第三話

 赤色のジャージに身を包み、千雪は体育館の壁にめがけてボールを投げ続けていた。まだ体育館内に他の生徒はいないが、もう放課後になっているので、すぐに他の生徒も集まり始めることだろう。


 あの入学式から一週間、千雪は人目を盗んではこうしてボールを投げる練習をしていた。


 壁から約5m離れている場所に立ち、ひたすら壁と地面の瀬戸際を狙って当てる。最初こそ思い通りの場所に投げられずにいたが、今では二回に一回程度は思い通りの場所に投げられるようになっていた。


 あの日。


 千雪が純に入部の意思を伝えてすぐ、青ジャージを着た少女が体育館に訪れていた。



「何の騒ぎだ。お前たち、遊んでいるんじゃないだろうな!」



 怒鳴っているわけではないのに、澄んだ声が館内によく響き渡る。


 入り口から入ってきたのは、腰まで伸びたのポニーテールと、アメシストのような瞳、そして艶のある睫毛が切れ長の目をなぞるように伸びている少女であった。


 女性の侍が存在するなら彼女のような容姿をしているだろう。そう思わせるほどの風貌を纏っている。


 その少女をなだめるように、入り口の近くにいた流星が駆け寄った。



「違ぇよ、かすみ。今日は新入生歓迎の日だろう? エキシビジョンマッチをしていただけだって」


「今日が新歓なのは知っているが、本当にエキシビジョンマッチをしていただけか? 人が多すぎるじゃないか」


「それがさー、ほら、あの今年の特待生の子いるじゃん? あの子がいるから、気になって来ている野郎が多いんだと思うんだよね」


「特待生……」



 霞と呼ばれた少女の視線が千雪に向く。"あの今年の特待生の子"という台詞だけで千雪に気づくのだから、千雪の噂は知っているようだ。


 千雪も自分と霞の目が合うのが気になってしまって、純に問いかけた。



「上坂先輩、あの人は……?」


「うちの副キャプテンだよ。二年A組の桐生きりゅう 霞さん。ちょっと強面の人だけど、良い人だよ。千雪ちゃんと一緒で、去年特待生として入学した人だね」


「私の方を見てるみたいなんですけど、もしかして私、ここにいちゃまずかったですか?」


「ううん、そんなわけはない。観客が多すぎてびっくりしているだけだと思うよ」



 霞が一つため息をついたところで、さらにもう一人、少年が体育館へやってきた。外ハネにセットした茶髪と、背と手足の長さが目を引く少年である。緑のジャージを着ているので、弥一と同じ三年生であることが伺える。



「おおー、なんか声が聞こえんなーと思ってたら、こんなに観客がいたんだ。……これ全部、入部希望者だったりする?」


「私には、ただの野次馬のように見えますが」



 霞の冷たい言葉に緑ジャージの少年が笑い声を漏らし、そのままコートの真ん中に歩いてきた。


 周りにいるハンター部の生徒はみんな「お疲れ様です!」と頭を下げている。純も例外ではなく、運動部員らしくお腹から声を出してお辞儀した。


 緑ジャージの少年はコートの真ん中に立つと、ひときわ大きい声で話を始めた。



「みなさんこんにちは。ハンター部部長でキャプテンの、三年A組、千駄木せんだぎ 正義まさよしです。一年生の皆さんは、入学おめでとうございます。そして、数ある部活動の中からハンター部の見学に来てくれてありがとうございます」



 しっかりとした挨拶だ。高校生というよりは、顧問の先生が挨拶しているかのような口ぶりである。


 観客もみんな、私語を謹んで正義の話に傾聴している。



「ハンター部の入部を真剣に検討してくださっている方へ、二つお話しすることがあります。まず一つ、花山学園のハンター部は、真剣に全国優勝を目指しています。実際、去年は公式団体戦で全国ベスト4を記録しています。だからと言って全国レベルの実力がある人しか入部してはいけない、なんてルールはないですし、全国を目指すことだけが部活動じゃないと思います。ですが、俺たちは全国優勝を目指して練習を続けているので、本気じゃない人にとってはちょっと過酷な部活動かもしれません」



