さよなら風たちの日々 第5章ー1 (連載10)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第5章ー1 (連載10)


              【1】


 学校の正門を出て、バスに乗る。バスで亀戸駅に着くと、総武線に乗って秋葉原に出る。秋葉原からは山手線か京浜東北線で日暮里まで移動し、京成電鉄に乗り換える。そうして最寄り駅の堀切菖蒲園で降りて、自宅まで徒歩十分。

 それがぼくの通学コースだった。所要時間は約一時間三十分。そのあいだ、本は読まない。ただぼんやりと外を眺めていたり、車内広告を見て堀切菖蒲園までの時間を過ごすのだ。

 結構退屈はしない。ときどきどこかの女子高生と隣り合わせになって、密かにそれを観察する楽しみもあるからだ。

 けれどその女子高生と目が合ったりすると、ぼくはあわてて視線をそらしてしまう。男女交際に慣れてないので、声をかけるなんてとんでもない。そっと盗み見するだけで、それでぼくは満足していたのだ


              【2】


「先輩、先輩」

 十月に入ったばかりのある日、ぼくは秋葉原のホームで声をかけられた。

 振り向くと、そこにヒロミが立っていた。

 ホームでぼくの姿を見つけ、駆けてきたのだろうか。少し息が弾んでいて、呼吸が乱れている。

 ホームの時計を見た。時刻は午後五時十五分。これから駅は、夕方のラッシュアワーを迎える時間帯になるのだ。気の早いサラリーマンやOLが、もう学校帰りの生徒たちに混じってホームを行きかっている。

「ちょっといいですか。お話があるんです」

 乱れた髪を無造作にかき上げ、息を弾ませながらヒロミが言う。

 何だろ、という表情を見せてぼくが立ち止まると彼女はもう一度髪をかき上げ、呼吸を整え、ぼくの胸元を見つめながら、

「今話さないと、ずうっと話せなくなる気がして」。


 ヒロミの大きな瞳は、どこか憂いを含んでいた。その憂いはどこから来るのだろう。その答えを見い出そうとぼくは彼女を見つめてみた。けれど、それでも彼女の瞳は何ひとつ、ぼくに手がかりを残そうとはしなかった。

 少し沈黙があった。

 さらに沈黙があった。

 二人は黙り込んでしまったのだ。

 そしてぼくの目は意味もなく、駅のホームの天井をさまよい続けた。


              【3】


 ときどきヒロミは駅のホームを行きかう人に押されたり、身体をぶつけられたりして、何度もよろめり、倒れそうになった。

 無理もない。あの小さな身体が混雑する駅の乗り換え用階段の前で立っているのだ。だから通行人はそれに気づくのが遅れて、ヒロミにぶつかってしまうのだ。

 見かねたぼくはヒロミをうながし、階段横の通行人の少ない場所まで移動した。

 そこは売店とミルクスタンドが併設されている場所だった。白い三角巾をかぶった年配女性が手際よく、客の対応をしている。今はその客も数人だったから、ここならぼくたちが通行人の邪魔になることはない。

「何、話って」と、ぼくが切り出した。

 たぶん信二のことだろうな。ひとりじゃ恥ずかしいから、あいだに入ってくれ、とでもいうのかな。あるいはただ単に、手紙を渡したキューピッド役のぼくに、お礼を言うのかな。

 そう推察しながらぼくは、彼女の言葉を待った。

 しかしかヒロミはなかなか話を切り出そうとはしない。

 ヒロミはカバンを持つ手を替え、少し視線をずらした。

 そうして、唾を飲み込んだのだろうか。喉のあたりを小さく上下させたあと、また視線をぼくに戻した。

 沈黙が続いた。

 ヒロミはぼくを見つめたまま、何も言おうとしない。

 いや、違う。言おうとはしているのだが、何から話せばいいのか、どう話せばいいのか、その判断をためらっているのだ。

 だからヒロミはぼくを凝視したかと思うと、ふと視線をそらしたりするのだ。


 レモンイエローの電車が轟音とともに、ホームに滑り込んでくる。圧搾空気が抜ける音とともに、やや強引に電車のドアが開く。構内アナウンスの怒声のような声のあと、次々と電車から吐き出される乗客たち。その乗客たちの流れが途切れると、

待ちかねていたようにホームにいた乗客が電車に乗り込む。

 カンテラを高く上げてそれを振り、車掌に合図を送る構内係員。大音響の構内放送にホイッスルが重なり、電車のドアが一斉に閉まる。一瞬の沈黙のあと、ドア上部に取り付けられた赤ランプが消える。すると電車は重々しく動き出し、やがてレールを軋ませて、轟音とともにホームから走り出していくのだ。

 家路を急ぐ人。これから仕事の人。誰かと待ち合わせて、食事やお酒、買い物を楽しもうとする人。

 そんな駅構内の人の流れの中で、押し黙った二人がホームで立ち尽くしているのは、明らかに奇異だった。ときおりそれに気づいた乗降客が二人を一瞥して通り

過ぎていく。あるいは不思議そうに、怪訝そうに、さらには不審そうな視線を二人に送り、通り過ぎていく。

 虚無。沈黙を続ける二人。何もない時間。何も起こらない時間。そんな無意味な時間が二人のあいだに、実は三十分以上も流れていくのだった。


              【4】


ヒロミは明らかにためらっている。言おうか言うまいか。あるいは話をどう切り出せばいいのか、そればかりを逡巡している。だから彼女の唇はときどき、何かを言いだしそうになって少し動く。しかしその直後、彼女は哀しそうな顔をして首を横に振り、唇を一文字に閉じて、黙り込んでしまうのだ。

 業を煮やして、ぼくが言った。

「話がないんなら、おれ、帰る」

 ヒロミの顔に困惑が走った。

「言います。言います。だから、すみません」

 ヒロミの目が哀願調になった。やがて彼女は大きく息を吸い込み、そしてようやく

決心したかのように、ぼくを呼び止めたわけを話した。

「あの手紙の、意味が知りたいんです」

「あの手紙の、意味・・・」

ヒロミの言葉をオウム返しで返事をしてから、ぼくは首をかしげた。

「手紙って、信二の手紙のこと・・・」

 ようやくそれに気づいてぼくが訊ねると、ヒロミはこっくりうなずいてぼくを見る。

 ぼくの頭の中で、今のヒロミの言葉がゆっくり回り始めた。迷路に迷い込んだ旅人のように、その言葉は行き場を見失って、ぼくの心をさまよい続ける。

 どこに出口があるのだろう。その言葉のどこに、真意があるというのだろう。

いくら考えてもわけが分からなくて、ぼくはヒロミに訊ねた。

「おれ、ただ、手紙を渡してくれって、信二に頼まれただけなんだ。だから意味を知りたいって言われても、困るんだけど」 

 そんな言葉にかぶりを振り、ヒロミは悲しそうに言葉を続けた。

「違います。どうして先輩が私にあの手紙を渡したのか。その意味を知りたいんです」

 もう一度その言葉が、ぼくの頭の中で渦巻いた。

 一体ヒロミは、何が言いたいんだろう。あの手紙を書いたのは、信二なんだ。ぼくはただ、それを渡すよう頼まれただけなのに。

 そんな思いを巡らせて黙り込んだぼくに、ヒロミは顔を曇らせ、ぽつりと言った。

「・・・先輩。それ、残酷です。残酷過ぎます」


 ヒロミは一体、何を言ってるんだろう。一体ぼくの、何が残酷なんだろう。

 ぼくの視線は再び、駅のホームの天井をさまよい始める。




                           《この物語 続きます》









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