2020/12/24 - 17:17

「いやはや、助かった。法務の方のおかげでなんとかなったよ。色々と切羽詰まった状況で強力してくれてありがとう」


 会議を終えた後、我妻は豪胆に笑いながらばしばしと久留の背中を叩いた。


 労いのつもりだったのだろうが、素手で熊とやり合って生還したとの噂まで立っている大男の張り手は痩躯の久留に赤い紅葉を残した……と、錯覚させるには充分な威力があった。


「……痛ぇ」

「あ、ははは……」


 豪快な音に、思わず辻村も作り笑顔をするしかない。


「正直なところ、私は腹が立つばかりでどうしてあの浅ましい提案を撥ね除けてやろうかと考えあぐねていたところだった。心苦しくはあるが、帝国電気の名前を出すという久留さんの提案は助け船だったよ」

「いえ、あれは辻村がひねり出した案です。彼女がNDAを担当していたから交渉戦略として提案できたわけですから」

「そうか……。まだ若いというのに機転がまわる。爪の垢を煎じて前園に飲ませたいくらいだ」

「ええと、その、恐縮、です……」


 あまりにも居たたまれなくて、辻村は縮こまった。ふと見やれば会議室の末席で前園は草臥れた藁人形のように天井を仰いで呆けている。どうやら彼の耳に我妻の冗談は聞こえていないようだ。


「さて、これで契約も無事に締結ができた。あとは発注処理だな」

「本部長、そちらはご心配なく。すでに済ませました」


 作り声をやめて平常運転に戻った嬉野がキーボードをたたきながら報告をあげる。


「さきほど鬼柳さんからも無事に受け取ったとの連絡も頂きましたし、請求書も経理のほうへ回覧をしておきました。これで本件はひとまず対応完了ですよ」

「仕事が早くて助かるよ。では、居室へ戻るとしよう。18時から来年度予算策定会議もあるしな。そちらの資料の準備をよろしくお願いするよ、嬉野くん」

「ええ。そちら準備できましたら、あたしも帰ります。なにせ今日は大事な予定がありますから」

「そうするといい。法務部の方々もおつかれだったね」

「……いえ、こちらこそ貴重な経験をさせていただきました。本件、来年も僕と辻村が担当しますので、 引き続きよろしくお願いします」

「うむ。期待しているよ」

「それじゃあねぇ、久留くん、辻村さぁん。今日はありがとうねぇ」


 威風堂々たる足取りで次の会議へと向かっていく我妻と、その後ろを付かず離れずの距離で追いかけていく嬉野を見送って、法務の二人組も居室へと戻る。


「……今日はこれ以外に緊急の案件はないだろうな?」

「だ、大丈夫です!! さっき、確認しました!! 年内締め切りの仕事はありません」

「オーケー。それじゃあさっさとあがりな」

「…………」


 意識していなければ何気なく会話を続けてしまうそうな空気に、辻村は抗うように立ち止まった。


「……今日は、なにからなにまで、ありがとうございました!!」


 深く、深く、頭を下げた。


「……いいんだよ。辻村をフォローすんのも俺の仕事だ。気にすんな」

「でも、先輩には迷惑を掛けましたから」

「先輩や上司に迷惑かけんのが後輩の仕事だ。いずれお鉢は辻村にも回ってくるかんな。俺に恩を返さなくていいから、いずれ後輩ができたときにしっかり先輩をやりゃあいい」

「…………っ」

「……それに、そもそも辻村が俺に迷惑を掛けてんのは今日に限った話じゃねぇ」

「な、なぁ……っ、人が珍しく感謝してるっていうのに!!」

「自分で珍しくとか言ってんじゃねぇ。日々感謝しやがれってんだ。つうか、もうすぐ満三年なんだから、もうちっと手離れしてくれりゃあ俺としてはありがたいんだけどな」

「むぅ……、いまにみててくださいよ!! 見返してやりますからっ!!」

「その威勢で頑張ってくれ。ついでに今年度改正の民法とか著作権法とか独禁法、この冬休みのうちにちゃんと復習しておけよ? あとISOの新規格についてもこの前のセミナー資料を確認しておいてくれ」

「そんなクリスマスプレゼントはお断りです!!」

「そんじゃあお年玉がわりにくれてやる」

「間に合ってます!! 私も年の離れた従妹にあげる立場ですしっ!!」


 他愛ない会話の応酬をしつつ居室に戻ってくると、法秤が「おつかれ~」と気の抜けた声を出して二人を出迎えた。


「いやぁ、キットカットを囓ってた願掛けが効いたねぇ」

「業務中になにやってんすか」

「頭使って疲れたでしょ。小袋にまだ沢山あるけど、食べるかい?」

「……いただきます」

「即答だねぇ、久留くん」

「そりゃあ当然でしょう。タダでいただけるものはありがたく頂戴します」

「タダより高いものはないって言うよね」

「これ受け取ったらもれなく契約がついてくるとかやめてくださいね。クリスマスプレゼントはもう辻村のやつでお腹一杯なんで」

「なんだよぉ、つれないこと言うなよぉ……。あ、辻村さんも食べるかい?」

「あ、いえ……。私はもう帰りますので」

「そういえば用事があるんだったね。だったら急いだ方がいいよ。どうやらこの雪は積るって予報だし、いつにも増して電車が混むだろうから。ただでさえクリスマスイヴだしね」

「はい。久留さんも課長も、お疲れ様です!! お先に失礼しますっ!!」


 さっきまでのしおらしい姿はどこへやら。浮き足立つままに荷物を畳み、ダウンとマフラーで完全防寒装備を纏った辻村は小走りで居室を後にした。


 ぴょんぴょんと跳ねるように消えていった若人が去った居室に残された二人は、示し合わせたように深く溜息を溢して。


「……幸せが逃げちまいますよ、法秤さん」

「大丈夫。今年は本厄だから端から幸せなんて手元にないのよ」

「んな悲しいこと言わんでくださいよ。で、まだ帰らないんです?」

「わはは、なにとぼけたこと言ってるんだい。久留くん、今日中に相手方に提示しないといけない契約ドラフトがあるでしょ。イギリスにいる相手さん、しびれを切らしてるよ」

「どうせその期限だって、営業がタスクを来年に持ち越したくないからってだけなんすよ。イギリスだってさすがにもう仕事する気分になってないでしょ」

「まぁまぁ。ここでぐちぐち言ってても、なにも解決しないわよ? ドラフト修正やるか、営業と調整するか、どっちがいい?」

「…………ったく、分かりました。分かりましたよ。あー、面倒だ。俺だって用事あるってのに、畜生……」

「まぁまぁ、落ち着けって。なんとか開演までにやっつけようじゃないの。なんとしても一緒に見に行くって約束したじゃないの」

「……すんません」

「別にいいさ。部下の窮地を救うのが上司の役目だからね」

「……あざます」

「おし、じゃあ、やりますかぁ!!」


 気丈に言って法秤は契約書の束を机上に拡げる。

 そして、久留もまた観念したように英字の綴られた書類を睨んではやれやれと首を振り。


「それじゃあ、今日は最後までとことんお付き合いお願いします」

「……それはそれで誤解を招きかねない言い方だから気をつけような?」


 こうして、星辰が瞬く夜は雪化粧とともに更けていくのであった。

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