 正義の言葉に、観客も千雪も息を呑んだ。


 スポーツ推薦の生徒が所属している部活動なのだから、良い戦績を残しているであろうことは、多くの観客にとって予想できることであった。しかし、"全国ベスト4"という肩書きは並大抵ではない。先ほどの怒涛の試合を観戦した直後であったので、"全国ベスト4"の部活動を見学しているという事実に、今まで抱いていなかった緊張感を抱き始めたのである。


 千雪も少し動揺した表情をしていたので、純がすかさず「大丈夫だよ」と声をかけた。



「そしてもう一つ。ハンター部は定員が四十名となっています」



 黙って聞いていた観客たちも、この言葉には動揺の声をあげた。


 体育館内でハンター部員らしき人物は二十名ほどいる。つまり、あと入部できるのは二十名ほどだと予想できる。


 しかし、観客席には少なくとも八十名がいる様子である。入部倍率が四倍、などという部活動は他にないだろう。



「定員が四十名なのには訳があります。試合を観戦してもらったからわかる通り、ハンター……vスポーツでは、機械とかシステムとかを使って試合をやっています。花山学園が使っているハンターの機械では、コートに四十名以上入ることができないので、これを部の定員としているんです」



 そして、正義は最後に、観客の誰も予想していなっかた言葉を口にする。



「なので……来週の入部届け受理日にも入部希望者が多いようでしたら、校内規則にしたがって、入部試験を実施します!」



 正義から発表された入部試験の課題は次の通り。


 ハンター部の部員が、コート内に立つ。入部希望者は部員から5m以上離れたところからドッジボール用のボールを投げ、中の部員に当てることができた人から勝ち逃げ式で入部資格を持つというものである。ボールは定員に達するまで好きなだけ投げても良い。入部資格を得たものは、他の部活動に入部することを禁止される。


 部員に当たったかどうかの判定は、他の部員が行う。ドッジボールと同様に、ワンバウンドしたものは無効。部員の首から上に当たった場合も無効。ただしハンターと同様に、部員がボールをキャッチした場合も合格としてみなすため、それを狙っても良い。投球は手や腕しか使ってはいけないため、蹴ったりヘディングしたりすると即座に失格となる。


 そしてもう一つ、大事なルールがある。


 標的となる部員は、バスケットボールのコートのセンターサークルとセンターラインの交差点から右足を離してはいけないという制限が課せられていた。



(つまり、どんなに部員がボールを避けようとも、右足を狙えば確実に当てることができる!)



 そのことに気づいた千雪は、こうしてずっと、標的の右足を狙えるように本番と同じ距離感で練習を続けていたのである。


 家ではトレーニングの動画を閲覧し、筋トレ、ストレッチ、投球の練習を行い、体育館を借りられるときには実践的な練習を繰り返す。


 練習を始めてすぐは筋肉痛にもなったが、今ではもう万全の状態に落ち着いていた。今日の入部試験も、十分に実力を発揮できるだろう。


 こうして毎日練習を続けるには胆力が必要だが、千雪にとって努力を続けることは特別なことではなかった。


 神のと呼ばれ続けるため、人々の期待に応えるため、千雪はいつもこうして人並みならぬ努力を続けていたのである。その努力が、先週からは投球の練習にも注がれるようになった。ただそれだけのことであった。


 今までも、努力は人目につかないところで続けていた。


 努力しているところを見られるのは格好悪い、という考えを持っているわけではないが、努力している姿を見せないほうが「神の娘はやはり天才だ!」という期待を裏切らずに済むからである。


 なお、千雪が投球の練習を隠す理由はもう一つあった。



「綾瀬さん、ですよね?」



 見知らぬ女子生徒が千雪に話しかけた。千雪と同じ赤色のジャージを着ているので、一年生である。他にも二人女子生徒がいて、入り口を見ると他の生徒も続々と集まり始めている様子である。



「はい、綾瀬です。えっと、初めまして」 


「ははは、初めまして!! あの私、D組の鈴木って言います!


