第二話

 純の視線が入り口を向いていることに気づいて、千雪もそちらへ視線を送った。


 緑のジャージをラフに着た少年が靴の紐を結んでいる。この学校で緑のジャージを来ているのは三年生である。少年の近くにいた青ジャージの部員が頭を下げている様子から、ハンターの三年生部員であることが伺える。


 緑ジャージの少年が靴紐を結んで立ち上がる。


 背が高く、襟足を少し伸ばした黒髪が特徴的である。長い手足であるが、三年生の運動部員という割には筋肉質な身体ではない。一番目を引くのは、黒いダイヤモンドのような瞳と、はっきりした顔立ち、そして大きな口から覗く白い歯。まるで青春そのものを具現化したような容貌だ。


 少年はコートの試合の様子を面白げに眺めていたが、千雪と純が少年の方を見ていることに気づくと、それはもう嬉しそうに千雪たちの方へとダッシュしてきた。



「こんにちはー! そこの可愛い人ー! ご見学でーすかー?!」


「その台詞って被るものなの……?」



 純と千雪が苦笑いすることも気にせず、どこかできいたことのある台詞を掲げた少年が突進してくる。千雪の目の前までスライディングして、満面の笑みで自己紹介を始めた。



「俺、酒巻さかまき 弥一やいちです! 三年E組! 好きな食べ物は茄子で、嫌いな食べ物はカブ。特技はハンターで……趣味もハンターかな! なぁ純、部活動って趣味って言わないんだっけ?」



 呆れ顔で「どっちでもいいんじゃないですか」と言われながらも、弥一は「そっかそっか!」とご機嫌に頷いている。聞かれていないことも真っ先に話すものなので、先ほどの流星よりもさらにお調子者であるという第一印象を千雪に植えつけた。



「お嬢さん、見学だね。お名前は?」


「え? あ、綾瀬千雪です。一年A組の」


「千雪ちゃんかー! よろしくねー!」



 そう言って、弥一が千雪と握手を交わす。


 千雪としては、てっきり弥一が千雪のファンで自分に食いついてきたものとばかり予想していたが、弥一は千雪がモデルであることどころか、千雪が学内を騒がせている人物であることも知らなさそうであった。


 それに、二階の観客にも全く目をくれていない。ただ自分の目の前にあることだけを見ているようである。


 握手を終えて弥一が純の隣に座ろうとするのを、純が制した。



「弥一先輩、明治君と組んで2on2するんじゃないんですか? 先輩来ないから、明治君一人で大変そうですよ」


「お、マジで?? ……あー、そういえば今日はそういう試合する日なんだっけ、忘れてた! でもツルちゃんなら一人でも大丈夫っしょ」


「大丈夫とか大丈夫じゃないとかじゃなくて、新入生歓迎のための試合なんだから、ちゃんとあるべき姿の試合を見せてください!」



 純の気迫に物怖じせず、「それもそうか!」とあっけからんとした様子で、弥一はコートの方へと向かった。コートはどこからでも入れる訳ではなく、必ずタイマーがある方から入らなければならない決まりがあるようで、弥一はタイマー近くの少女に話しかけながらコートの中へと入っていった。


 弥一が入ってきたのを見て、剣城が「遅いんすよ」と不服を申し立てているが、弥一は相変わらず明るい顔で「ごめんね〜」と返している。


 一方、流星と秀の表情には若干の緊張が見えた。その様子を見ながら、千雪は素直な疑問を投げかけた。



「酒巻先輩が三年生ということは、もしかして一番強いんですか?」


「あー、うん。強い。……うーん、強いっていうかねー」



 純の歯切れが悪い。一方、試合の方はと言うと、剣城の元へ飛んで行ったはずのボールを弥一が横取りするようにキャッチしていた。


 ハンターにおいてはキャッチもアウト扱いなので、タイマーのカウントダウンが切り替わる。相手に当たるとフェードアウトするはずのボールは、そのまま弥一の左手に鷲掴みにされている。


