2020/12/24 - 13:03

 総合電機工業株式会社は新宿JRから徒歩数分の立地にある。


 一等地に屹立する商業ビルの高層階、その一室は息の詰まるような重々しい空気に満ち溢れていた。


「…………で、どういう状況? これ」

「ええっと、その…………」


 辻村はぎゅっと胃が縮こまるのを感じながらばつの悪い顔を浮かべてしょげていた。


 会議室に招集した辻村の上司――チームリーダーの久留くる正義まさよしと課長の法秤ほうじょう掟吏ていりが、無糖のコーヒーを啜りながら揃って眉間に皺を寄せている。


 久留はこの冬だというのに長袖のシャツを腕まくりして、すでに臨戦態勢。


 一方の法秤も、銀縁眼鏡の奥に覗く鋭い漆黒の双眸を光らせている。


 机に並べられたのは印刷された契約書の束。26ページが三人分。加えて20ページにも及ぶ企画書や開発要項の書かれた契約書の別紙。なかなかの物量だ。法務部に配属されて三回目のクリスマスイヴを迎えた辻村には少々荷が重いことは承知の上で久留から任された案件だったのだが、案の定。


「システム統括部の嬉野さんが、この契約書を今日中に署名まで持っていかないと年内発注に間に合わなくなるので、大急ぎでお願いね、って……」

「ふぅん……、で、間に合わないとどうなるの?」


 辻村に目もくれず、印刷された契約書の束にざっと目を通した久留が口にした。


「年度内にシステム開発の要件定義がが終わらないのだとか」

「それがどう影響するわけ?」

「…………センパイ、もしかして怒ってます?」

「怒ったところでどうにかなるもんでもないだろ。感情のリソースの無駄だ」

「あっ、はい」

「ただまぁ、こんな年末にまーたあいつか、ってな……」

「嬉野さんって、センパイの同期なんでしたっけ」

「……まぁ、そうだな。あっちは短大卒だけど」


 久留は小難しい顔をしてぼりぼりと頭を掻く。差し迫った状況に直面したときに見せる仕草。それを目の当たりにして辻村は思わず頭を下げた。


「すいません……、去年の反省を胸に、できることは可能な限りやったつもりだったんですけど……、先方がずっとボールをもったままだったんです……」

「それで戻ってきたのが今日ってわけか……。まぁ、よくある話だわな。で、発注できないとシステム開発が遅延になるって話だけど、そのシステムってなんだったんだっけ?」

「ええっと…………、その……っ」

「Cloud Familiaね」


 辻村が返答に困っていると、流麗な発音で法秤が呟いた。


「弊社製品の品番情報、世界中の販売情報、それから在庫状況の管理を統合した販売管理系情報基盤システム……だったかしら」

「っ!! そう、それです!!」

「それです、じゃねぇ。なんの案件やってるか把握しておけって普段からあれだけ言ってるだろうが」

「うっ……、だ、だって忙しくて、システムの概要なんて把握する時間なかったんですもん。それに、嬉野さんの案件だから、たいしたことないかと思って……」

「言い訳しない。把握してなきゃならんことが頭に入ってなきゃ契約条件も揉みようがねぇだろうが」


 ったく……、とがりがり頭を掻く久留の横で、法秤が別紙の束を流し読む。そこに書かれているのは総合電機工業とクラウドファミリアがそれぞれ、あるいは共同して進めるシステム開発業務の役割とその内容だ。


「営業本部が本腰を入れてシステム統括部――もといIT統括本部になんとしても導入してくれと直談判したらしいわ。システムの開発費やら業務委託費やらは総額で80億円あまり。ベンダー選定では帝国電気も候補にあったみたいだけど、そちらはさらに2倍近い開発費用を見積もられたために断念したらしいわ……」

「あ……私、そういえばNDAを担当しました」


 担当を受け持ったとき、辻村は少しだけ心を躍らせた。何十億という案件に繋がるNDAだからと気合いを入れてレビューをした記憶が蘇る。結局、帝国電気のフォーマットからびた一文、契約条件は変えられなかったというほろ苦い思い出とともに。


「兎にも角にもこれで我が総合電機工業の販売機能はワールドワイド全域を網羅し、販売促進力は抜群に向上する……らしいけど、どうなのかしらね?」


 珈琲を片手に契約条件に目を通す法秤が小首を傾げた。

 ふむ、とうなずいて久留が渋面を浮かべる。


「……なるほど。俺たちがここで下手に反旗を翻すと営業本部が黙っちゃいないと」

「ITシステムのやつらは正直こっちに契約納期の関係で迷惑掛けまくりだからお互い様なところあるけど、営業は敵に回したくないわね。なんだかんだで仕事は間に合わせるし。マンパワーが羨ましい限りだわ」

「関係ないんでいまウチらの人材枯渇に対する愚痴を差し込むのやめてください。それはそうと……、なるほど。要件定義は年始からの三ヶ月できっちり仕上げて次年度以降に開発着手ってわけか。嬉野のやつ、こんな時期にやってくれやがったな……」


 ぶつくさと愚痴を溢しながら、久留はさっそく契約書のあちこちに赤くペンを入れていく。


「相手も調子乗ってやがるな。こっちに切れる手札がないのを良いことに提案した条件はどれもつっぱねてきやがって。平行線だなぁ、このままじゃ」

「……あ、あの」

「ん、なんだ、辻村」

「いや……その……、まだなにもお願いしてないんですが……」

「お願いもなにも、今日は大事な予定があるんだろ?」

「そ、それは……そう、ですけど」


 そう。待ちに待ったクリスマスイヴ。


 辻村にはこの数ヶ月、ずっと待ち焦がれていたイベントが控えている。今後の人生を決めるであろう大一番の舞台が。


 そんなタイミングで降りかかってきた緊急事態。


 ここで久留や法秤に仕事を巻き取ってもらうということは、任された仕事を放り出して自分を優先することだ。


 仕事とプライベート。両立させなければならないそれらを、あろうことかこんなタイミングで天秤に載せざるを得ない状況に陥っている。そうならないよう、嬉野に何度も牽制を掛けてきたというのに。


