もっと上手に

古池ねじ

第1話

 篠田星は、菓子を食べない。子供の頃からそうだった。

 禁止されていたわけではない。ただ好きではなかったのだ。毎食しっかりと白米を食べ、空腹を覚えれば牛乳を大きなグラスでたっぷりと飲み、常に二房買い置きしてあるバナナを食べる。そうやってすくすくと育った。幼稚園から高校までずっとクラスでは一番後ろ、大学を出て二十三歳の今は百七十三センチ。長い直線的な手足に凹凸の少ない胴体。長い首の上の小さな頭。無造作なショートカットは少年じみているけれど、少年にはない柔らかく滑らかな白い肌が彼女に繊細な印象を与えている。

 平日昼間の電車は空いている。星は黒いスキニージーンズに包まれた脚を組んだ。離れた席に子供がいる。母親らしき女性の隣に座った五歳ぐらいの男児が、黙って駄菓子を食べている。棒状の、十円で買える駄菓子。有名でどこのコンビニでもスーパーでも見かけるものだ。星はその菓子にはなんの思い出もなかった。食べたことはあると思うのだが、味さえよく思い出せない。何かのおまけでもらっても、たいがい誰かにあげてしまっていた。

 星自身は公共の場で飲食などしないが、子供が空いている電車で駄菓子を食べることに目くじらを立てる趣味はない。だが母親は星の視線に気づき、申し訳なさそうに頭を下げた。そこで初めて、星は自分がその子供に注視していたことを知った。背筋を伸ばして、気にしていないことを示すために手を軽く上げた。もう一度頭を下げる母親の様子に子供も気が付いた。たいていの子供がそうするように、その男児も無表情にじっと星を眺めていた。黒づくめで表情が少なく、ひょろひょろと背が高い星は、自身が子供に関心が薄いこともあって、子供からは不審にみられることが多い。ほんの半年ほど前なら、肩でも竦めて目を逸らして、それ以後は端末でも眺めていたことだろう。

 一瞬習慣からそうしようとして、でも何かが星を引き留めて、彼女を微笑ませた。それは彼女の風貌からすれば、アンバランスなほど優しい微笑みだったので、子供は恥ずかしがって目を逸らした。小さな手に弄ばれてくしゃくしゃになった駄菓子の袋。ふっくらとした頬を汚す黄色い食べかす。

 こういうのは自分らしくない、と、メッセージアプリを開きながら星は感じる。赤の他人を見つめてしまうのも、子供に微笑みかけるのも。二十三年間、星はいつでもしっかりとした自分自身というものを手にしていると感じて生きてきた。体格も外見も趣味も性質も、何もかもが常に周りから浮き上がっていた。当然のように異質で、それを恥じたこともない。他人の悪意に傷ついたこともなければ、他人の意見で決めたことを変えたこともない。それなのに。剥き出しのうなじに手を当てる。

 星は一週間前に届いたメッセージを見返している。安藤留津からのメッセージだ。本人に言ったことはないが、星は留津のアイコンが好きだった。モノクロの花のイラスト。留津自身の作品だ。文芸誌に掲載された小説の挿絵の一部らしい。色もなく、簡素で素朴な線で描かれているのに、花弁のひんやりとしたみずみずしさまで伝わってくる。

「来週のどこかで秋っぽい料理を作ってください。品数は多め。洋風でおしゃれな感じ。食器も足りなかったら買ってきてください。」

 このメッセージを受け取った五分後に星は返信している。

「火曜の昼でいいですか」

 留津の返信は二時間後だ。

「わかりました。十二時にお願いします。」

 やり取りはこれで終わり。予定自体はカレンダーアプリに入れてあるからもう見返す必要などない。それでも何度も見てしまう。彼女の家に向かっている今も。もう文面もすっかり覚えてしまっていても、その画面を見てしまう。見るたびに、メッセージを受け取ったときの感情の欠片が手に入るような気がして。

 ほかの誰に対しても、そんなことはしたことがない。留津にだけだ。安藤留津に関わることにだけ、篠田星は篠田星らしくなくなってしまう。

 これから彼女に会うのだ、と思うとなんだか指先がそわそわとして、アプリを閉じた。電車が止まる、さっきの親子が下りるところだった。母親と手を繋いだ男児が、星に手を振った。星は笑って、手を振り返した。


 十一時五十五分に部屋に行くと、留津は寝間着だった。毛玉のついたグレーのスウェットの上下。着替えてないどころではなく、起きたばかりなのだろう。茶色の細い髪はぐちゃぐちゃに寝癖がついている。

「おはようございます」

 星は驚きを飲み込んで挨拶する。留津は俯いたままかすれた声で、おはよう、と言った。顔をあげてもらえないと、二十五センチの身長差のせいで留津の顔は星からは見えない。

「……もうちょっと寝てていい? 悪いけど……」

「体調悪いんですか? 出直しましょうか?」

 ぐちゃぐちゃの頭が左右に振られる。

「寝てないだけ……よろしくね……」

 そう言うと、寝室に引き上げていく。その裸足の踵ががさがさにひび割れているのを見ながら、星はスニーカーを脱いだ。バックパックから持参したルームシューズを出して履く。三和土にも廊下の隅にも埃が溜まっているのを確認して、ぱんぱんに中身の詰まったエコバッグを持ち上げる。

 安藤留津の家は広い。家電もいいものが揃っている。冷蔵庫も大きい。そこに買ってきたものをしまっていく。途中で二か月前に自分が買ってきたにんにくとじゃがいもを野菜室の隅に見つけて捨てる。冷蔵庫の隅から隅まで見ても、冷凍食品とクラフトビールと輸入菓子、それから麦茶と水のペットボトル以外に入っていたのはそれだけだった。二か月前から一度も生鮮食品が入っていない可能性を考えて、今日は何の食材も残さずに帰ろうと決める。食材が余ったら何か作ってガラス容器に入れて置こう。この家には琺瑯容器もガラス容器も豊富にある。留津も野菜をだめにはしても、流石に料理を捨てたりはしない、と思いたい。