 弥一がボールを下に放ると、バスケットボールと同じようにボールがバウンドした。一回、二回とバウンドさせて、弥一の口角が上がり、白い歯が覗く。



「おいおい、流星よぉ!」



 弥一は最後にそのボールをふわりと上へ投げると、落下してきたそれを助走をつけて、思い切り思い切り——流星へ蹴り飛ばした。



「んな生ぬるいボールしか投げれなかったっけか?! もっと全力出して来いよなぁ!!」



 歓声が起きる。動揺の声だ。


 破裂音に近い、激しい音を立てて蹴り飛ばされたボールは、流星の鳩尾へと深く突き刺さった。


 流星には避ける暇もなく、キャッチすることで衝撃を軽減する他なかった。


 コート上の人たちは全員手袋をつけているわけだが、それでも流星はボールを受け止めた手を痛そうにぶんぶんと振った。


 口元には笑みがある。しかし一筋の汗が矛盾するように流れていく。


 目まぐるしいその光景に、千雪も少し戸惑っていた。



「蹴るのってアリなんですか?!」


「バーチャルの力を使うのもアリなんだから、ボールを蹴るくらいは全然OKだよ。……でも、半端ないよね。弥一先輩は強いなんてもんじゃなくて、野生の獣みたい。強すぎて、とめられないよ」



 弥一の参戦は試合の空気を大きく変えた。


 もともと剣城が少し優勢なくらいの状況であったが、弥一の存在が体育館内を圧倒していく。


 流星と秀のチームワークでボールは何本も蛇行しながら弥一たちに襲いかかるのだが、どれも弥一を捕らえられない。


 たまに弥一が自らボールをキャッチするが、そのまま流星や秀を射止めてしまう。


 逆転の余地がなく、歓声は止んでしまったが、代わりに感嘆の声が客席から漏れだすようになっていた。



(エキシビジョンだって言ってんのになぁ、弥一さん……)


 呼吸を整えながら、流星は考えていた。


 二階の観客席は、試合開始時ほどの盛り上がりを見せなくなっている。無数の目が、事故現場をみてしまったときのように緊張感と共に存在している。



(負けるにしてもさ、こんなの面白くないよな。弥一さんはメチャクチャにスゲーけど、ただスゲーだけじゃダメだ。見に来てくれた新入生がこんなにいるんだ。もっと、ハンターの面白さを見せないと。俺がもっと活躍して、それで、弥一さんが活躍してくれないと——)


「ねぇ、リュウ!」



 少し大きめの声で、秀が流星を呼んだ。


 流星はボールを二つ掴んだまま、ハッとして秀の方を振り返ったが、秀は流星ではなく弥一や剣城の方を見ている。


 真っ直ぐ見据えている。そこに焦りはなくて、心から自分たちが勝利することを信じているような、澄んだ瞳をしている。


 そのまま秀はそれ以上何も言わなかったが、流星は少し冷静になって、再び弥一と剣城の方を見た。


 今まで、流星の放ったボールはことごとく避けられている。キャッチされることもあるが、次の瞬間には跳ね返るようにして流星や秀の方へと飛んでくる。


 流星と秀のタイマーだけが刻々と時間を減らして、弥一と剣城のタイマーはたまに数秒動く程度である。



「キャッチされないボールを投げないとね」



 純が千雪に説明しようと、コートの方を指さした。



「ハンターにおいてはキャッチもアウト扱い。でも、単に身体に当たるだけなのと、ボールをキャッチするのでは大きな違いがあるの。ボールが身体に当たるとボールは消失するんだけど、キャッチしたときはボールが消失しない。ボールを生み出すには数秒かかるから、ボールが消失しちゃうと反撃に時間がかかる。でも、キャッチしたときはすぐに反撃ができるから、弥一先輩はあえてキャッチして即座に当て返しているわけね」


「ボール権を長くもっていた方が負けだから、ボールを生み出すときの時間ロスも痛いってことですね」


「さすが理解が早いねー。今の弥一先輩はちょっと流星たちを舐めてるから、ここは一発、弥一先輩をギャフンと言わせて欲しいんだけど」



 ひとつ、深呼吸をしてから流星はまたボールをかまえた。


 その真正面に弥一がいる。


 射抜くように、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐボールを投げただけである。特に変わらない、先ほどと同じようなボールである。