「同じくD組の田中です!」


「私は佐藤です! D組の!」



 そう言って、女子生徒たちは千雪に握手を求めてきた。千雪がそれに応えると、黄色い歓声が湧き、興奮のあまり握手した手を崇めるような所作を行い始めた。


 こうやって握手を求められることは稀ではなく、入学してから今日まで何度も握手をしてきた。


 入学初日はサインを求められたりもしたが、見かねた学校側が「生徒にサインを求める行為を禁ず」というピンポイントな校則を設けたため、遠慮のないサインの要求はなくなった。千雪は徐々に普通の生徒らしい学園生活を送り始めていたが、それでもまだ、こういうことは続きそうである。


 女子生徒の言動を見て、便乗するように他の生徒もやってくる。



「あの、綾瀬さんは今日の入部試験自信ありますか……?」


「そうですね……ちょっとやっぱり不安はあります。今日の入部試験って、順番じゃなくて、みんな思い思いにボールを投げるルールじゃないですか。だから、狙って投げても他の人のボールとぶつかっちゃうと、お互い失敗しそうですよね」



 猫を被る。



「それに、5mって結構離れていますよね。バウンドしないように5mも投げるのって大変なので、やっぱり、入部試験に合格できる自信は全然ないです」



 猫を被る。


 嘘は言っていないが、本心ではない。しかし周りの生徒たちは千雪の言葉に「その通りだ」「やっぱり自信がない」と、同調する姿勢を見せる。千雪の今日までの練習を知っているものであれば、千雪の自信のなさがやや不自然であることに気づけただろうが、誰もそのことを知らない。


 そうして話していると、瞬く間に千雪の周りは生徒だらけになり、もはや体育館内は部活動の練習場ではなく、タレントの握手会場へと変貌していく。


 これはまずい、と千雪が戸惑ったところに、救世主はやってきた。



「ちょっと、ここはハンター部の練習場ですよ。ハンターに本気で入部したい人だけ残って、そうでない人は外にいてくださいね!」



「上坂先輩!」



 先輩として毅然とした頼もしい姿で、純は野次馬を追っ払った。今日も先週と同じく、ロングのツインテールをなびかせている。


 千雪の「お疲れ様です!」という挨拶に、それはもう嬉しそうに満面の笑みを返した。



「来てくれたんだ、千雪ちゃん。キャプテンが結構脅かすようなこと言ったから、ちょっと心配してたんだよ」


「そんな。私、今日が楽しみでしたから!」


「へへぇ、そうなんだ。それは嬉しいなぁ」



 無関係な野次馬は散ったが、館内はハンター部員と入部希望者で賑わい始めていた。


 そうこうしているうちに、正義、霞、弥一といった先輩陣がやってきて、部員たちは口を揃えて「お疲れ様です!」と挨拶をした。千雪や他の入部希望者たちも、見様見真似で続いて挨拶をする。


 さらに流星、秀、剣城もやってきて、館内はさらに活気付いた。流星は館内の賑わいに上機嫌だが、剣城は先週と同じように不機嫌でいる。秀が剣城に「今日は真剣な入部希望者しかいないよ」と声をかけたが、剣城は「どうだか」と言ってそっぽを向いた。



「じゃあ、入部希望者はこっちに集まって!」



 コートの中心に立つ正義の声に反応して、入部希望者が駆け足で集まってくる。


 先週よりは人数が減ったが、それでも五十人以上が集まっている。半分以上は、入部できずにお引き取り願われることになるだろう。



「先週話した通り、これから入部試験を始める。ちょっと辺りを見て欲しいんだけど、カラーコーンがいくつか置かれているよね。あのカラーコーンが、ちょうど標的になる部員から5m離れた場所になるので、入部試験に挑戦する人は、カラーコーンより外側に立ってね」



 部員に案内されて、皆それぞれカラーコーンの外側に立つ。いきなり入部試験を開始するかと思いきや、「まずは全員準備運動な!」と、普通の部活動のように準備運動が始まった。