「さて」

 と星は呟くと、部屋を見回した。広々としたリビングダイニング。置いてある家具は質のいい木材を使ったシンプルなもの。白い壁には大きな絵が飾ってある。それは何年か前の商業施設のオープンのために留津が描いた、架空の街のイラストだった。色とりどりの小さな家がよく見ると不思議な規則性で並んでいる。家のフォルムなどは素朴だが、空間の使い方や色の組み合わせがよく考えられていて、親しみやすいのに野暮ったくはない。遠くからは全体の構図や色合いが目を引き、近くで見るとそれぞれの家の屋根の素材の違いや窓やドアのデザインが楽しめる。いかにも安藤留津らしいイラストだ。凝っているようには見えないのに、緻密。もう何度もじっくりと眺めているというのに、また細部まで確認しようとしてしまい、星は絵から意識をはがした。うなじに手を当てる。ため息をつく。

「さて」

 もう一度呟く。飾ってある絵といい、家具といい、そのまま雑誌の記事でも飾れそうな部屋だ。有名イラストレーター安藤留津が自らコーディネートしたのだから当たり前だ。実際何度か留津はこのリビングでインタビューを受けている。長い波打った髪をゆるく結び、リバティの花柄のワンピースを着た留津が壁の絵の前で微笑んでいる写真を、星も見たことがある。上品で、優し気な顔に浮かべた笑みは自信に満ちていて。そうしていると、ひどく遠い人に見えた。遠いというか、人にさえ見えない。画面の中にいる有名イラストレーター安藤留津というキャラクター。

 だが、現実はこれだ。

 そこらじゅうに散らばった郵便物や書類や書籍。ソファに山になっている服。テーブルにはコップの跡やスナック菓子の食べこぼし。床には溜まった埃。キッチンには空の酒の壜とビールの缶、ペットボトルが大量だ。

 もの自体が少ないので、いわゆるゴミ屋敷ではない。だがしばらくまともに掃除していないのは明白だ。なぜここまで十分な広さと設備が揃っている部屋で簡単な掃除もできないのか、星には理解できない。窓を開ける。初夏の風がふわりと紺のカーテンを持ち上げて、どことなく酒くさい部屋の空気を洗っていく。星は深く息を吸い込んだ。

 とりあえずキッチンを片付けないことには料理もできない。ごちゃまぜの壜、缶、ペットボトルを分別して袋に入れて玄関近くに置いておく。帰りに近くのスーパーの回収ボックスに出そう。

 埃が溜まってはいるが、キッチン自体はそこまで汚れていない。留津は料理が苦手、というわけではない、というかそれなりに凝った料理を作ることもできるらしいが、自炊は苦手だ。しなくて済むような収入と環境を手に入れてからは、まったくしていないらしい。留津に会うまでその二つに違いがあるとは星は思ってもみなかったが、今はしみじみと理解できる。料理そのものと、生活の運営の一部として料理を行うのは、ある種の人々にはまったく違うことなのだ。

 清潔になったシンクで、前に買ってきたスポンジと洗剤でこれから使う調理器具や食器を洗う。何しろ住人が自炊をしないので、それなりに立派なキッチンだが食器洗い機はない。洗い物は結構な量だ。使った後も同じだけ洗うことになる。買ってくれと言えば買ってくれるかもしれないな、と考えて、馬鹿げたことを、と思う。星がこの部屋に来るのは、仕事のためだった。留津のイラストの資料として料理を作るため。材料は経費で、バイト代も出る。星の感覚からすれば多すぎると感じる額だ。自分が作った料理が安藤留津に描いてもらえるというだけでも十分な報酬のようにも感じているが、実際問題ほとんどカフェでのアルバイトで生計を立てている駆け出しの星にはありがたい臨時収入ではあった。その金で、星は画材や資料を買うことにしている。興味はあるけれどちょっと高い紙や絵具。このあいだは解剖学の教科書も買った。

 社会貢献のつもり。

 このバイトを提案したときに、留津はそう言っていた。彼女の行きつけだという静かで、コーヒーとケーキのセットが千五百円ほどのカフェ。皿を拭きながら星は思い出す。

 留津とは三年前にイラストコンテストの入賞者と審査員として知り合った。星はもともと安藤留津のファンで、彼女が審査員だと知ってそのコンテストに応募した。留津の名前を冠した特別賞がもらえたときはとても現実とは思えなかった。応募はしてみたものの、当時の星は自分の実力が素人の趣味にしてはうまい以上のものではないと自覚していた。実際、鮮やかな他の受賞者のものに比べ、星の水彩で描かれたイラストは薄汚れているようにさえ見えた。星はほとんどアナログでしか絵を描かない。アナログに自信があるわけではなく、単に紙に描くのが好きなのだった。水彩は描くたびに思いがけないことが起こり、頻発するトラブル自体が星には楽しい。そういうクオリティに関係しない好みを優先してしまうのも、自分の絵が単なる趣味に過ぎないように感じる原因だった。

 でも絶対にあなたがいいと思ったの。

 授賞式で、疑問をそのままぶつけた星に、留津はそう言って微笑んだ。美しく整えられた明るい色の髪。小柄で、華奢だけれど柔らかそうな体型に似合ったサーモンピンクのワンピース。短い爪はワンピースと同色で、爪の先だけパールの入った白。頬の丸い顔はほんのりと光っているような化粧で、リップの濃いピンクだけが少し浮いていた。その唇から、少し掠れたようなちいさな、でもどこかなだめるような、甘えるような声で、留津は話した。小さな耳と、その割には大きな耳たぶから、細いチェーンのピアスが垂れていて、話すたびにちいさく揺れてきらきら光った。

