2020/12/24 - 13:42
「どうしますか。この契約条件で発注する覚悟はありますか」
机上に漂う重たい沈黙を払うように、冷え冷えとした久留の声が響いた。
IT統括本部居室は本部長席の横。重役が一人、我妻IT統括本部長が眉間に皺を寄せて小難しい顔をする側で、久留は対面に座る面々にはっきりと告げる。
「ま、待ってくれ!! 我妻さんが良い悪いの判断をする前に、私が状況を理解できていない!! 何事にも仕事の進め方ってものがあるだろう!!」
久留の対面で契約書と睨めっこをしていたシステム統括部の前園課長が泡を食ったような顔をして声を荒げた。
「そもそも何だね、キミ。クラウドソリューションズ社との契約は女性の法務の子が担当ではなかったのかね!? いやそもそも、今日中に契約書を結ばないと年内に発注が間に合わない状況で乗り込んでくるとはどういう了見なんだっ!!」
嬉野曰く普段は温厚と評されている(らしい)前園が怒気を叩きつける。
だが、久留は顔色一つ崩さない。
「担当の辻村には荷が重すぎるため私が巻き取りました。今日中に契約を結びたいというのは承知しています。ですが、もう時間もありません。ですからこうして現在の契約条件のご説明のために直接伺わせていただいた次第です。申し上げたとおり、いまの契約案には一切の保証もありませんし、金銭は分割二回払い。そのうち一回は前払いです。要件定義で発生すると見込まれている工数の六割である3億円を来月末までに支払うという条件に戻っています」
「…………っ、前払いはなしだと契約書に書いて伝えたはずなのに、どうしてなんだっ」
「辻村は当社の意向を汲んで修正しました。前園課長の仰る通り、要件定義フロー完了後の一括払いで提示しています。まさか、交渉してないんですか」
「交渉もなにも……契約書を提示したんだから、そ、それが交渉だろう?」
「契約書をメールでやり取りしただけですよ? 条件の話し合い、してないんですか?」
「……い、いやっ、そ、それは……――」
前園が忙しなく視線を右往左往させる。
その双眸はまるで標的を探す狡猾な烏のようで。
「う、嬉野さんっ!! 僕、先方と相違ある部分は調整するように伝えてあったよね?」
そして、その双眸は隣に控えていた嬉野へと固定される。
「先週の会議でも伝えたはずだ。ああ、うん、確かにそうお願いした記憶があるぞ。支払いの件も帳票がもらえないと困るから催促するように頼んだよねっ?」
水を得た魚のように、矢継ぎ早にあれこれとまくし立てる前園。
そして嬉野は困ったような顔をして。
「ええ、確かに仰いましたけど、それはシステム開発のスケジュールと要件定義の概要ですよね?」
「……ああ、それも嬉野さんの役目だから当然だねっ!!」
「お支払いや契約書の内容はあたしで責任持てませんから職制でご判断下さいと先週お願いしたかと思いますが。メールにも残ってますし、先週の課内議事録にも書かれてますけど」
「いや、それならそれでフォローしてくれないと困るよ。進捗管理は嬉野さんの仕事なんだから」
「先方には連日のように催促しましたし、お支払いの件は課長自ら調整しているの問題ないの一点張りでしたよね? それに、弊社が提示した一括後払いの条件で調整できつつあると仰ってましたから、てっきり握れたものだと思ってましたよ? 5億円を一括後払いする稟議書もすでに作ってありますし、ほら」
言って嬉野はノートパソコンに閉じこんであった稟議書をさっと取り出し、前園に突きつける。そこに踊る『5億円、一括後払い』の文字列。
「作り直すならすぐに取りかかりますけれど、どうされるんです? 三億円をどうこうする権利は生憎あたしにはありませんから、職制でご判断を」
「あ、えっ、いや……そうは言っても、普通に考えたらもう先方と交渉する時間なんてほとんどないでしょ……」
「なら分割支払いで進めるってことで我妻さんに承認をいただかないとですね。ちなみにこの件、すでに話は通してあるんですよね?」
「あっ、と、いや……その可能性はある、くらいの話はしてるけど……」