 バスケットコートのセンターラインの上には、正義と弥一がいる。どうやら、今日の標的となる部員はあの二人のようである。



「あのキャプテンじゃない方の人って、なんかめっちゃヤバかった人だよね?」


「そうそう。キャプテンはスポーツ推薦の人じゃないし、狙うならキャプテンの方がまだいいのかな……」



 準備運動をしながら、他の一年生が口々にそう呟いている。その発言は千雪にももっともらしく聞こえたが、千雪の立ち位置からは弥一の方が近いため、練習と同じく弥一を狙うことだけを考えていた。



(私の予想通りなら……私がボールを投げる構えをしなければ、始まってすぐは、ほとんどの人がボールを投げないはず。誰のボールもぶつからなさそうな雰囲気になったら、酒巻先輩の右足を狙う。大丈夫、確実にいける)



 千雪は謙虚に振舞うが、自分が他者から見てどういう風に見えるかをよく知っている。


 ここにいる入部希望者のうち、九割以上の人が"千雪と同じ部活動に入りたい"という思惑を抱いている。それは、先ほど握手を求めてきた人たちの表情や態度でよくわかることだった。


 そして、先ほど千雪は握手に応えながら「ボールがぶつからないか不安だ」「自信がない」という旨の話をした。


 "ハンター部に入りたい"ではなく"千雪と同じ部活動に入りたい"という希望を持つ者にとって、千雪自身が入部できるかどうかは重要なことに違いない。


 ハンター部の入部試験に合格すると他の部活に入部できないため、千雪がうっかり入部試験に落ちた場合は、ただ過酷な運動部生活が待っている。下心しかない者にとって、それは絶対に避けるべきことである。


 だから、千雪には予想できた。


 千雪が「ボールがぶつからないか不安だ」と言えば、人は千雪とタイミングが被らないようにボールを投げるはずだし、千雪が「自信がない」と言えば、人は千雪が合格できるかどうかを確認してから合格を目指すだろう。


 つまり、千雪が投げ始めない限り、ほとんどの人はボールを投げずに様子見に走るはずである。


 この作戦を確実に完遂するため、千雪は自らの練習を隠し、自らの不安を積極的に吐露した。


 作戦に罪悪感が湧かないわけでもなかったが、「自分目当てではなくハンター目当てで入部する人と一緒に過ごしたい」という本心が千雪を駆り立てたのだ。



「よし、準備運動終わりだ。審判は、観客席でカメラを持っている部員の人たちにやってもらうので、各自、必ず審判の言うことには従ってくれよな」



 正義がそう言って、二階の観客席にいた霞に合図を送る。霞がそれに応えると、右手を高く挙げた。



「それでは、学園の校則に従いハンター部の入部試験を始める。用意——」



 と、霞が開始の笛を吹いて、すぐ。


 ボールが斜め上から弥一に襲いかかって、気づけば、弥一の胸元にはボールが掴まれていた。


 あまりにも瞬間的な出来事に、またvスポーツ特有の幻想でも見せられているのかと人々はどよめいたが、それを制するように霞の冷静な声が響き渡った。



「今ボールを投げた、そこの、体育館の入り口に一番近い場所にいる奴。合格だ。いいボールだった、クラスと名前は?」


「はい。根津ねづ たくみです。一年E組です」



 全員の視線がそこに集まる。


 カラーコーンよりもさらに1mほど離れたところで、一人の少年が立っている。


 身体的特徴はあまりないが、赤いジャージとは対照的に、青いハチマキをたなびかせている姿が大変目立つ。自分の功績を威張るでもなく、静かな表情でそこに立っている。



「え、なに? 今の、あの人が投げたの?」


「私見てたよ。なんか、めっちゃ跳んで、そっから思いっきり投げてた。バレーボールやってた人なのかな? プロのサーブみたいだったよ」



 一方、弥一の方もキャッチしたボールをコート外に放り投げながら、正義と話をしていた。



「おいおい弥一、いきなりボールキャッチしてんじゃねーぞ。今日アウトになった回数が多い方が牛丼奢るって約束、忘れてんじゃねーだろな?」


「忘れてないけどさぁ、いきなり来たから反射的にキャッチしちゃったんだよな。それに、根津 匠ってことは、今年のスポーツ推薦の一年だろ? あの、元中学ハンドボール部っていう」