 なんて、なんて可愛い人だろう。

 星は留津の言葉に感動するよりも先に、そう思った。もともと雑誌や、ごくまれに出るテレビなどで顔は知っていて、可愛らしい人だと思っていた。でも実物の留津、自分を少し色の薄い瞳で見つめ、微笑み、話しかけてくれる留津は、星の想像を超えていた。星よりも十三歳年上の留津は、どちらかと言えば童顔ではあるものの、年齢相応の外見だ。それでも、というよりも、その年齢による目尻の皺や少し下がった唇の端が、たまらなく可愛く、特別なものに見えた。安藤留津が、自分の持ち物に三十三年かけて記したサインのよう。

 篠田さんの絵、正直技術的にはまだ全然甘い。それは自分でもわかってるでしょう? それはこれから身に着ければいいと思う。頑張らなくちゃいけないけど、頑張ればなんとかなることだから。でも題材の選び方とか、描き方とか、私が意外だな、面白いなって思ったのは篠田さんのだけだった。色んなものを見てきている人の絵だと思ったの。そういう人は若い人には案外少なくて……。

 留津の言葉を聞かなくては、と思うのに、星の耳は彼女の声を魅力的な抑揚の音として捕らえて、うっとりとしてしまう。香水なのか、さくらんぼのような甘い匂いがした。ごく薄くつけているのか、動くたびに香ったり、香らなかったりして、留津から漂う匂いなのかさえなかなかはっきりとしなかった。鼻を近づけたくなる衝動に駆られ、どうにかそれを抑えた。そんなことは初めてだった。留津に関することは、何もかもが初めてだった。何度繰り返したことでも、たとえば呼吸でさえも、留津を前にすると初めてすることのようだった。

 いつもと同じような黒づくめの服装や、化粧もしていない顔、伸ばしっぱなしの黒髪が、急に恥ずかしくなった。会場は暑く、汗の匂いも気になった。全部これまで気にしたこともないことだった。星はいつでも自分自身のままでいた。あるがままで、誰に何を思われてもただそういうものだと受け止めていた。でも留津がその小さな鼻を動かして顔を顰めるところを思っただけで、泣きたい気持ちになった。自分が泣きたくなることがあるのだということも、星はずっとずっと忘れていた。あくび以外で涙など流さない人間のつもりで生きてきたのだ。

 あのときの先生は綺麗だったな。星は思い出す。安藤留津は美人だった。いつも綺麗に手入れされた髪で、丁寧な化粧をして、よく似合う服を着て自信に満ちた表情をしている。そういうことが、彼女は得意なのだった。他人への自分の印象をコントロールすることが。

 その緻密に作り上げた留津の姿に、星は完全に心を奪われたのだった。中学生の時に本屋で見かけた本の表紙に心を奪われたように。星は買うつもりだった推理小説をやめてタイトルも作者の名前も初めて見る本を買い、その日のうちに読んだ。SF要素のある恋愛小説で、文章はすかすか。くだらないと思ったが、表紙は好きなままだった。濃い藍色の夜空を背景に、今にもふれあいそうな男女の手と、さまざまな小道具が描かれている。どこをどう見ても好きだった。ずっと棚に見えるように飾っていた。ノートにその絵を写したりした。安藤留津。それがその絵を描いたイラストレーターだった。そのときはまだ新人だったけれど、その次の年に表紙を描いた小説が想定外の大ベストセラーになり、彼女の装丁は必ず売れると話題になった。それからずっと大人気のイラストレーターのままで、星もずっと飽きることなく彼女を追い続け、ついには自分もイラストレーターになってしまった。そんなつもりは、なかったのに。

 これはなんなのだろう。星は考える。考えるということ自体が、篠田星という人間には似つかわしくないものだった。でも留津と出会ってからは、考えてしまう。考えたところで何にもならないのに。

 留津のイラストを見て、留津と出会って。星はそれまでの自分から変わってしまっていた。しなやかにすくすくと育った社会的かつ自律した動物。それが篠田星という人間で、それを誇らしく感じていたはずなのに。

 家で下味をつけてタッパーで持ってきた豚肉の表面を軽く焼いて煮込む。鮭の切り身に下味をつけ、野菜の皮を剥く。料理をしていると、やるべき作業と、手に触れている食材や刃物、炎で頭がいっぱいになる。まな板を洗い、シンクの中身を片付けて、鍋の火を確認し、手を洗って綺麗に拭く。リビングはいい匂いでいっぱいになる。きちんと生活が送られている匂い。いい気分だ。

「さて」

 星はつぶやき、肩を軽く回した。

 ソファの座面に積み上げてある洗濯物は洗ってから片付けていないもの。背にかけてあるのは洗っていないもの。星は以前留津からどうにか聞き出したことを思い出す。掛けてある衣類を分別して、薄いベージュのスプリングコート以外は持っていく。何枚ものワンピース。ネットに入れて、脱衣所にあるドラム式の洗濯機を回す。洗濯機の呻りを聞きながら、掃除機をかける。この家の掃除機は吸引力が強く、小回りが効いて、びっくりするほど使いやすい。主人はほとんど使っていないようだが。星はほとんど遊びのような気分で隅々まで掃除機をかける。黒いTシャツの下の肩甲骨が薄く汗ばみだす。

 業務用のダスターでテーブルや家具を拭く。風呂とトイレも掃除すると、洗濯が終わった。ベランダに出て洗濯物を干す。この天気ならすぐに乾きそうだ。

 星は家事が好き、というわけではない。やらなくてはいけないから、やるだけだ。部屋が汚れていれば掃除をするし、冷蔵庫に食材が残っていたら料理をする。子供の頃から、自分がやれることは自分でやり、両親が忙しければ自分からやることを増やしていった。家に限らずサークルやバイトでも気が付くと家事やそれに類する細かいことのメンテナンスの担当を周囲から期待されていることもあるが、苦にもならなかった。人に任せるより自分がやるほうが早ければ、やるだけだ。

