第五十七章『境界の此方』

 先輩たちが去った後、その寂寥感に入り浸る隙を与えず、片付けが待っていた。


「終わっちゃいましたね……」

「あっという間だったな」

「では気持ちを切り替えて、取り掛かりましょうか」


 そこを戻すのに然程時間はかからなかった。着火した後の花火のように沈黙した人々は騒ぎ立てることなく、深々として、草が揺れて擦れ合う音だけが響く。


「こちら、終了しました」


 小北と石見が飾りを外している所にやってくる。

 二人とも疲れ切った表情を隠すように微笑する。


「こっちももう少しで完了ですね……」


 不要になった未だ咲いたままの花々を袋に詰めながら、暗い面持ちで俯く。


「美咲先輩、まだ片付かないそうです」

「手伝った方が良いですかね?」

「いえ、先に解散するよう仰せつかりました!」

 

 いや、敬礼はいらないだろ。


「じゃあ、解散にしましょうか」

 いつもと変わらずその一声で四散する。

「私たちは真っ直ぐ帰宅しますが、来須さんはまだ残るんですか?」

「ああ、ちょっと休憩したらな」

 

 そして、以前と同じようにその場所へと出発する。




 最早自身の中で慣例となった休憩所での茶飲み。

 こうして心の乱れを鎮めてきた。そんな大層な悩みも無いのだが。

 正直、この習慣を欠かすと生活リズムが崩れるような気がして、不調になるからというのが真の理由である。

 一滴残らず飲み干したのを確認して塵箱に捨てると、背後から身に覚えのある気配、というより迫力を察知し、答え合わせをするよう振り向く。


「脅かさないでくださいよ、東先輩」

「すまないな。そんな心算は無かったのだが」

「それで、こんな大事な日に何の用ですか?」

「君たちは皆そういうことにこだわるのだな」

「どういうことですか?」

「ここに来る前に一応関わった人間には礼を伝えてきた。まあ、主に君たち文芸部と生徒会の生徒だ」

「成程、そうなんですか」

「君にも迷惑をかけたな」

「全くその通りです。まあ、御陰で事態が好転したような気もしますけど」

「そうか。なら私が謝る必要は無さそうだな。寧ろ称賛されるべきではないか?」

「調子のいいことを言わないでください。まあ、でも——」

「……?」

「有難う御座いました」

「急にかしこまられると気恥ずかしいな……」

「用はそれだけですか?」

「いや、二つ伝言を預かっている」

「二つですか……」

「一つ目は浅井からだな。『面倒事に巻き込んで済まなかった。文芸部員達の幸福を心より願っている』だそうだ」

「硬い、ですね……」

「もう少し私的な情を挟んで欲しかったが、奴にはこれが精一杯だろう。理解してやってくれ」

「は、はあ……」

「さあ肝心の二つ目は……堺からだ」

「へ?何故です?」

「まあ、聞きたまえ。『校門にて待つ』だそうだ」

「どういう意味です?」

「それは私がきたいくらいだ。まあ、大方推測が出来なくもないが」

「そもそもなんで堺が東先輩に伝言を頼むんです」

「それについても私は一切聞かされていない。別れの挨拶をした時、頼まれただけだ」

「何ですか、それ……」

「迷っていても仕方がないだろう。すぐ向かうことだ」


 元会長の言う通り、行かないと始まらない。善……かどうかは解らないが、急がねば。

 俺がその場を急いで立ち去ろうとすると、どういう訳か東先輩が呼び止めた。


「最後に君に頼みがある」

「な、何です?」

「明川を、生徒会を支えてやってくれ」


 善良で器の大きい人間は即決で頷くのだろうが、俺はどうもそういう気にはならない。

 だから曖昧な返事しか出来ない。こういう場合相手を安心させるべきだと知っていても。


「出来る限り協力はしますが、力不足だと思いますよ」

「有難う。今はその答えだけで充分だ」


 彼女が力強く頷き覇気を帯びたまま笑みを浮かべたのを確認すると、注意されることも恐れず、俺は全速力で走り出した。



「会長から聞いた。何だあの果たし状みたいな文は——」

「ちょっと付いてきて」


 俺は首を傾げながら、口をつぐんだ。堺の本気の目力に気圧けおされたからである。

 堺に腕を掴まれる刹那、一瞬身構えたが想像を遥かに下回る力で手を引く。

 まるで昔の彼女が戻ってきたような、懐かしい感覚だ。


何若気にやけてんのよ……」

「何でもない」




「ここは……」

「まだ、覚えていたのね」

「当たり前だ。訪ねるのは久しぶりだが……」

「じゃあ水を汲んでくるから」

「ああ」


 向こうは俺の顔を覚えてくれているとは思えないが、一応挨拶はしておくか。

 手を合わせて、これまでの出来事を伝える。伝わっているかは分からないが。

 暫くすると堺が両手で重そうに手桶を持ってきた。


「大丈夫か?」

「大丈夫に決まってるでしょ……!」


 付け足しておくとこいつは負けず嫌いに加え、意地っ張りでもある。

 恐らく定期的に訪れているだろうから、心配はしていないが。

 線香に火をつける。この独特な香りも数年ぶりだ。

 花を供え、石を磨く。

 そこに刻まれている名前を俺は知っている。いや知っている所の話ではない。

 とても関わりの深い人物だ。

 

