とある聖夜の契約交渉 - クラウドファミリアの奇跡

辻野深由

2020/12/24 - 12:38

 クリスマスイヴの昼だった。


 雪の降るホワイトクリスマス。無数の電飾で彩られ明るい曲調の音楽が鳴り響く、誰もが笑い合って日頃の幸せに感謝し、あるいは――それなりに年頃の男女であれば――一年でもっとも幸せな瞬間を享受できる一日のはずだった。


 そういう意味では、この晴天の霹靂にも近い出来事もまた、聖なる一大宗派が奉る神の子の聖誕祭が醸し出すきらめいた雑踏景色の中に埋もれてしまうのかもしれない。日本においては古く海外で生まれた文化の輸入の産物――すなわち恋人達のイベント、あるいは家族団欒のイベントという色の方が強いのだし、気張って仕事をする人間など恋人やパートナーや家族よりも仕事の優先順位が高い悲しい人間か、そうでなければ年末までに抱えている案件の目途を付けなければクビになるような哀れな人間だけである。それだって70億人に迫る人類を母数にすればほんの一握り。宇宙規模で観測すれば太陽系並。地球規模にスケールダウンをすれば分子レベルの粒度というか塵芥。そんな極小の数値で示される可能性であって、よもや我が身に降りかかってくるなど思いもしないのが人間の常だろう。


 だけど。


 スマホ越しに響いてくる軽い感じの声に何の衝撃も抱かなかったと言われれば、そうとも言い切れない。


 少なくとも、だ。


「ごめんなさいねぇ、急に。この案件、今日中にどうにかしないといけなくなっちゃったのよねぇ」

「…………」


 辻村叶絵はこの耳で聞いた。しかと聞き届けてしまっていた。


 スマホ越しに響いてくる嬉野は相も変わらず危機感のない声音で平然と依頼を投げつけてきている。


「お昼休み中に電話しちゃって申し訳ないけど、ほら、あなただって今日くらいはプライベートで大事な予定が一つくらいはあるでしょう? だからこそこういうお願いをするのは心苦しいのだけど、これも会社のためだし、なるべく早く動いてくれると助かるわぁ。それに……、あたしも大事なプライベートがあるしねぇ」


「……………………」


「こっちはできるところまであたしで進めるから、なんとか夕方までにはうちのトップの署名までこぎ着けられるように全力でお願いねぇ」


 ――なにを言っているんだお前は。そうならないように、ずっと、これまで、何度も、そういう事態にはならないようにと釘を刺し続けてきただろうがっ!!


 なんて、喉元まで込み上げてきたどす黒い感情の塊をどうにかしてストレートティーで流し込んだ。


「本当に毎度毎度、ごめんなさいねぇ」


 唐突に思い出す。そういえば去年も――確か年末最終日だったけれど――嬉野は甘ったるい声を響かせながら悪びれもせずに億単位の案件を持ってきては、いまこの瞬間と同じように辻村の昼休みを奪っていったことを。


 またか。またなのか、こいつは。


 悪魔か? そうでなければ災厄か? どちらにしたってNot for Meだ。


 だがしかし、悲しいかな辻村叶絵に拒否権はない。新卒で入社し第一志望の法務に配属され、契約審査という仕事でITやシステム領域の案件を担当するようになってそろそろ三年。電話越しに甘ったるい声を転がす女狐が担当する案件を嫌々ながら捌いてきたし、なんなら去年の反省を踏まえて今年は一ヶ月も前から念入りな予防線を張っていた。


 それもこれもすべては雪降る聖夜のため。ありふれた雑踏景色に混じって人並みに幸せな瞬間を迎えるため。


 だというのに、なんだこれは。この一週間、まるで音沙汰がなかったのは季節外れの台風が迫り来る予兆だったとでも言うのか。


「それじゃあ、期待してるわぁ、辻村さぁん」


 幸せを踏みにじって、あとには欠片の慈悲も残さないような災厄の悪魔の声が最後の最後、微かに漏れ聞こえるような笑みを零した。


「…………」


 通話終了を告げる無機質な音色が辻村の鼓膜をがんがん揺する。なんだか急に頭痛もしてきた。額に脂汗が浮かんできているような気がする。状況がいまいち呑み込めない。脳が把握することを拒絶していた。落ち着いていられず、席を立つ。このご時世、仕事場である居室から化粧室へと続く廊下にほとんど人はいない。ふと見やった高層ビルの窓越しには鈍銀の世界が広がっている。新宿駅前を歩く人間が蟻のようだ。曇天から舞い降りてくる白雪がくすんで見える。つい数分前まで鮮やかな色彩をきらめかせていたのに、嘘のように色を失ってしまっていた。


 化粧室で軽く化粧直しをしてoutlookを見る。


 見たくない。

 けれど、見なければならない。


 さきほどの電話は嘘であってほしいと、その確証を得たい。


「…………っ」


 化粧室に篭もっている間に一件の新着メールが届いていた。見たくもない女狐の名前があった。開きたくないファイルが添付されている。認識したくない文字列があった。


『この契約書、今日中に社内決裁を取って、署名して、クラウドソリューションズ社に出さないと年末までに発注が間に合わないので、よろしくお願いしますね』


 By 嬉野。


「あ、ああ……」


 辻村は一人、消灯されているランチタイムの居室で呻く。頭を抱え、現実逃避を試みる。


 だが、何度見ても目の前に広がるのは現実だ。もうあと十分もすれば午後の業務開始時間。逃げ場はない。覚悟を決めなければならない。


「ああ、ああああああ――――」


 けれど、その前に。


 いまくらいは、胸に込み上げる感情を爆発させたって世界は許してくれるだろう。


 メールの送付先を間違えたであろう悪辣非道で悪意のあるサンタクロースに唾をかける非行の一つくらい見逃してくれるだろう。


 だって。


 彼女に降りかかった不幸を、本気で嘆き悲しむことができるのは、彼女自身だけなのだから。


「不幸だ―――――――――――――――――――――――――――――!!」

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