 ソファの上の洗濯物を畳む。ちいさな山のようになっていた洗濯物も、始めてしまえばたいした時間はかからない。あっという間に畳み終わる。留津は不思議だ。家事のためにきちんと質がよく使いやすい家電や備品を揃えているのに、家事を停滞させてしまう。もちろん留津は常に大きな仕事を抱え、小さな仕事の締め切りもやむことがない売れっ子だ。ごみをそこら中に捨てるとか、洗濯自体しないとかなら、まだ星にも理解ができる。まるで能力がないのなら。でもちょっとやれば終わるようなことを延々残しておくことが、なんとも星には釈然としない。やればいいのに。

 だいたい、最初はこうではなかったのだ。半年前、初めてこの部屋に来た時は、雑誌で見た通り、とまではいかないが、洗濯物も出てはいなかったし、掃除機だってちゃんとかけてあった。留津はゆったりとしたオフホワイトのセーターにデニムという格好で、簡単にだけれど髪を整えてまとめていた。見たことのなかったくつろいだ雰囲気が、またたまらなくかわいい、と思った。化粧をしていないのかそばかすや目の下の隈が見えて、それもまた可愛くて、凝視してしまわないように気を付けなくてはならなかった。

 最初は違ったのだ。

 ソファの上に畳んだ洗濯物を分類して置き、時計を確認すると、一時半だった。留津は夜型なので、昼食は三時ぐらいにとることも多いらしい。星は鍋を覗き、一度火を止めて蓋をする。冷めるときに味がしみるからだ。留津はまだ眠っているのだろうか。さすがに無断で寝室に入ることはできない。

 初めてここに来たときは、キッチンはぴかぴかだった。着いてすぐに長い髪をまとめて、料理をはじめられた。今にして思うと、その前に留津が家中を掃除していたのだろう。そのキッチンで、星は桜海老とキャベツのスープや、苺のクラフティなどを作った。その間、留津はテーブルについてスケッチブックを開いていた。全ての作品をデジタルで制作している留津が、紙に描いているのを見たのは初めてだった。描いているのをずっと見つめていたかったが、嫌がられたらと思うとそちらに顔を向けることさえできなかった。留津の気配を感じながら、不自然なほどそちらを見ずに料理をした。鉛筆が紙を滑る迷いのない音が、動き回る星の立てる音の合間に聞こえた。

 料理ができると二人でテーブルに並べて、留津はピンク色をしたスパークリングワインを開けた。桜の風味のスパークリングワインだ。そしてカメラで何枚も写真を撮り、スケッチブックに簡単にスケッチをした。見ないでとは言われなかったので、星はそれを見ていた。驚くような手際だった。単純なかたち、簡単な線。一つ一つ見れば何の意味もないような断片なのに、全体を見ると食卓の風景にしか見えない。全体を見てから細部を見れば、ちょっとゆがんだ円だったものが、料理にしか見えなくなる。鉛筆の掠れや何気なく引いた線の揺れや強弱までコントロールされて、色合いや湯気や匂いまで感じ取れるような。この人のものの把握の仕方は一体どうなっているのだろう。そこにあるものがどうしてそういうふうに見えるのか、その視覚の魔術を安藤留津はものにしている。ちょっと手を動かせばもう、自由自在だ。紙と鉛筆があれば、なんでも生み出せる。

 なあに?

 留津は少し恥ずかしそうに、でも星の感嘆を理解している様子で尋ねた。彼女にとっては何度となく繰り返されたことなのだろう。その声に自分の好奇心を許されているのを感じて、星はスケッチブックを見せてほしいと言ってみた。留津は快く星にスケッチブックを渡した。

 ちゃんとした絵は全然ないの。

 そういう留津にまともに返事もしないまま、星はページをめくった。それは本当にわくわくする体験だった。知っている大作のアイディアが描かれたページがあれば、ケーキのスケッチとともに「おいしかった! おいしかった!」という文字が添えられたページもある。猫を描きかけて途中でやめたらしいページ。何が出てくるのかわからないけれど、どの絵もそれぞれ面白い。こんなふうに描けたら、いったいどれだけ楽しいだろう。絵を描き始めたころの焦燥感が沸き起こる。自分も鉛筆と、真っ白な紙がほしくなる。自分の描きたい絵を描いてみたい。実際描いてみれば、思うように動かない自分の手に、実際にそこにあって見たものと漠然と勝手に思い描いた印象の区別がつかない自分の脳に裏切られてしまうのだが。絵を描いていくというのは、その失望と折り合いをつけていくということだが、留津のスケッチブックは、星の中に積もった自分への諦めを吹き飛ばした。剥き出しでそこにある、絵を描くことの喜び。自分も絵を描きたい。見ているページに描かれていることのすべてを覚えられるほどじっくりと見たくて、でも次のページが速く見たい。心臓が速く鼓動を打つ。指が汗で湿って、セーターで拭く。ページをめくる。

 あ、と、留津が言う。星の手が止まる。

 そのページには、女が描かれていた。安藤留津が人物を描くのは、珍しい。体の一部とか、風景の中にちいさく配されているだけだ。けれどそのページでは、一面に若い女が描かれていた。背の高い、痩せた、髪の長い女だ。こちらに背を向けて、細い腰に片手を当てて、もう片方の手はこめかみをおさえている。全体に黒く、流れた髪から覗くうなじだけが白い。なんということのない、気の抜けた瞬間の動作が、完璧にとらえられている。顔は見えない。でも誰だかわかる。

