2020/12/24 - 16:33
「本日は急遽お集まりいただきありがとうございます」
明朗とした艶のある声が響く。
(……この人、こういう場でこういう声を出せるんだ。)
普段とは違って外向けに作り込んだ嬉野の声音に、辻村は唖然とした。
けれど、そんな尊敬に近い念を覚えたのも一瞬。余計なことに気を取られていい場面ではない。
「それでは会議メンバーも揃ったところで、早速本題に入りましょうか」
会議室には我妻、前園、嬉野、久留、そして辻村が詰めていた。
テレビ会議システムに映り込まないよう末席で息を殺す辻村は、剣呑な空気の只中にいる久留の背後からこっそりとテレビの向こうを見やる。
「急な会議をお願いしてしまい申し訳ありませんね、五十嵐さん」
「いえ、こちらこそ願ってもいない場です。お互い、今日くらいしか時間もありませんしね、こういう交渉をするのなら」
画面越しでも分かる痩躯で色白な男――五十嵐が苦笑してみせる。まだ若い。ようやく三十台に足を踏み入れたくらいか。聡明さを感じさせる小奇麗なカジュアルスーツに身を包み、一筋縄ではいかない雰囲気を醸し出している。その隣には息を呑むほど見目麗しい金髪の女性が勝ち気な双眸でこちらを睨んでいた。漆黒のスーツを身に纏い、その胸元で鈍く光るひまわりの花に、辻村は固唾を呑む。
(……なるほど、クラウドソリューションズも本気ってわけ)
プロジェクトの責任者と法務担当のたった二人。
けれど、相手にとって不足なし。
「――で、早速本題ですが、総合電機工業様におかれましては、ぜひとも我が社のご提案と意向は汲んでいただきたく。我が社もこれまで約半年間、御社と開発可能性を検討し、諸々の開発ツールを準備・調整するためにこれまで相当な工数を取っております。前金で三億はいただきたい。僕らは既にそこそこの血を流していますからね」
蛇のような眼を銀縁眼鏡の奥から光らせて、先手必勝とばかりに五十嵐が言い放つ。
「決して小さくない金額であることは承知しておりますが、こちらもビジネスですからね。前金をいただければ御社のために次期の予算を確保できる。要件定義と開発工程についていまご提案しているものから一ヶ月……、いや、二ヶ月は早めることができるやもしれません」
ねばつくような声が静まりかえる会議室を支配する。
「目下、弊社は御社と同規模の複数社から大規模なシステム開発を請け負ってくれないかと打診を受けております。故に、僕としては是非とも御社のために今後の要員も確保したいのです。そのための三億は決して高いものではないと思いますがね」
「……………………ふむ」
五十嵐の提案に、我妻は腕を組んだまま逡巡し。
「……どうしてそれをこのタイミングで打診してきたのかを教えていただきたい。開発費用やスケジュールについては御社の担当とこちらの前園が綿密に調整を進めてきたはずだ。
「まぁ、弊社にも諸々と事情がございますから。先程も申し上げたとおり、弊社は数多の企業から開発の打診を受けております。販売管理機能の強化は御社だけではなく、数多の企業様が画策している全社レベルの重要課題でもありますからね」
「それにしては随分と急なご提案ですな。前金の三億は、なにがあっても払い戻しはできないと」
「ええ……、非常に心苦しいご提案ではありますが……。いやあ、御社がどうしても望まれるのであればご返金可能な条件に戻すこともできます。ですが、要件定義以降の本番環境開発に進んだ際、やもすると、人工を充分に確保できない可能性も浮上して参りまして……」
「それをどうにかするのが売りではなかったのかな?」
「ええ、まぁ、そうではございますが、我が業界はどこもかしこも人員不足でしてね。正直に申し上げると、需要に対して絶対的な供給可能工数が常に足りていない状況です。我妻さんであればご存じとは思いますがね」
「ふぅむ……、そう、か」
小難しい顔を浮かべた我妻に、五十嵐が畳みかける。
「ですから、前払いを確実に頂ければ、それを弊社で予算化して二請けをあらかじめ確保できます。要件定義にはそれほどお時間もいただきませんし、返金不可といったところで御社にとってはメリットが大きいものと考えますが、いかがでしょう?」
懐に潜り込んでくるような細い声。
五十嵐が口にする提案が、決して悪いものではない。