 だからこそ、弥一は先ほどと同じようにボールを受け止めようとして。



「っ!」



 いや、受け止められなかった。


 真っ直ぐ向かったはずのボールは、弥一の手から逃げるように流星の方へ戻っていったのである。その現象を見ても観客の反応は薄かったが、純は「おおう」と声を漏らした。



「なるほど、フェイントを入れるなんてできるんだね」


「フェイント、ですか?」


「うん。弥一先輩がキャッチしようとしたところを、秀がボールを流星に引き戻す。まっすぐ向かってくるボールとは勝手が違うから、さすがに弥一先輩もキャッチしづらいよね。それに、流星も距離を詰めてきた」



 ボールは何度も弥一の方へ向かっていくが、弥一がキャッチすることを許さず、ボールは意思を持っているかのように踵を返す。


 そのたびに流星は弥一の方へと前進していて、ついには2m程の距離にまで詰め寄っていた。


 剣城が弥一のフォローに向かおうとするが、それは秀が許さない。


 流星が生んだもう一つのボールを用いて、秀もまた剣城へ攻め始めていた。流星の投げるボールのようにボールが翻ったりすることはないが、剣城の行動を制限するには充分であった。



「あれ……結構辛いはずだよ、流星たちの方がさ」



 純が一つ溜息をつく。



「流星のボールを二つ生む技は、体力の消耗が激しいはず。それに秀は剣城と対峙しながら流星と弥一の対面にも集中しないといけない。弥一先輩が強すぎるけど、あの二人も器用すぎるよ」


「……すごいんですね。酒巻先輩も、それに二年生の先輩方も」


「そうだね。今回はエキシビジョンマッチで試合時間が短いから、体力を使い果たすつもりでやってそう」



 試合開始時の、余裕そうな表情はもう流星にはなかった。


 あくまで新入生に見学をさせるだけの試合だったはずが、もう真剣勝負になっている。


 弥一はそれでも余裕そうな表情を崩すことなく、むしろ、流星たちが攻めの手を強めてきたことで楽しみを抑えきれないような表情をみせていた。



「いいね、秀と流星が組めばそういうことができるわけだ! 面白いなぁ、これだから辞めたくねぇんだよな、ハンターってさ」



 弥一がボールに食らいついてきた。ボールに触れられなくて、痺れを切らしたような食らいつき方だ。


 逃げるボールを仕留めようとするが、秀によってボールは捻れるようにして弥一の腕から逃れた。


 ボールは弥一の指に触れていた。ブザー音が鳴って、攻守の交代を知らせる。今日初めて、弥一はボールをキャッチできなかったのである。


 流星も秀も喜びたい気持ちでいっぱいであったが、まだ劣勢は変わらない。それどころか、もう流星と秀の持ち時間は数秒程度しか残っていない。次にボール権が変わったなら、もう勝敗は決するのだろう。


 弥一はすぐにボールを生成したが、ボールを投げることなく、しばらくボールを見つめていた。



「何やってんすか、弥一先輩。投げないんだったら俺が投げますけど」


「あー、悪い悪いツルちゃん。でもちょっと試したいことあるから、ボールもらっていい? あとでアイス奢ってあげる」


「アイスはいいからさっさと動いてください。あまり舐めてると、リュウが怒るんすよ」


「それは困るな〜」



 剣城の叱責にけらけらと笑って、弥一はボールを指で弄んだ。一回転、二回転、三回転とボールを回して。



「流星、秀! 良いボールだった! 俺も見習うっきゃねーな!」



 それは、ただの賞賛に聞こえた。


 しかしその実態は、宣戦布告だったのである。


 弥一は流星の鳩尾に向かってボールを投げた。鋭いボールだが、ただのボールだ。


 キャッチしやすそうではあるが、またボール権が代わってしまってはたまらないので、流星はしっかり距離を取って避けようとする。


 しかし。



「……え?」



 消えた。


 流星の側を横切るはずのボールは幻のように、瞬く間に消えた。



「流星!」



 と叫ぶ秀の声が速いか否か、流星が気づいたときにはもう、なぜかボールを掴んでいる弥一と流星の距離は詰め切られていた。


 至近距離まで詰められて、それほど強くない力で投げられたボールが、流星に当たって消えた。


 ボール権が切り替わったことを知らせるブザー音の後、今までより長いブザー音が響き渡った。流星と秀のチームの時間を使い果たしてしまい、弥一と剣城のチームの勝利でゲームが終了したのである。