 これは星だ。星の絵だった。ついさっき、留津に背を向けて料理をしている星の。

 星は黙って、スケッチブックの自分を見つめていた。留津の目に映った自分。留津の手によって描かれた自分。その線の一つ一つを見つめ、自分の中に取り込もうとしながら、自分の輪郭が手の中の紙に縫い取られているように感じる。これが自分か? 硬い線でできた、でもしなやかなかたちの生き物。無防備ではかなげで、でものびのびとしている。こんなのは知らない。でも、どう見ても自分だ。この仕草。この背中の曲げ方。この角ばった肩。この流れる髪。この、うなじ。それは知っている。自分でしかない。

 星はそっと自分のうなじに触れてみた。手のひらになじんだ、よく知る自分の体の一部。でもこの部分がこんなふうに美しいことは、知らなかった。自分と美しさを結び付けたことなど、星はそれまで一度もなかった。醜くはなく、外見で支障をきたすようなこともなく、だからそれでよくて、それだけだった。

 息が、うまくできない。

 立ち尽くす星の手元で、スケッチブックがのんきな音を立てて閉じる。はっとして目をやると、留津がそばにいて、星の手からスケッチブックを奪っていた。

 もうおしまい。ご飯さめちゃう。

 そして自分の隣の椅子にスケッチブックを置いた。星は黙って自分の席についた。料理はまだ十分に温かく、絵を見ていた時間が本当に短かったことを思い知らされた。頭の中にまだ留津の線が残っていた。それはもうずっと消えないだろうという予感がした。自分の輪郭と留津の線が重なって、居心地が悪かった。このままではいられない、と思う。でもどうすればいいのかはわからない。

 留津も星もよく食べた。留津はそのうえよく飲んだ。ほとんど一人でワインを一本飲んでしまう。顔にはほとんど酔いが出ない。星は一杯だけ飲んだ。もともと酒はあまり飲まない。弱いわけではない。ただ酒を飲むことで自分以外になろうとする友人たちと違って、その必要を感じたことがないだけだ。

 食べて、飲みながら、話もした。主に留津が尋ねて、星が答えるかたちになった。実家は近いが今は一人で暮らしている。歳の離れた兄がいる。中学生のときに陸上の中距離で県大会に出たことがあるけれど、それほど熱意はなくやめてしまった。絵を描きだしてからは熱心にやることはないが、今も運動は嫌いではない。大学生の時は自転車で20キロの道を通学していた。今でも自転車はよく乗る。大学では経済学部だった。でも絵ばかり描いていたのであまり学んだことを覚えてはいない。今はインディーズバンドのCDのジャケットや個人で出版する小説の表紙の仕事を受けている。依頼があればデザインも自分でやっている。デザインは得意ではないが好きだ。デザイン的な視点のあるイラストが好きで、そういうものが描けるようになりたいと思う。

 留津の相槌につられて、いつになく饒舌になった。自分のことを話す、というのは、おかしなことだと星は思った。どれも嘘ではないのに、一つ口にするたびに、本当のこととは離れていく。そして目の前の留津、安藤留津というイラストレーターのことを考えた。彼女のことはよく知っている。インタビューは目についたものはすべて読んでいるし、テレビの特集も見た。地方のサラリーマンの家庭で育ち、小さい頃から絵を描いていて、中学生の時には宮沢賢治の短編に表紙と挿絵をつけて自分で本を作った。有名私立大の法学部を卒業して、飲食チェーンに就職。そこの広報に配属されて広告やデザインについて学んだ。プライベートでもデジタルで絵を描くようになる。その頃からSNSを始める。練習のために、一日一枚絵を発表していた。食べ物や猫やアクセサリーなどの小物のイラストは普遍的なモチーフでも色遣いや構図が新鮮で目を引き、すぐに注目された。一時期はSNSのアイコンに無断で使われるので有名だったし、今はグッズが出て雑貨屋で買うことができる。小説の挿絵などを引き受けるようになって、それからはあっという間に有名なイラストレーターになった。

 一つ一つの情報を、宝物のように集めた。だんだん既知の情報が増えていったが、新しいことが一つでもあればそれだけで嬉しかった。それでもそれはあくまでイラストレーター安藤留津の情報に過ぎない。嘘ではないのだろう。でも目の前で微笑んでいる女の人を理解するためには、ほとんど役に立たない。目の前にいても、遠い。

 紅茶淹れるね。

 テーブルに置いてあったクラフティを持って、留津がキッチンに立つ。酔っていないか心配で見ていたが、留津は案外しっかりとした動作で紅茶を入れていた。上の棚にしまわれたポットを取るために背伸びをして腕を伸ばす。火をつけるためにコンロにかがむ。それを見ていた。見ていると、苦しかった。何故苦しくなるのか、よくわからなかった。あの留津の動作のすべてが、自分のためだった。あのちいさな女の人が、自分のために紅茶を淹れている。

 苦しくて、星は自分のバックパックに手を伸ばした。中にはノートが入っている。ペンも。描きたい、と思った。でも、結局ノートを手に取ることは出来なかった。だって描けない。留津のスケッチブックの自分を思い出す。

 あれが人を描くということなら、自分は描けない。

 どうぞ。

 木のトレイで薄い水色の皿にのったクラフティと、揃いのカップとソーサーが運ばれてくる。留津の淹れた紅茶は美味しかった。おそらくいい茶葉を、丁寧に淹れているのだろう、とそれほど紅茶に詳しくない星も察することができた。

 このケーキすっごく美味しい。

 留津が嬉しそうに笑って言う。星が一口紅茶を飲む間に、留津の前のケーキはもう半分減っている。星は笑って、留津のほうに自分の分の皿を押し出した。

 どうぞ。あんまりケーキ好きじゃないんで。

 いいの?

