第2話:前夜

下校の電車。車窓の景色は早くも暗がりが満ちていて、街灯の無機質な明かりがまだらに過ぎる街を照らしていた。


 彼がなぜ屋上に呼んだのか、彼が何を言おうとしていたのか。そんなものはホームルームの後に彼が誘ってきた時点でわかっていた。いや、多分もっと早く。

 もっと早くから彼の気持ちには気づいていた。


 だからこちらも言葉を用意していた。


 端的で、無機質で、連なる街灯の一つのように標を与えるためだけの言葉。

 そんなぞんざいな私に彼は。


『そっか』

 

 まるでわかっていたかのように驚きや落胆を見せず、


『聞いてくれて、ありがとう』


 清々しい表情で私に笑ったのだ。

 車窓に写る私の表情と対比するようなその顔が、景色のずっと奥に写る。いや、私の心の奥か。

 

 鎌瀬くんを嫌っているわけではない。

 むしろ男の人が苦手な私としては、彼の存在はありがたい。 

 

 急行が停まる駅に着き。人並みが押し寄せる。やはりいつもどおりどこかで時間を潰すべきだった。


――そう、苦手。嫌い、ではない。

 

 粗雑の所とか、口が悪いとことか、考えが幼稚なとことか、そこをあげつらうつもりはない。そんなのは女子も変わらない。品のある人はあり、ない人はない。それだけだ。

 

 そうじゃなくて、もっと物理的というか、性質的というか、生理的というか。

 

 扉がしまる。ぎゅむぎゅむと帰りのサラリーマンに窓際へと追い込まれる。

 空気を求めるように外を見る。車窓に写る私の顔はすごく青い。

 

 どうにも、男の人の匂いとか手触りとか、そういった諸々が私の身体は受け付けてくれないのだ。もちろん全ての男性がそうなわけはないが清潔感の欠けるは本当に無理――

 

 読者諸兄まって、怒らないで、聞いて。

 弁解はしない。が、理解はしてほしい。それも求めすぎと思うなら読み流す程度でも構わない。

 

 ただ、誰にだってあるだろう、苦手なものが。


 黒板で爪をひっかく音とか、幾何学模様とか、しいたけの裏側のざらざらとか、生ゴミの匂いとか。


 要するに私の中には『男性=生ゴミの匂いのするしいたけの裏側のざらざら』という等式がある。それはもう最悪な存在――


 まって、プラウザバックしないで。


 一つエピソードを挙げよう。

 不幸自慢をするつもりはないがこのままでは、私は体質や生活環境を鑑みず『あのおっさん汗かきすぎキモww』とかわざと聞こえる声の大きさで話し始める、悪趣味な女と間違われかねない。


 あれはそう、私が小学校に入りたての頃。普段寡黙な父が部長になり浮かれて居酒屋をはしごしたのち夜遅くに帰ってきた時のことだ。

 

 偶然にもお手洗いに向かった私と目があった父は、ぐでんぐでんの状態で私に抱きついたのだ。

 酒の匂いと油の匂いと肌のベタつきと。

 他にも色々。

幼い私が連想したのは、給食のこと。残飯を一緒くたに打ち込むあの大鍋。


『ゲロゲロゲロゲロゲロゲロ』


 それはもう盛大に吐いた。普段寡黙な父はショックのあまりワンワン泣いた。それ以来父は私と物理的に距離を取るようになり、私も二度とあんな目に会うまいと基本的に男の人とは関わらないようになった。

 

 その点鎌瀬くんはなぜだかそういう反応がまったくない。持ち前の清潔感というか揮発性の高い爽やかさが為せるものなのだろうか。

 

 彼は昼休みよく体育館で軽く部活の練習をしているらしく教室に戻る時はいつも汗でびしょびしょだ。


 起立性低血圧でそんな彼にダイブしたことがある。その時、例の症状がでなかったのだ。


 それは私にとって男の人への生理的抵抗を無くす糸口になりうることだった。鎌瀬くんは私に取っての希望なのだ。

  

 だからありがたい。

 