 勝利を祝う歓声が巻き起こる。一体全体何が起きていたのか大半の人は理解していなかっただろうが、非現実的で濃厚な数分間を体験すれば、誰しも拍手をせずにいられなかった。


 コート上の四人はそれぞれ握手を交えて、それから流星は苦い顔で弥一に話しかけた。



「弥一先輩、なんすかアレ。初めて見たんですけど」


「なんだろうな、バニッシングスロー! とか名付けちゃう? 秀がやったボールを引き戻すやつみたいに、ボールが一瞬で手元にワープしたらヤベェかなーって思ってさ。やってみたわけ」


「思いつくのはわかるけど、それですぐ実現できる弥一先輩がヤベェんすよ」


「そうだよなー、俺、やっぱ強ぇってことだな!」



 弥一と剣城のチームが圧勝気味になってしまったために、まだ新入生歓迎の時間は残っていた。


 流星が「じゃあもう一戦やらせてくれよ!」と言うのに対し、剣城や秀も賛成の意思を見せたが、弥一は「勝ち逃げしちゃお」と意地悪く笑って踵を返した。



「弥一先輩そりゃないっすよ!」


「まぁまぁ、純もやりたいだろうしさ。俺は純が捕まえてきたあの可愛い子をスカウトしてくるよ」


「スカウトするのは良いんですけど、ハンター部ってこんなに入部できるんですかね?」



 秀がそう言って、観客の方へと視線をやった。冷やかしも含まれているとはいえ、総勢百人くらいが見学している。中には新入生だけではなく二年生も紛れ込んでいるだろう。四月は二年生も入部をしてよいという学園の決まりなので、本気で入部を検討している二年生も多いはずである。



「ハンター部は定員四十名のはずだぜ。コートで練習できる限界がそんなもんだからさ。今が二十人くらいだから、あと二十人とかか?」


「流星の言う通りなら、彼女を誘っても入部できるとは限らないですよ。そのこと念頭において誘ってくださいね」


「へいへい」



 秀の忠告を聞きつつも、そんなことには関心がないような様子で弥一はコートから出ていくのであった。



「おーい純、交代しない? 次の試合は順が暴れてやりなよ」


「いいんですか? 見てたら私もやりたくってうずうずしてたんですよー!」


「うんうん。その間、俺が千雪ちゃんと仲良ーく過ごしておくからさ」



 純の視線が一気に冷たくなるのも気にせず、弥一は純が空けた席に腰かけた。純は「本当に余計なことしないでくださいよ」と釘を打ちつつ、靴紐を結び直し、少し浮かれたような様子でコートの方へと駆け出した。


 一方、千雪は純と弥一の交代に不安を覚えながらその様子を見守っていた。


 力強さで試合を圧倒してみせた人間が、隣にいるのが落ち着かないのである。何をしでかすかわからない大型犬が隣に来たような気分であるが、その気持ちをどうにか隠しながら弥一に「お疲れ様です、すごかったです」と無難な挨拶をした。



「純、千雪ちゃんとそこそこ話していたよね。どう? ハンターのルールとかわかってきた?」


「はい。上坂先輩が親切にしてくださったので、何となくのルールは掴めました。まだ仕組みとかは全然わからないですけど」


「それは良かった。興味湧いてきた?」


「はい、とても。もっと色々知ってみたいです!」


「へぇ。じゃあ、入部したくなった?」


「そうですね。家族と相談しなきゃいけないですけど、入部も考えたいなーって」


「……ふぅん」



 弥一のリアクションが徐々に薄くなっていることに千雪は気づいた。弥一はずっと千雪の目を見ていて逸らそうともしない。見られることに慣れている千雪であったが、弥一のように瞳の奥を観察して品定めをしているかのような視線には違和感を覚えていた。


