなく……少なくともわたしの中では平和に一日が過ぎて、特に長居する用事もないから、何かトラブルになる前に早めに帰ることにした。


 入学式の準備をするために残っていた椿姫ちゃんから聞いた話によると、わたしがいた付近以外ではほんとに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていたらしい。

 一緒にいた椿姫ちゃんも質問攻めにあったようで、うまく説明しておいたから明日からはきっと話しかけてくれる子も増えるだろうって言ってくれた。


「山崎さん、明日は麗にあわせて朝今日より一時間遅い時間に出発しようと思います」

「かしこまりました。地下の駐車場でお待ちしています」


 入学式当日も学校側の準備が必要なのか、通常の登校時間から一時間くらい新入生の登校が遅かった。

 保護者のわたしも一緒に行けばいいはずたから山崎さんに時間変更を伝える。


 ……本当にこういう雰囲気は慣れないよ。明日からは麗と一緒に登校するから、二人で話をしていれば気を紛らわせることができるかもしれない。きっと麗もわたし以上に緊張するだろうから。


 この重い空気に耐えられなくなったわたしは、鞄からスマホを出してマネージャーさんからの連絡をチェックし始めた。


 *


 今日、私は数年ぶりにありのままの姿で学校に行く。


 ぐるぐる眼鏡に三つ編みおさげの地味子をやめて、ひさかべちゃんこと姫咲部律歌で登校するのだ。

 今年から高等部に上がるということも都合が良かった。私のインパクトに隠れて、きっと中等部にいた地味子のことを思い出す人はいなくなると思うから。


 電車とバスに揺られて学校に着くまでは流石にマスクと伊達眼鏡で変装する。でも、今までは家からずっと地味子で通っていたから大きな進歩だ。


 校門に着いた。

 二年近く通っていた学校の校門なんて、普段なら視界の端にも留めずに素通りしているけれど、今日は少し違った。


 緊張しながらマスクと眼鏡を外し、髪をまとめていたヘアゴムをとった。


「ねぇ、あれって……!」

「まさか……!」


 間髪入れず少し離れたところにいた新入生のグループからそんな声が聞こえた気がした。


 少し俯いていた顔をあげて、校舎に向かって歩きだす。


 やっと、やっとしがらみから開放された気がした。

 高校生活はこれからだけど、心にずっとつかえていたモヤモヤは無くなった。

 きっと今の環境ならひさかべちゃんでも上手くやれるだろう。

 昔の私と、今の私は違う。

 そう考えて。


「律歌ちゃん」


 クラス分けの掲示板の近くでよく知った声に呼び止められた。


「麗ちゃん! 来てたんだ! みや……あー、お姉さんは?」

「この人が雅だよ」

「嘘っ!?」


 隣りにいた、なんとなく印象に残り辛い雰囲気の星花の高校二年生の制服を着た人を示されて私はものすっっっごく驚いた。


「おはよう、姫咲部さん」

「ほ、本当に雅さんだったんですね……全然気が付きませんでした」

「あんまり騒がれたくないときはこの格好なの。……じゃあ麗、先に行ってるから」

「わかった。また後で」


 姫咲部さんもまた後で、という言葉を残して雅さんは先に校舎の中に入っていった。


「やっぱりすごいな。私も負けてられないや」

「律歌ちゃんと一番最初に会ったときの律歌ちゃんの姿も相当凄かったけどね」

「そうかな……って、そういえばなんで私だってわかったの?」


 いつか聞いてみたいなと思っていたことを口にする。

 そして私は聞かなければよかったなと後悔することになった。アイドルとして、演技をする者として雅さんとの実力の差を改めて実感したから。


「律歌ちゃん、地味な子の割にはちょっと雰囲気とか、背の伸ばし方が陽キャっぽくてちょっとわざとらしかったからかな」

「そ、そっか……」

「ごめんね、雅を見慣れたウチだから感じることで、普通の人が見れば何も違和感ないくらい名演技だったよ」


 だからずっとバレなかったんでしょ? と言われて少し自信を取り戻した。


「そういえばもうクラス分けは見た? 私今来たところでまだ見てないの」

「そう、それで待ってたんだ! ウチと律歌ちゃん、同じクラスだったよ!」

「本当!? 嬉しいな……!」


 クラス分けの紙が貼ってある掲示板の方へ進む。沢山の新入生が囲っていたけれど、私達が近づくと自然と人の壁が割れてすぐ目の前まで行くことができた。

 私達のクラスは一年二組だった。


「一年間よろしくね、律歌ちゃん」

「こちらこそ。麗ちゃん」


 どちらともなく近づいて、軽くハグをして思いがけない幸運を喜びあった。


 案の定、廊下でも教室でも入学式の会場でも騒ぎになりかけたけど、話しかけられるということもなかったし自由時間にはずっと麗ちゃんと話していられたので楽しく過ごすことができた。


 心配で仕方が無かったありのままの姫咲部律歌としての学校生活は、とても充実した幸先のいいスタートを切った。

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