「ああ、さすが、強烈なボールだったな。……ていうか、思ってたよりみんなボールを投げてこないな」


「かの千雪様が様子見してるからじゃね?」



 弥一の言葉に正義が苦笑したところで、正義の近くをボールが横切っていく。重みのありそうな投球ではあるが、正義が避けずとも当たりそうに無い軌道を描いて遠方へ転がっていった。



「あーもう、当たる気しないんだけど! 助けて、匠右衛門! 匠みたいにバンってやってドーンってできないー!」



 ボールの飛んで来た方向では、アクアマリンのような瞳が特徴的な少女が地団駄を踏んでいた。薄い色のショートヘアも相まって透明感のある涼しげな容姿をしているが、言動はなにやら騒がしく、もはや小学生のようである。


 少女は後方に立っていた匠に向かってああだこうだと不満を漏らした。



「いや、俺の真似をしなくていいから。俺はあの投げ方がやりやすかっただけ。それと、胸元じゃなくて右の足元を狙った方がいい。春菜はるなは片手で投げるより、両手でゆっくり投げた方が上手くいくんじゃないか?」


「なるほでぃ」



 匠のアドバイスを聞いた少女、春菜は正義の方に向き直ると、ドッジボールらしからぬ構えから、両手でふわりとボールを投げた。


 ボールは図に書いたような綺麗な放物線を描いて、正義の右足元へ落ちてくる。



「あー……あれは、右足に当たっちゃうやつだわ」



 正義が呟いた通り、ボールは硬直する正義の右足のすねを撫でるように落ちてきた。


 春菜も射的が当たった幼い子供のように飛んで跳ねて喜んでいる。喜びのあまり、審判の霞が支持するよりも先に名乗り始めた。



「はいはい私! 匠と同じ一年E組の乃木のぎ 春菜です! 中学のときは体操をやっていて、平均台が得意でした! 運動神経は良いし、体もめっちゃ柔らかいので、期待していてください!」



 元気はつらつとした挨拶に、少し笑いが起きる。正義が「ちょっと弥一っぽいな」と言うと、弥一は「うるせーなぁ!」と照れ隠ししながら答えた。


 一方、千雪は引き続きコートの様子を見守っている。


 春菜や匠の後に続こうとするものが三、四名いるが、ボールはあまり飛び交っていない。


 今投げている人も、他の人とボールがぶつからないように気を使っているように見えるので、タイミングよく普通に投げれば、狙い通りに投げられそうであった。


 少し深呼吸をして、弥一の足元の少し上を見る。もう千雪の目には、弥一の姿はいつもの体育館の壁に見えていた。


 動画で学習したように基本に忠実なフォームで、いつも通りの気持ちで——投げる。


 ボールは千雪の思い通り、まっすぐ弥一の足に向かって飛んでいき。



 ——当たった。



 その瞬間、純をはじめとして四方八方から歓声が湧き上がって。


 そして、地獄が始まった。


 今まで千雪の様子を静観していた者共が、いきなり鬼の形相でボールを次々と投げ始めたのである。



「ヤッベェヤベェヤベェ! 始まった! 千雪様がお当てになったから兵が本気になったぜ! ハハッ、笑い事じゃねぇけど笑っちゃうなこれ!」


「笑っててもいいけどなぁ弥一、お前、ちゃんと自分が当たった回数覚えとけよ!」


「覚える自信ねぇから全部避けるっきゃねぇな!」



 千雪が観客席の霞の方を見上げると、霞はボールの往来を見ながら非常に苦い表情をしていた。千雪が自分の名前とクラスを申告しようとしたが、霞が「いや、知っているからいい」と制した。カメラに撮っているが、それでもボールの状況を見ておかないと、誰の投げたボールが当たったのか見逃しそうなのである。