 千雪と弥一の間に生まれた沈黙を埋めるように、次の試合が始まった。


 今度は流星と純、秀と剣城でペアを組み、秀と剣城側が先にボール権を得た。


 先程の試合は始まってすぐに投球が行われていたが、今回は剣城がボールを持ったまま、しばらく純や流星の様子を伺っている。



「千雪ちゃん。……んー、千雪って呼んでいい?」


「はい、いいですよ」


「うれしー。千雪は、なんかスポーツとか部活とかやってたの?」


「いえ、体育の授業と……ちょっと自主トレするくらいですかね」



 剣城がボールを投げ始めた。


 狙いは剣城の近くにいた純を狙っている……ように見えるが、純が素早く避けるため、ボールは純に全く届いていなかった。


 再度ボールを生成して、剣城が投げる。今度も純を狙ったようだ。しかし、またもや純は素早く余裕を持って避けており、ボールが純に触れそうにもない。


 さらに、剣城が投げたボールを秀が操作して純を追尾してみせたが、もはやボールよりも純の方が速いようで、ボールが純に追いつく気配は全く持ってないのである。



「上坂先輩って、やっぱり足が速いんですね。……いやでも、いくら何でも人が投げたボールより速いってあります?」


「んー、日本代表の陸上選手でも、バスケ部員が全力で投げたボールより速く走るってのは無理だろうな」


「そうですよね。もしかして、上坂先輩はあり得ないくらい速く走れるような能力を持ってるんですか?」


「勘が良いじゃん。その通りだよ、純の脚元を見ればよくわかるぜ」



 弥一に促されて純の脚元を見ると、他の三人と違って、明らかに多めの光が純の脚を包んでいることがわかった。純の動きは、ただ走っているというよりはワープしているような現象に近い。


 光のように速く、人の目には残像すら見える。



「純は流星とか秀みたいにボールを派手に操ったりできないんだよな。でも陸上をやっていただけあって、身体能力を上げるのが得意らしい。ハンターの能力は、練習すれば誰でも好きなことができるかと言われるとちょっと違ってて、その人に合った能力ほど早く身につくらしいぜ。多分な」


「多分ですか?」


「スポーツとしての歴史が浅いから、そこまで研究が進んでねーんだよ。断言できるようなことは、そんなにないらしい。奥が深いってやつだな、俺はそういうの考えずにやってるけど」



 考えずにやっている、という言葉には妙に納得感があった。


 純の動きは素早く、どうしてもボールを当てることなどできないように見えたが、剣城と秀のチームもまた巧妙であった。


 投球にフェイントを混ぜ、さらに秀がボールの軌道を操作する。


 純の移動先に待ち伏せするように、あるいは少し油断した流星の隙を突くように、純と流星に食らいついていた。


 現実離れした巧妙な動きもそうだが、千雪が何より目を奪われたのは、コート上を駆け回る四人の楽しそうな表情であった。


 流星も秀も純も、新入生歓迎の建前など忘れて無心に試合を楽しんでいる。


 ずっと仏頂面である剣城ですら、少しでも気を抜けば負けるかもしれないような緊張感に、思わず笑みが溢れている姿が垣間見えた。



「やっぱり楽しいですか、ハンターって」



 思わず口から出たセリフに、千雪はハッとした。自分の声色があまり明るくなかったのである。無垢な気持ちで見学にやって来た一年生らしくはない、素直じゃない気持ちが声に現れていた。


 しかし弥一はそこに気づいてか気づかずか、特に気にすることもないような調子で答えた。



「楽しいなぁ。俺は楽しい。なんというか……実感が持てる感じ」


「実感?」


「俺、今、俺がやりたいことやってんなーって実感。別に普段の生活が楽しくないってことはないんだけど、ハンターやってる時はさ、俺の心と俺自身が一つになってく感じがする。俺こんなことやってていいんだっけ? って思うこともあるけど、夢中になっちゃうんだよな。……ちょっと変な回答になった?」


「いえ、そんな」



 わかる気がします、と言いかけて爽やかは言葉を飲み込んだ。自分がそれを弥一の想いを本当にわかっているかどうか、わからないからである。


 ただ、弥一が建前ではなく本気でそう言っているということは、千雪にもわかった。白い歯を見せて無邪気に笑うその顔が、どうにも眩しく感じられた。



「俺もこんなに夢中になると思ってなかったなー。中学生の頃は部活とかやってなかったし、ハンターやり始めたのも、試合に出る人数が足りないから助けてって言われたのがきっかけだったしな」