 だが、そこまで。

 昔からそうだ。友達に好きな人ができたら気になるし、少女漫画を読んでドキドキもした。今もする。

 ただ、自分自身にはそういう感情が湧かない。それどころか人と必要以上の関わりを持つことに辟易する有様だ。

 

 気持ちは嬉しい。でも、だからこそ、彼に可能性を与えることは正しいこととは思えない。見込みのない苗は早く抜くべきだ。

 

 前述の通り彼はモテる。だから他にもいい人がたくさんいるだろう。だいたい私のどこが好きになったというのだ。ろりこんなのか。

 

 家につき制服のまま枕に顔をうずめながら考える。いくら考えても人の気持ちを理解できることはない。

それなのになにかしようにも手が付かない。鎌瀬くんから借りた漫画を読まなくちゃならないのに。

 


「ひっちゃーん。ご飯できたよー」

「はーい」


 一階から響く母の声はまさに渡りに船だった。私はご飯を味わうことだけに集中し、その後は普段通り今日の復習と宿題と明日の復習に専念した。習慣バンザイ。


 区切りが付いて勉強机の時計に目を向けると時刻は22時を回っていた。最近数学が難しくなってきて、数学が2日続くと復習と予習で時間と体力が削がれる。お風呂に入ってさっぱりしたい。

 

 風呂場に向かい湯船に浸かりぷくぷくと泡を立てる。勉強の疲労で頭が機能しなくなる。今日一日を噛みしめるように振り返ってみる。こうすれば一日を二回味わえると幼い頃母から教わった。私はこの瞬間が好きだ。


 良い思い出は湯船に溶かして浸ればいい。嫌な思い出はあふれるお湯と一緒に流せばいい。

 

 今日も色々あった。学校へ行って友人にあって勉強してそして放課後。

 

「鎌瀬くんはろりこんなのかもしれない」


 そう結論付けて私はお風呂から上がった。

 歯磨きをしてリビングに向かうと母が読書に励んでいた。


「あ、ひーちゃん」


 家ではともかく外でそう呼ぶのはいい加減辞めてほしい。それを強く言えないのきっと母が好きだからだろう。それは良いことだ。


「ひーちゃん明日誕生日だね」

「あ、たしかに」

「プレゼントなにがいい?」

「……お金?」

 

 具体的に浮かばなかった私がそう答えると、母は笑った。

 

「即物的だね」

「ソクブツテキ」


 私が聞き慣れない言葉を機械のように復唱すると、母は文節を紡ぐように人差し指を立てくるくると回す。


「ロマンチックさに欠けるってことかな」


 そうして私が理解しやすい言葉で説明してくれた。

良い母親だと思う。というかいい家庭環境だと思う。不自由がなさすぎて反抗期がなかったほどだ。きっと前世で私は世界でも救ったんじゃないかと妄想してしまう。さすがにそれは大げさか。

 

「ロマンチックさ……。それはあるかも」

「こらこら女子高生」


 母は相好を崩しながら財布からお金を抜いた。


「十六歳だから、一万六千円でいい?」

「十六万じゃないの?」

「わかった、下ろしてくる」

「冗談だよ、ありがとう」


 自室に戻り財布にお金を入れる。気づけば零時まで後三十分。私は電気を消して布団に潜る。


 十六歳か。いまいち実感がない。第一、前後でなにかが変わるわけではない。十六年前の明日私は生まれたわけだが一日、一年。それは天文学から導かれた便宜上の周期にすぎない。


実際の時間は一直線に伸びていて、同じ時を過ごすことはないのだ。


だが、区切りをつけることは良いことだ。

 実際に存在しない補助線を引いて複雑な証明問題が少しわかりやすくなるように。

 誕生日を迎えても実際にはなにも変わらないとしても、その区切りを標に変わろうとすることはできる。意識を変えることはできる。

 だから、良いことだ。

 とりあえず十六歳になったら。そうだな。数がくを、もっとがんばりたい。

 あと、もっとおとななじょせいに……。せいしんめんじゃなくて、からだ……。せめて、としそうおう、に……。

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