 尋ねながら、留津はもう皿に手を伸ばしていた。星はそれを見て笑い、留津は恥ずかしそうに目を伏せた。

 もういい年なのにいつも食べ過ぎちゃう。私ぐらいの年になると、みんな食欲って落ち着いてくるものなんだけどね。

 留津が言い訳のように付け加える。

 たくさん食べるの、いいことだと思いますよ。

 考える前に言葉が出ていた。そして、口に出してから失礼かもしれないと思った。どう見たところで自分は留津の自嘲を慰めるような関係ではない。

 ありがとう。

 留津はそう言って笑ったけれど、後悔は消えなかった。そんなことも初めてだった。

 そのあとの会話はなんとなくぎこちなくなった。留津は二切れのケーキを綺麗に平らげて、セーターの上からも膨らんでいるのがわかる腹を自嘲しながら撫でた。星はきっちりと後片付けをして、留津の家を後にした。

 またお願いしてもいい?

 別れ際に留津に言われた言葉に、黙って頷いた。尋ねたとき、留津はなんとなく不安そうに見えた。だがそれが自分の思い違いではないのか、星には判断がつかなかった。留津との会話には、いちいち小さな後悔と疑いが潜んでいて、今まで誰かとの関係に悩んだことのない星を苦しめた。

 家に帰った星は、結局こらえきれずノートを手にした。ペンを手にして、それでも迷って、どうにか描き始めた。記憶に残る留津の姿。でも最初の線から間違って、手が震えた。こんなんじゃない。でも描き始めたら最後までとにかく描くという習慣のために、星はすべて間違った線をなんとかつなぎ合わせて、一人の女を描き出す。こちらを見て微笑んでいる小さな女。

 へたくそ。

 それをじっと見て、星は思う。絵の女は留津に全然似ていない。留津はもっと、もっと、もっと、もっと。急かされるように思って、喉が苦しくなる。もっと。もっと何か。足りない、ということはわかるのに、何が足りないのかがわからない。どんなふうに描けば紙に自分の中の留津が現れるのか、それさえわかりはしない。留津の描いた自分は、あれほど自分だったのに。

 留津と同じ特徴を持った、留津には似ていない女は、紙の中から星を見て微笑んでいる。自分が描いた絵の中で一番へたくそだとさえ星は思った。へたくそで、ぎこちなくて、怯えている。その女の輪郭に指先でそっと触れる。ノートのつるつるとした質感が伝わるだけだ。星は笑った。それは泣くのとほとんど同じことだった。

 へたくそで、ぎこちなくて、怯えている。

 星は不意に理解する。ノートに描かれているのは、安藤留津の似姿ではなかった。留津を描くつもりで星がそこに描いたのは、自分の恋の姿だった。

 自分の思いに、恋という名を与えた瞬間を思い出して、星は笑った。恋をする前はしなかった笑い方だ。うなじに触れる。ずっと伸ばしていた髪も、半年前に切ってしまった。短くすると、頭の重さやケアに違和感を覚えることはあっても、確かにそのほうが似合っていた。この先もあれだけ長く髪を伸ばすことはもうないだろう。この先。安藤留津と、縁が切れてしまっても。

 いつかそういう日が来るだろうというのは、いかにもありえることだ。だが星はそのことを認めながらも、うまく受け止めることができない。留津と関係を維持する未来のほうこそ、なんのイメージももてないのに。

 留津は星をどう思っているのだろう。星には全然わからなかった。嫌われてはいないだろう、とは思っている。でもそれも、恋から来る楽観なのかもしれなかった。星には十三年上の有名イラストレーターの気持ちの手がかりも、恋についての経験や一般論も持ち合わせてはいなかった。

 たとえばだんだんだらしなくなったのは、なぜなのだろう。二回目に来た時、ところどころに埃があって、キッチンには空き壜とペットボトルが溜まっていた。服装もいかにも部屋着らしいくたくたのワンピース、髪はとりあえずくくっただけ、という様子だった。

 短いのすごく似合う。

 でもそう星に言って微笑むと、胸が痛むほど可愛らしかった。星は許可を得てキッチンを片付けて、掃除機をかけた。その間、留津は申し訳なさそうに立っていた。

 このところ忙しくて。

 いいですよ。

 申し訳なさそうにされるのが嫌で、星は最大限に鷹揚に聞こえるように答えた。実際片付けるぐらい、かまわなかった。だが、あのときそう答えたことはよかったのだろうか。わからない。

 料理をしている間、留津は仕事をしに寝室に引き上げた。キッチンのゴミ箱を開けて、星は顔を顰めた。

 なにこれ。

 ちいさく呟く。ゴミ箱に入っていたのは駄菓子の袋だった。紫色の光るパッケージ。引き裂かれたそれが、一つ二つではない数、積み重なっている。それ以外には何も入っていない。菓子を食べなれていない星の鼻には刺激的すぎる匂いがして、星は慌ててごみを入れると蓋を閉めた。

 酒と駄菓子。

 星が垣間見た留津の食生活の大半を占めているのは、その二つだった。いつも同じ安い駄菓子と、それに比べればいくらかバリエーションのある酒。どちらも星の生活からは夾雑物としてほぼ排除されているものだった。でも留津の生活は、それを中心に出来上がっているようなのだった。

 星はそのことに戸惑い、でも何も言わなかった。留津はその星の態度をどう受け止めたのか。星が行くたびに、留津の部屋は荒れていく。荒れていくというよりも、これが本来の姿なのだろう。留津のだらしのない生活、夾雑物をかき集めてできたような生活が、剥き出しになっていく。星はそれを何も言わずに片付ける。留津の意図も、自分がしていることの意味もわからない。

 留津が起きてこないことにはもうやることがない。端末をチェックして、星はテーブルにかけてノートを取り出した。何か描こう、と思って、自分が今から作る料理の絵を描きだした。食卓の絵、と思うと意識しなくても自然とあの日見た留津の描き方をまねてしまいそうなので、あえて時間をかけて丁寧に描くことにする。どうせ留津は当分起きてはこない。