「え、中学生の頃は部活やってなかったんですか……? 何か運動は?」



 部活をやっていない生徒はもちろん多くいるだろうが、弥一のイメージとは合わず、千雪は思わず疑問を口にしていた。


 中学時代に全国クラスの運動神経を培ってきた二年生の三人に対し、あれほど圧倒できる人物が、ほとんど運動をやっていなかったとは考えられなかった。



「んー、俺ん家あまり裕福じゃなくてさ、仕事手伝ったり中学生でもできるようなバイトしたりしてたよ。早朝仕事とか。だから部活やってなくても、体力はかなりあったんじゃね?」


「は、働いていたんですね」



 大変だったんですね、と言って千雪は目を逸らした。



「ハンターを始める決意をしたのは、先生が自腹切ってシューズとか買ってくれるからっていう現金な理由だったなぁ。……とまぁ、きっかけはそんな感じだったけど、そのおかげで今はこうして楽しんでる。何があるかわかんねーな、人生!」



 そう言って弥一は豪快に笑った。


 コートの方でも、ちょうどボール権を持っていた流星が剣城の肩にボールを当てていたところで、流星と純がハイタッチするところが見られた。


 秀もまた笑ってボールを生成しており、ちょっと悔しそうな剣城にむかって「どんまい」とボールを差し出していた。


 その四人のやり取りが、少しずつ、少しずつ、千雪のなかで他人事ではなくなっていった。


 どこか遠い世界に見えていた景色が、近づいてくる感覚。


 自分と少し似た境遇の人物を目の当たりにして、そしてその人物が今ここで笑っているという世界に触れて、千雪の心臓の鼓動がどくんどくんと音を立てていた。



(どんなに楽しいだろう。あそこに自分がいたら。夢中になって。自分らしく。自分が楽しいと思えることだけに時間を使えたら。……母のことも、叔母の言葉も忘れて。他人の評価も気にせずにいられたら)



 しばらく千雪は考え込んでいたが、壁が震えるほどのブザー音で我に返った。


 流星と純が息を切らしながらも笑って肩を叩き合っている。剣城はその場に寝転がって、秀が剣城の様子を見て笑っている。試合は流星と純が勝利したようで、剣城が起き上がると四人は互いに握手を交わした。


 流星が観客に向かって挨拶を始めると、純はすぐに千雪の元へやって来た。



「どうだった? どうだったどうだった千雪ちゃん?? 私勝てたよー良かったー!!」


「凄かったです上坂先輩。とても……あの、速かったです」


「純の動きが速えから、ぶっちゃけあまり見えなかったってよ」



 弥一の冗談を純が信じてしまったことにより純が酷く落ち込んだので、千雪が必死に「そんなことないです」と断りをいれた。


 考え込んでいたのが原因であまり試合が頭に入っていなかった、という事実が純にバレないよう、千雪は純が格好良かったところをとにかく話してみせた。



「千雪ちゃんが楽しんでくれたなら良かったよ! なんか明治君も秀も結構マジでやってくるから、なんかもう、普段の練習みたいに必死でやっちゃったから。私たちだけ楽しんでて、千雪ちゃんに伝わってなかったらって不安だったんだよね」


「全然不安がることないですよ。とても楽しかったです。夢みたいでした」



 そう言って千雪は立ち上がった。


 まだもう少しだけ新入生歓迎のための説明があるような雰囲気を感じていたが、千雪は自分の荷物を手にした。純が何か言いたそうに、千雪の様子を伺っている。



「あ、千雪ちゃん……えっと、帰るのかな?」


「はい。今日はちょっと用事があるので、もう帰ります。それで、その……」



 館内がいくら騒がしくても、自分の鼓動は聞こえるものだということを知る。


 千雪は純の方を見て、すると少し恥ずかしくて目を逸らして……また純の方を見て、言った。



「入部手続きの方法だけ、聞いておいていいですか?」



 一瞬の間。


 そして次の瞬間には、純の甲高い声が何度も何度も千雪の名前を呼んだ。千雪ちゃん、千雪ちゃん、千雪ちゃんと、新たな新入部員を心から歓迎するように何度も呼ぶ。その様子が千雪にとっては恥ずかしくて、千雪の耳の先まで赤くなっていくのを、弥一が面白がって笑うのであった。


 しかしこの純の行動により、学園一の話題の美少女である千雪がハンターへの入部を決意したことが観客に知れ渡っていく。


 こうしてまた入部に一波乱を呼ぶことになることなど、純も千雪も、予想だにしていなかったのであった。


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