「なら先方と交渉されます? 彼方も今日になって契約書をこんなふうに突き返してくるくらいですからテーブルにつく気概くらいはあるのではないでしょうか? まぁ、あちらにとって利のある提案ができなければ決裂するかもしれませんけど」
「む、むぅ……………」
「そもそもここまでお付き合いしてきたなかで彼方の交渉スタイルなんてとうに分かっていたことでしょう? システム開発の大手なんですから、契約書にあれこれ書いたところで意味なんてありませんよ。結局は顔付き合わせて義理と人情とビジネスライクな交渉で折るか折られるかしかないんです。品質保証だの支払条件だの、こんなものはもっと前に折り合いをつけておかないといけなかったんですよ」
「…………」
「だから、ほら……課長、あとはあたしが準備する修正稟議書の右上に印鑑を押すだけです。前払いについてはあとでこってり搾られるかもしれませんけど、洗いざらい吐き出してすっきりした新年を迎えたいでしょう? 溜め込まずに楽になっちゃいましょうよ」
青ざめた顔をした前園が、まるで生前最後の言葉のようにか細く呟く。
「……ちなみに、これ、返金条項は――」
「さきほどご説明したとおり、そちらは残ってます」
「……なら、なんとかこっぴどく叱られずには済むかな……」
「では、私はぱぱっと稟議書を直してしまいますねー」
前園は自席に戻り、嬉野が修正した稟議書へ震える手で印鑑を押す。
同時、その双眸は覚悟と諦念の混ざった色を宿していた。
「それじゃあ課長、あとはよろしくお願いしますね」
「いやいやちょっと、さすがに嬉野さんは来てよ。詳細を話す必要もあるし」
「プロジェクトの詳細なら課長もご存じですよね? 契約条件は久留さんが説明してくれた通りですし。月末ですから18時までに発注書を発行するのと先方からの請求書を処理して経理に連絡しないと支払計上が間に合わなくなっちゃいます」
「あー……、そうか、それやってもらわないと、かぁ……。じゃあ、嬉野さんはそっち進めて。で、申し訳ないけど久留さんは残ってくれるかな? いまから本部長に諸々説明を――」
「法務の方は同席してもらわず結構だ」
地の底から響くような声音に、前園が固まった。
「前園くん。話は聞かせてもらった」
どさりと、久留の隣の椅子に腰掛けたのは、熊のような体軀をした大男――我妻だ。
「5分だけ時間をやるから、その間に資料をまとめて現状を報告しなさい」
「ハ、ハイィィイッ!!」
「法務の方は席を外してくれ。居室に戻って、今日中に署名できるように法務としてできるだけのサポートをしてほしい。この状況だ、ある程度は不利な条件でもそれを受け入れて進める他ない。稟議ではリスクを可視化してくれ。それらを丸呑みする腹決めは営業と折半するさ」
詰まる話がチェックメイト、交渉を持たずして前払いと無保証を飲むという決断だった。
そうとなれば、もはや法務の出番はほとんどない。あとは粛々と社内決裁に向けて粛々と動くのみ。
「……承知しました」
久留は持参した書類をまとめ、すっと席を立った。
「それでは失礼します」
流れるようにその場を立ち去ろうとして、背中に野太い声が掛かる。
「待ちなさい。契約の稟議は何時にくる?」
「……恐らく、16時までには」
「それでは遅いな。30分前倒しにしてくれないか。堂田には俺から話を通しておく」
「そうですか……。では、契約稟議のほうは時間までに準備をします。……ここでざっと契約条件をインプットもできますが」
「いや、いい。まずは現時点の開発状況や先方との調整内容を含めた一切合切を前園からしっかり報告してもらう。それと……担当だった法務の子にも言っておいてくれ。今回はこちらの不手際で交渉の余地もない。申し訳なかっった、と」
「……分かりました。では」
軽く会釈して、今度こそ久留は我妻の統べるIT統括本部を後にし。
「部長と同年代は出世してる人も多いし……大変だな」
法務の居室へと戻る途中で、久留は家族サービス中の堂田を哀れむのだった。
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