開発全体のスケジュールは二年にも及ぶが、要件定義の期間は三ヶ月弱。どのみち人工での支払いは発生する。それを思えば、返金不可だとしてもどのみち支払わなければいけない大金だ。ならば、この提案は買いなのではないか。
少なくとも辻村には、そう思えた。
「……確かに魅力的な提案ですな」
「でしょう!? であれば、さきほど我が社がお送りしました契約案にて――」
「ところで、前園からも申し上げているとおり、本件は今後の我が社のDX基盤を担っていく肝入りでしてなぁ。別の課でも平行して帝国電気さんへ開発打診をしているのですが……いやはや、さすがは最大手といったご提案を受けているところなんですよ」
――きた。
わずかに開きかけた口元を、辻村は咄嗟に両手で抑える。
「…………はぇ?」
画面越しの五十嵐は狐につままれたように呆けた顔を浮かべ、その隣で交渉の行く末を見守っていた女性もまた、焦りを抑えながら手元の契約書や書類の束をばらばらとめくりはじめた。
完全に想定外のカウンターを喰らったような慌てぶりに、今度はクラウドソリューションズ側の会議室が騒がしくなる。
「いや、いやいやいやっ!! 待ってください、さすがにそれは真義に反するんじゃないんですか!?」
五十嵐の叫びに、我妻は堂々たる態度を崩さない。
「なにを仰っているんですか五十嵐さん。まだNDAしか締結していない、要件定義もこれから、そんな状況です。そうである以上、弊社としてはこれだけ大規模な開発をこのタイミングで御社のみに搾っているなんて、あるはずがないでしょう。今後数年、保守も込みで十年はお付き合いいただくパートナーなんですから。ぎりぎりまで諸々の条件を比較して総合的に判断するのは当然です」
「いや、だからって……、まさか、本当に帝国電気さんと……?」
「以前にもご紹介しましたとおり、現行のシステムも帝国電気さんのパッケージをカスタマイズしてもらったものでしてね。値は張るものの、さすがは最大手の品質と手厚い保守サポートをしていただいたおかげで我が社の販売管理を長らく支えてもらっています。本件も、まぁ、御社のご提案と比べれば費用は掛かるものの……御社の前でこう言うのもなんですが、品質や信頼性は文句のつけようがない。開発の速度も遜色ないご提案を頂いているところです」
「…………っ」
「ですから……、ねぇ。御社が仮にこのタイミングで将来的な工数や納期を確約できないと仰るのであれば、誠に心苦しくはありますが、今回のお話はなかったことにさせていただくという結果に――」
「ちょ、ちょっと待っていただけますか!! お、おい、鬼柳っ!! この状況、なんとかできないのか!?」
机上に散らばる紙の束を、目を皿のようにして読みふけっていた金髪の美女――鬼柳がはっと顔を上げる。
「……我が社は本件ディール成立のためにこれまで相当の工数を捻出しております。仮にここで総合電機工業様が帝国電気様との開発を進めるようであれば信頼利益を逸する結果となります。相応の覚悟があるからこその、我妻様のご発言と受け取りましたが――」
「ふむ。なるほど信頼ですか。そうであるならそもそもの話、三億円は前払いかつ返金不能という御社のご提案がこの状況を生み出しているものと理解しているのですが、いかがでしょうな? それに、10月のキックオフ会議では、要件定義前の段階はお互いに手弁当でやりましょうと約束をしました。前園が議事録にしっかりと書き残しております。そこには五十嵐さんの署名もあると記憶しておりますがね」
「…………本当ですか、五十嵐さん」
頬を引き攣らせながら、鬼柳が五十嵐へ問い質す。
「……した。けど、あれはあくまで議事録だぞ!? それくらいのことは日常的にやってる。信頼を獲得するためには当然やるさ。なによりこの案件に限った話じゃない。……って、おい、なんでそんな青ざめてるんだよ」
「…………そう、ですか。だとすると……、五十嵐さん、これ以上は……」
辛酸を舐めたとばかりに顔を歪ませた鬼柳が、微かに首を横へ振る。
「はぁ!? お、おいっ、冗談だろ……」
「…………っ」
意気消沈した鬼柳の姿を前に、驚愕のまま固まる五十嵐。
画面越しに哀れな姿を認めた我妻が一際大きく息を吐いた。
「……議事録も当事者間の合意を形成する大事な記録であることに違いはない。法務が介入しない場面でいかに立ち回るかはビジネスマンとして大事な所作ですよ、五十嵐さん」