「千雪ちゃん! さすが! お手本みたいに綺麗な投げ方だった!」



 最初に千雪に駆け寄ったのは、やはり純であった。


 駆け寄って、千雪に抱きつくように飛び込んでいく。



「ありがとうございます。すごく緊張しました」


「本当? ……実はめっちゃ練習してたでしょ」



 そう言って、悪戯げに笑う。千雪が思わず「見てたんですか?」と返すと、「やっぱりそうなんだ」とまた笑ってみせた。



 体育館の入り口に向かうと、すでに合格している匠と春菜が入部届けを提出し終えていた。千雪がと純が近づくと、春菜が「おお、噂のめっちゃ可愛い子だ」と言うので、匠が苦笑した。



「初めまして、綾瀬さん。俺はE組の根津です。ボール投げるところ見てたよ。とても上手で、びっくりした」


「ありがとう。根津君こそ、すごいボールだった。あんなにすごいのをいきなりみせられて、緊張しちゃったよ」



 千雪と匠が穏やかで平和な会話を始めたのを、春菜が不満そうに割り込んできた。「ずいぶん御仲がよろしいんでござわすわね?」と唇を尖らせているので、千雪は春菜と匠が付き合っているのではないかと推測したが、千雪はそういった話を初対面で聞けるような性格ではなかった。



「私、E組の乃木 春菜です。この匠とは幼稚園の頃から一緒の仲でしてよ」


「そうなんだね。……すごく、仲良さそうだね」


「……」


「……」



 匠の腕をぎゅっと握った春菜が、唇を尖らせたまま、千雪の方をじいっと見つめてくる。千雪が入り口にいた二年生部員に入部届けを出している間も、ずっと見ているのである。


 あまりにもずっと千雪を見つめてくるので、匠と話したことがどうしても許せないのだろうか、と動揺していたが。


 しばらくすると、春菜の表情や身体はかつて見たことがないほどヘニャヘニャになって。



「千雪ちゃん……超可愛い……」



 と呟いた。



「おま、春菜、初対面でその態度はないだろ!」


「だってめっちゃ可愛いじゃんかよおぅ。実物めっちゃ可愛い。おめめくりっくりの肌すべっすべよ?? 可愛すぎて私なんてもやしですわこれ」


「わかったからシャキッと立てよ! 綾瀬さん戸惑ってんだろ!」


「戸惑ってる顔も可愛いんですなぁこれが」



 戸惑う千雪を余所に、純の方は手を叩いて笑っていた。「面白い一年生が多くて嬉しいね!」と言うが、千雪としては「自分も面白い一年生なんだろうか」と疑問を持たずにはいられなかった。


 そうしているうちに、続々と入部届けを持った生徒がやってくる。


 怒涛の投球の末、定員までの入部者が確定したようである。希望と期待を胸に入部届けを持ってくるものと、一方で、絶望的な表情で体育館から出て行く者もいる。近くを通りかかった流星が「うちの学校は他にもいっぱいいい部活あんぞ!」と声をかけていたが、特に聞こえていないようであった。


 コートの方では、弥一の「奢るのは牛丼だけだからな! キムチとサラダと味噌汁は自分で金出せよ!」と正義に訴えかけているが、正義は「そんな話だっけか?」と茶化して笑っている。


 と、そこへ。



「よーし、入部試験は無事終わったみたいだねぇ」



 気づけば、今までそこにはいなかったはずの、見知らぬ男が入り口に立っていた。


 春だというのに毛皮のついた黒のコートを着込んで、直射日光から逃げるようにフードを被っている。身長は190cmもあるだろうが、細身で、短パンから覗く脚には何も脂肪がついていないように見える。ブルーライトカットの黒縁メガネが瞳を隠すように光って、さらに怪しさが増していく。


 男はあたりを見渡すと、意味深に、ニヤリと笑うのであった。


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