 「堺 咲良」


「母さんが生きてた頃覚えてる?」

「優しい人だったな。あと案外子供っぽかった」

「あなたにはそう見えてたのね」

「どういう意味だ?」

「入院して何か月も経って、瘦せ細って、それでもあなたには笑いかけてたでしょ?」

「ああ。あの時は元気なんだとばかり思ってた。だが考えが甘すぎたんだな」

「仕方ないわよ。まだ小学校入学して間もない頃だし……」

「俺は訃報を聞いた後、全然会えなかったな。最期に立ち会ったのか?」

「ええ。正直一秒でも長く側に居られて良かったという気持ちと死を目撃してしまったという恐怖が入り混じっていたわ……」

「なんて言ってたんだ……?」

「最期の最期まで心配してお節介を焼いてた。でも結局『私のことなんか忘れて、あなたの人生を精一杯生きなさい』って……」

「間際でそんなことを言えるなんて、やっぱりあの人は凄かったんだな」

「そうね。なくなって初めて気付いた……」


 その言葉の後に途絶えそうにない沈黙が流れる。

 幼児退行したように理性というリミッターを外して少女は慟哭した。

 その石の前で地に伏せながら。幸い今の時間帯は人がいないようだ。

 俺は嗤うこともなければ、慰めることもせずただ影を薄くし、息を殺してそれを見守っていた。彼女は今までその過去と母親の死から眼を逸らしてきた。それが今、真正面から衝突し、受け止めようとしている。そこに俺の存在があるとかえって邪魔になる。だから、俺は不干渉を決断し、何もしようとはしなかった。


 十分ほど経って漸く彼女は涙を拭った。


「あんた、もうちょっと配慮できないの?」

「何の事だ?」

「知らないならいい」


 感情を思う存分爆発させた彼女には殆ど力が残っていないと見えた。

 いつもの彼女ならここで面を真っ赤にして鬼のようになっていただろう。

 どういう対応をすればいいのかと苦しむ。

 彼女はまだ上手く動かないであろう身体をさも平然と働かせ、何事も無かったと恍けるが如く微笑した。

 不安定な心持の所為でそれが最も不自然な行動だとは気づかない。

 畢竟ひっきょう俺はそれについて指摘はしなかった。そんなことに意味は無いからだ。

 よくよく考えたらこれでいいのではないか。

 母の望み通り彼女は一生懸命に生きている。

 そう思うのは俺だけなのだろうか。

 以前、彼女の母親に尋ねたことがある。



「なんでおばさんはそんなに強いの?」

「私が強い?ふふふ、そんなことないわよ。私はとっても弱いの」

 深刻そうな面持ちを誤魔化そうと笑い掛けながら言った。


「弱いから病気になっちゃったの。だから——」

「どうしたの?」

 言葉を中断して肩に手を乗せて続ける。


「——美咲をよろしくね……」

 懇願するように縋りつくように心に訴えかけた。

 涙は出ていないのに、とても悲しそうに見えて不思議だった。


「やっぱりおばさんは強いよ……」

 もう一度その言葉を繰り返すと、今度は先程より強い口調で断言した。


「そんなことない……!」

 強がっている子供のような眼で否定し続ける。そのさまは畏敬の念すら覚える程だった。


 彼女はまだ俯いて母親の影法師を探している。

 どんなに欺こうとしても、欺瞞ぎまんが完璧だったとしても、俺にはそれが嫌というほど感じられた。

 このままでは母の願いは叶わない。


「堺、これ渡しておくぞ」

「これって……返しのチョコ?気が早過ぎるんじゃない?」

「別にいいだろ。気分の問題だ」

「というかこれ、もしかして……手作り?」

「ああ、その響きはあんまり好きじゃないが、そうなるな」

「男が手作りって想像もつかなかったわ……」

「要らないなら、返せ」

「でもまあ、有難く貰っておくわ。無下には出来ないしね」


 変な慈悲を掛けようとしやがって……そもそも何で受け取る側がこんなに偉そうなんだ。

 自分から見返りを求めておいて。


「……ありがと」

「お、おう……」

 

 ぐっ……まずい。今更ながらこいつが女子高生なのを思い出してしまった。

 顔が赤いのはきっと夕日の所為だ。少しも寒くないのは……何故だろう。


「……美咲」

「……⁉」


 その名前を呼んだのは何年振りだろう。

 間が空きすぎて恥ずかしさすら込み上げてくる。

 彼女は驚いた様子で何か捲し立てようとしたが、俺の表情を見てそれ以上反応しなかった。

 この言葉が彼女と彼女の母親が望んでいたものかどうかは分からない。

 しかし、もう他に手が見つからないというか、ここまで来たらもう後には引けない。

 俺は数秒間躊躇い、漸くその一言を絞り出した。

 音の無い世界にその声が響いた。

 きっと後でのた打ち回ることになるだろう、軽く死にたくなるだろう。だが一方で「よくやった」と過去の自分を褒め称えるだろう。

 それ程にこれは大きな一手、というより一歩である。

 目の前の幼馴染は幼さをまとった無邪気な笑みを浮かべた。

 まるであの頃に戻ったような心地だった。

 固まった俺の手を握って、考えた末に答えを出した。


「はい……!」

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