 理想の食卓。完璧な食卓。それを思い浮かべる。構図を決めてラフを描いて、その構図がいかにも安藤留津的だったので、笑ってしまった。他人から指摘されたことはほとんどないが、自分ではどうしても筆の運びに安藤留津の影を見てしまう。描きたい絵というものが彼女の絵なのだから、当たり前なのだが。留津が絵としてあらわすことのできる何かを、星は目指している。アナログやデジタルというのは、星にとっては辿る道の違いに過ぎない。留津と同じ道では、同じ場所には辿りつけないだろう、と感じていて、だからデジタルを避けているのかもしれない。自分には留津ほどの才能はない。それを真正面から認められるだけのあきらめも、まだない。

 料理の絵というのはそういえばあまり描かない。食事に対してあまり関心がないが、しかし絵のモチーフとしては魅力を感じないわけではない。それでも描かなかったのは描く機会に恵まれなかったのと、やはり留津のイメージが大きかったからだろう。その留津のイメージに寄り添いたくなる手を制し、でもそうすると描きたいものがわからなくなる。結局諦めて、留津のイメージを感じながら描く。描きだすと熱中する。紙に浮かんだイメージから、実際に紙に生まれつつあるものに関心が移る。描くことは楽しい。事物のイメージを写し取る、ということと、生み出している、という実感。線を描きこむたびに絵の密度は増す。その当たり前が嬉しい。どんどん描きこんでいく。絵を描いていると、という形式さえ取り払われて、自分と絵の区別がつかなくなる。鍋の重量感。肉とソースの質感。夢中だ。

「おいしそう」

 ペンを落とした。ぎょっとして振り返ると、留津がソファの背にもたれて、ノートを覗き込んでいた。

「そのペンの線であったかいものとつめたいものの書き分けができるのすごいね。篠田さんの質感の表現好きだな」

 ペンを拾う前に、ノートを閉じた。留津はぼさぼさの頭のままで、顔にはシーツの皺らしい跡がくっきり残って、目やにがついている。小さな口を大きく開いてあくびをした。

「かおあらってこなきゃ」

 がさがさの声で言い、喉が詰まったのか不穏な咳をしながら洗面所に消えた。星はペンとノートを仕舞い、キッチンに立つ。鍋に火を入れ、生ハムと合わせるための柿の皮を剥いていると、顔の周りの髪を濡らした留津がやってきて、ソファに座った。顔を洗い、寝癖を軽くだけ直したようだ。顔色がまだ悪いように思う。指先も白い。

 大丈夫ですか、と声をかけようか迷っていると、留津が先に口を開いた。

「片付けてくれたの」

「簡単にですけど」

 留津はふふ、と笑う。その声に、その微笑みに、星は考えを奪われる。笑っただけで、他の何とも似ていないものがそこに生まれるのだ。三十六年かけて彼女が作り上げてきたもの。その力に、星はいつも圧倒されてしまう。

「……私にはね、難しい。服畳んだりとか、そういうの」

 小さな声だった。胸がぎゅっと絞られるようになる。

「……しまうのもやりましょうか?」

 留津はちいさな、初夏でもひどく色の悪い足をソファに載せて、膝を抱えた。それから俯いたまま、おねがい、と、小さな声で言った。

 星は手を洗って、畳んだ服を抱えると、寝室のドアを開けた。何度か入ったこっとがある。ベッドとチェストとクローゼットだけでいっぱいの、小さな部屋だ。開けた瞬間ぎょっとして、そのまま服をぼたぼたと落とした。色とりどりの柔らかな生地のカットソーがフローリングに広がる。

 ドアを閉めようかと迷い、結局そうはしなかった。でも服を拾うこともできずに、立っていた。どうしたらいいのかわからない。

 狭い部屋の中で大きな面積を占めるベッドはシーツに皺が寄って、タオルケットがぐちゃぐちゃになっている。凹んだ枕の横には資料らしい紙の束が積み重なって、一部崩れて床に落ちている。ベッドの足側にはまた服が何枚かかかっている。

 それはいい。別に綺麗にしていると思ったわけではない。想定の範囲内だ。

 星の足を竦ませたのは、匂いだった。枕元に置かれた蓋のないゴミ箱から漂ってくる匂い。食欲をそそるための刺激的な、直接的すぎて星の鼻には強すぎる匂い。星は服を落としたまま足を進め、ステンレス製の小ぶりなゴミ箱を覗き込む。床やシーツにばらばらと散った黄色い滓。ゴミ箱の半ばにまで達している紫色に光る駄菓子のパッケージ。その上に、つぶれたミネラルウォーターのペットボトルが一つ。

 ぐしゃ、と、何かが音を立てて、星の中で潰れた気がした。

 この匂いが嫌で、食べかすが嫌で、床に落ちた服が嫌で、だから早くゴミ袋に移したり、掃除機をかけたり、服を拾って畳みなおしたりしなくてはいけないのに、動くことができない。自分に何が起こっているのかも、よくわからない。一体何が損なわれたような気がしているのか。実際のところ、星は留津に何もされてはいない。ただ星が、勝手に期待していたものが、裏切られたというだけだ。星が来る前、あるいは来た後、留津がどんな風に寝室で過ごすのかなんて、あるいは星の料理をどんな気持ちで待つのかなんて、完全に自由なはずだ。

 でも。

 ゴミ箱を覗き込んだ姿勢のまま、星は凍り付いている。動揺している。これはこの場にふさわしくない動揺で、だからどうにか押さえつけてまた動き出さなくてはいけない。わかっている。この動揺の原因も些細な期待や想定が裏切られたというだけだ。わかっている。わかっている。でも、上手く、できない。他人のこんなことで動揺することも、動揺をおさえなくてはいけないことも、星には初めてで、やり方がわからない。叫んだり、泣いたりすれば一瞬でも楽になるのかもしれないけれど、それもできない。したことがない。どうすればいい。