「くっ…………、分かり、ました。確かに以前、お互い自費でここまで進めましょうと話をして握手をしました。その意志を反故にするつもりは……ありませんよ」
がくりと肩を落として俯く五十嵐。
彼にはもう、打ち合わせが始まった頃の威勢は残されていなかった。
「他社への切り替えの可能性を示唆されてしまったい以上、こちらに返金不可の主張を押し通せる材料はありません。返金不可については取り下げいたします。工数については、全力で確保しますが、今後の進捗状況に応じてご相談はさせてください……」
撤回宣言に、我妻は大きく頷く。
そして、
「ふむ。それはなによりだ。突然の提案だったからね、こちらもつい大人げなく喧嘩腰になってしまった。気分を害されたのであれば謝罪をしたい」
「いえ、それはこちらの台詞です。僕らがこの土壇場でこのような条件を提示してまったことは事実ですから……」
「今後は、なるべくこういうことは早く言ってもらえると助かります。こちらも私の権限でできることとできないことがある。まぁ――」
にやり、と。
温厚な笑顔を浮かべたまま口角を上げる。背もたれに身体を預け、ほんの一瞬、寡黙にことの成り行きを見ていた久留へと視線を投げる。
そして久留もまた、ほんの一瞬の合図を見逃さない。静かにパソコンを立ち上げると、辻村から受け取っていた契約ドラフトの最新案をTeamsで画面共有し、あらかじめ仕込んでいた手筈通りに返金条項に書かれた金額を書き換える。
「御社には期待もしているし、本当に困っているのであれば、正直なところ前金としていくらかお渡しすることもできないわけではありません」
「…………え」
「五十嵐さんたちがどうしても困るというのなら、さすがに3億とはいかないが、私の独断で執行できる範囲で、手付金をお支払いいたしましょう。5,000万。これ以上は出せません。ですが、これで御社が飲むというのであれば、返金は一切不要です。たとえ開発が途中で頓挫したといえども、そちらの懐に納めてもらって構わない」
「なっ……、いい、んですか……!?」
「男に二言はありません。いま、画面に表示している契約条件であれば、あとは私がこの場で署名できる。異なる条件にするのであれば、内部での再検討を含めて二時間は待ってもらうこととなりますが、それでも良いかな?」
「そ、それは……」
「交友関係に幅を利かせている五十嵐さんのことだ、聖夜に私とオールナイトで交渉に洒落込むと私生活に支障が生じるのではないかな? 時は金なりというだろう? 私の提案、御社にとって悪い話ではないと思うのだがね?」
「……………………っ」
「なにを渋っているのかは知らないが、私たちには帝国電気さんとのご縁があることをくれぐれもよぉく考慮してほしいところだよ。破談になったところで弊社にとってはほんの少しだけ立ち止まる程度の痛みだ。たった数億のためにこのディールを取り逃す御社ではないと信じているよ」
深く、鈍く、そしてしたたかに、骨の随に染み渡るような、まさしく神の一声。
それを聞き届けた久留は「弊社の法務にてご確認を」と静かに告げて、契約書の修正案をTeamsで五十嵐と鬼柳へ突きつける。
その刹那、辻村は確かに耳にした。
ぽきり、と。
誰かの、なにか、大切な芯のようなものが折れて粉々に砕けるような音を。
「…………した」
「ん? なにか言いましたかな、五十嵐さん。どうやら音声が拾えなかったようだ」
「……わかり、ました。5,000万で、手を打ちます。署名をする前に、鬼柳に確認をさせていただきます」
そうして鬼柳は久留から受け取った契約書を瞬き一つせずに黙読し。
「……金額以外に変更はありません。あとはご決断をお願いします、五十嵐さん」
「……ありがとう、鬼柳。あとは署名するだけだ。今日はもうあがっていいぞ。お疲れ様」
そうして鬼柳が意気消沈した様子で退室していくのを見送ることなく五十嵐は電子署名をし、
「……では、私も署名を済ませるとしよう」
意気揚々と我妻が自慢の崩し字を契約書へ書き記したところで、終業のチャイムが鳴り響いた。
「……っと、これは失敬。メーカーなものでね。まるで学校みたいだろう?」
「……ははっ、そ、そうですね……」
苦汁を飲まされた五十嵐は、ただただ引き攣った顔を浮かべながら乾いた笑い声を漏らすしかなかった。
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