「でもっ、そんなことを言ったらセンパイも課長も、大事なプライベートがあるじゃないですかっ」

「……あるけど、この状況で仕事を放りだせるわけもねぇ。それに、仮に辻村がプライベートを放り出したとして、この案件は誰かがやらなきゃいけない。まして辻村がプライベートを捨てたところで一人でできると思ってるか? そうじゃないから泣きついてきたんだろ?」

「っ……、そ、そんな言い方しなくなって……っ!!」

「……できるのか? それともできないのか? できるんだったら俺は今すぐにでもレビューの手を止めるけど」

「…………っ」


 真冬の真水のように冷ややかな久留の声。

 突きつけられる現実解に、辻村は言葉にならない声をかみ殺して、強く拳を握りしめる。


「……13時20分だ。定時まであと4時間ちょい。契約条件については致命的な事項がなけりゃ覆せない前提だとしても、やらないとならんことは多い。幸いにして本プロジェクト予算については副社長の稟議が取れてるから、執行稟議か……。加えて知的財産本部と経理部に契約条件を説明しねぇとな。それと平行してIT統括本部の人らに最終決裁をもらわないといけない。稟議書の準備をして、関係各位に合議と決裁をもらう必要もある。つまる話、これから契約条件のリスク評価シートを作って堂田さんとIT統括本部長の我妻さんの決裁を取らないといけない。まぁ、契約書の電子署名はどうにでもなるとして、その全部をあと半日でこなせるか? 一人でできないから俺と課長を呼んだんじゃないのか?」


「…………っ、その通り、です」


 嘘偽りようのない事実だった。一人ではもう捌ききれないからこそ、二人に報告をして、相談をするつもりだった。


 今日中に署名まで進めるためにはどうするべきか、その算段さえつけてもらえば、なんとかできると思っていた。


 認識が甘かった。

 甘すぎた。


 段取りのことがなんとなく頭に入っていただけだ。


 契約書をレビューするので手一杯なのに、社内関係各所のお偉いさんに契約条件を説明して、稟議書まで作ってなんて――そんな数多の工程を、たった一人で、それも半日でできるわけがない。ちょっと考えれば分かることを、他の案件で忙しいからという理由で見てみなかったフリをしていただけ……。


 ――あと二日、早く戻ってくればどうにかできたかもしれない。

 ――最終局面まで交渉が詰まっていれば、自分一人でも対応しきれたかもしれない。


 そんなifが、切羽詰まった状況だからこそ言い訳のように脳内から溢れ出てきて、喉元まで迫り上がってくる。そんなもの、なんの弁解にもなりはしない。吐き出しても、誰も受け止めてくれやしないというのに。


 俯いたまま、視線の先にある契約書の束をじっと見つめる。よれて、歪んで、滲んでくる視界のなか、無機質で忌々しい存在を睨み付けることしかできない。


「なら、頼れ。別に恥じるようなことでもなければ負い目を感じることじゃないし、巻き取られたからって評価が下がるようなもんでもなし。外的要因でこうなっちまった以上、こっからは担当任せで進めるべき案件じゃなくなったってだけのことだ」

「そ、れは……」

「……当然ながら辻村にも尽力してもらう」

「えっ……」

「おい、なに勝手に全部任せた気になってんだ。担当任せの案件じゃなくなったって言っただろ? やることなすこと全部俺に押しつけて罪悪感に浸ってる暇なんかねぇぞ」


 久留が契約書の束を整え、すっと立ち上がる。

 その眼差しはどこまでも冷ややかで。


「契約書は読み終わった。案件の概要もおおよそ理解した」


 けれど、その声は、


「えっ、もう読み込んだんですか……」

「肝になる条件だけな。あとはお前のレビューを信用する」

「っ……」

「悪いが契約のレビューとIT部門との調整は巻き取らせてもらう。その代わり、辻村は稟議書を準備しろ。あとは関係部門への連絡と合議の推進だ。稟議書はこれから一時間以内で作れ」


 窮地に立たされた辻村にとっては、どこまでも頼もしく思えた。


「課長、申し訳ないですけど堂田さんへの説明は任せましたよ」

「はいはい、よろしくって伝えておくよ~。どうせいま家族サービスで忙しいだろうけど、辻村さんのために問答無用で働けって言っておくわ」

「……本当に、すみません。ありがとうございます」

「いいのいいの。こういうときに課長を使わないでどうするって話よ」


 わずかに震える声で謝辞を告げる辻村に、久留はどこまでも感情を殺した声で答えて。


「ぐずぐずしてる暇はないぞ。気を取り直してすぐに取りかかれよ」

「…………っ、はいっ!!」

「それじゃあ俺は今から嬉野と連絡を取って打ち合わせをしてくる。14時半までには戻ってくるから」

「よろしくお願いしますっ!!」

「……任せておきな」


 ぶっきらぼうにそう言って、久留は会議室から出て行く。

 その背中を見送ってから、法秤が辻村に優しく声を掛けた。


「居室に戻ってくるのは、少し落ち着いたらでいいからね。その顔はさすがに誰にも見せられないだろうし」

「…………は、い」

「さぁて、それじゃあ私もやることやりますかぁ」

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