「みつかっちゃった」

 思わぬ近さで声がして、驚きにするり、と星の体のこわばりが溶ける。振り向くと、留津がしゃがんでいた。ゴミ箱を覗き込んでいる。髪が覆いかぶさって、顔は見えない。

「昨日ね、二時まで仕事してたの。本当は今日の夜まででよかったんだけど、篠田さん来るからその前に終わらせようと思って、」

 ぼそぼそと、乾いた低い声で留津がしゃべる。星はそれを聞く。どこか、さきほどまでとは違うどこかが、なぜだか痛い。その正体を探るような気持ちで、黙って聞いている。

「部屋ぐちゃぐちゃでしょ? それで早く寝て、早く起きて少し部屋片づけてって思って……おもって……」

 笑ったのか、ふ、と息を吐く音がして、言葉が途切れる。

「思って……思って……でもお腹空いて寝られなくて……それで一個だけって思って食べて、止められなくて、寝ることもできなくて、じゃあずっと起きてようって思っても、それでもできなくて、結局部屋もぐちゃぐちゃなまま」

 ふふ、と留津が笑う。俯いたまま、やっぱり顔は見えない。

「篠田さんっていつもちゃんとしてて……ちゃんとしてるのが自然っていうか……すごいよね……ちゃんとしてて……だから私もちゃんとしなきゃって思うんだけど……思って……思ってるのかな……思ってるつもりなんだけど……でもできないんだよね……できないのかな……やってないだけかもね……できないんじゃなくて……」

 留津は笑いながら話している。星は立ち尽くしている。ほかにすべきことがあるはずだと感じながらも、それが何なのかはわからない。

「ごめん……何話してるんだろう……ごめんね……」

 留津は笑っている。笑いながら謝っている。星は埃だらけの床に膝と手をついて、留津の顔を覗き込んだ。それが正しい行動だと思ったのではなく、そうせずにはいられなかった。

 星の想像に反して、留津は泣いてはいなかった。ばらばらになったものをどうにか繋ぎ合わせたようないびつさで、どうにか笑みを作っていた。星の不躾な顔の近さに、顔を顰めて、それからそむける。でも星は嫌がられても、その顔を凝視していた。また、この小さな女性によって、今までの自分が壊され、新しくされ、人生を想像もできない方向に押し流す力を感じながら。彼女が描いたものでもなく、彼女が見せようとした姿でもない、不本意ながらも露わになった姿によって。

「絵を描いてたんですか」

 星の声に、内心の混乱はまったく表れていなかった。そのことに星は安堵した。自分のためではなく、留津のために。

 星の問いに、留津は戸惑いながら頷く。星はちいさく頷き返す。もう、混乱はしていなかった。新しい自分を受け入れていた。無理矢理にでも、そうしなくてはいけなかった。

「じゃあ、ちゃんとできないぐらい、いいじゃないですか」

 それはゴミ箱の中身に傷ついてしまった自分に向けた言葉でもあった。あの積み重なったゴミは星への軽視ではなくて、留津の挫折なのだ。でもそのどちらにせよ、そんなものは大したことではないのだと思った。そうでなくてはならないのだ。もう、そんな馬鹿げた罠には引っかかりたくない。留津にこんなことで傷ついてほしくない。

「私の前でちゃんとしなくちゃとか、そんなこと考えなくていいですよ。全部私がちゃんとやりますから」

 視線をそらさずそう告げる星を、留津は見つめ返す。何かを言いかけるように口を開き、でもそこからなかなか言葉は出てこない。星は待つ。留津の唇は震えている。それを見つめるうちに、星のどこかもまた震えてくる。ほんの少し前まで、留津に対して自分が守るのだと、それができるのだという自信があったのに、震えとともに崩れていく。

 留津は下唇を噛む。伏せた睫毛が震えている。口を開く。色の悪い唇には歯の跡が赤くついている。

「……あのね、」

 いびつに繋ぎ合わせた何かの隙間から、どうにか漏れ出たような声だった。苦し気に一度息を吸い、続ける。

「で、でもね……わたしは、よくない、の」

 ちゃんとしたいの。

 その言葉とともに、留津の目から涙が零れ落ちた。涙は床に落ち、そこにあった埃とぶつかって、奇妙な模様を作る。

 見ていられない。星は思う。耐えられない。腕を伸ばす。留津の丸い肩に触れる。星の大ぶりの手のひらに留津の肩はすっぽりと収まる。そのこともなんだか耐えられないように感じて、引き寄せる。大した力も入れていないのに、留津の体は星の胸に柔らかく倒れる。星は腕を回して、小さな柔らかい人を抱きしめる。何故こんなことをしているのか、わからない。どうしていいのか、わからない。Tシャツが、留津の涙で濡れていく。

 どうしようもない、と思う。何もかも全部、ちゃんとできない。作りかけの料理。床に散らばった服。ゴミ箱から匂う駄菓子の屑。汚れた床。留津の生き方。星の心。何もかも耐えられないぐらいめちゃくちゃだ。どこから手をつけていいのかもわからない。

 星の鼻に、留津の髪が触れる。ぱさついた細い髪。さくらんぼの匂いはしない。その代わり、留津の匂いがした。星が今まで嗅いだことのない、うまく形容もできない、安藤留津という生き物の匂い。

 何もかもがどうしようもない。どうしてこんなことになっているのかも、この先どうなるのかも、どうしたらいいのかも、わからない。

 それでもこの混乱しきった場所で、下手くそにこの泣いている人を抱きしめる役割だけは、誰にも譲りたくないと、星は思った。

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もっと上手に 古池ねじ @satouneji

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