第五十五章『ヴァレンティヌス』
あれから
最近一段と空気が澄んで、ひんやりとしている。
しかし、今日だけは
「来須君、今年は覚えているようですね」
「ああ、出来れば忘れておきたかったがな」
「期待を裏切られたくないからですか?」
「去年有っても今年有るとは限らないだろ」
「慎重なんですね。男子高校生たるものもう少し浮かれたり血気盛んになっても良いと思うのですが」
「そんな痛々しい真似が出来ると?」
「無理ですね。僕も来須君も」
果たして俺とこいつは誠に高校生なのだろうか。
こんな日に彼らははっきりと二分されるらしい。
期待が外れて
それがバレンタインデーの掟、らしい。
「こんにちは」
「どうも」
その扉を開く勢いはいつもと変わらず。ただ心だけがどう振る舞うべきか迷いを生じさせている。
「あ、二人とも来ましたか」
「では、これをどうぞ」
そう添えると大きな袋を渡される。
「これは?」
「皆さんのを纏めておきましたので」
「他の皆さんはどちらへ?」
「石見ちゃんと柳ちゃんは他の人に渡しに行きました。堺さんはまだ来ていません。白河さんは——あちらに」
神楽が指さす先には古より存在するストーブとコンパクトサイズに
「お前も相変わらずだな」
「寒さには打ち勝てぬ我不甲斐なし」
神楽によるともう三十分近くこうしているらしい。最早いるのかどうかも怪しいレベルだ。
「これ、ありがとな」
「気にするな礼には及ばぬ代わりには」
礼を言うぐらいならきちんと返せと言いたいらしい。現金だと思わざるを得ないが、言い分はご
「来須君も成長したのですね」
「黙れ、俺はちょっと飲み物を買ってくる」
「では、僕のもお願いします」
「断る」
——そう言い返したが、ここで自分の分だけ買って戻るのも子供の嫌がらせのようで、結局適当に押してしまった。
当然後で代金は請求する。極力他人の為に金を費やしたくはないからな。
飲料容器を両手に持ち、寒さに凍えてのんびり歩いていると以前見たような光景が。
部室のドアの前で女子生徒が深呼吸している。
こんな日に何か用だろうか。
「あの……」
「ひぇ!」
彼女は驚きのあまり引っ繰り返りそうな勢いで後方に飛び跳ねた。
矢張り俺の影が薄いのが原因なんだろうか。だとしたら改善しようもない。
「すみません、毎度毎度」
「いえ、こちらこそ。お忙しい中すみません」
相変わらず礼儀正しい。
未だにこういう対応をされるのは俺の落ち度なのだろうが、好印象の反面寂しくもある。
恐らく文芸部と生徒会では住む世界が違うのだろう。
彼女から少し神楽と東先輩を足して二で割ったような匂いがする。
どんなに近づいて行っても押し戻されているような、雲を掴むようなそんな手応えの無さを感じる。
「……」
挨拶の後大きな間が空き、動きがぎこちなくなる。
「うん?」
「こここれ、どうぞ……」
差し出されたそれは世間的には当たり前に思えるが、俺としてはかなり意外なものだった。
「あ、有難う御座います……」
「ど、どう致しまして……」
一瞬時が止まったのかと錯覚した。俺たちがそれきり暫く動かなかったためである。
こんなときどうしてよいか分からない。今まで気にしたことのない意識がせり出てきた。
そう女子高生と話しているという感覚である。今の今まで忘れていたというか、実感できなかった摩訶不思議な圧力であった。
真っ直ぐに見つめている。
「あ、もう一つの用事を忘れていました」
「他にも何か用が?」
納得してその内容を尋ねる。
「私次期生徒会長を務めさせて頂きます‼」
敬礼しながら声高く叫ぶように宣言して見せる。
「え⁉」
俺の反応も思ったよりオーバーになってしまった。
その反応を見てはっとして、途端に恥ずかしがり始める。
「矢張り地味な私にはそぐわない大役だったでしょうか……」
「いや、そんなことは……」
これは……応援すべきなのだろうか。いや、決定事項だが。
確かに真面目で働き者、客観的に見てかなりの魅力を兼ね備えている。だが、俺にはこんな純真無垢であえかな彼女を公衆の面前に押し出すことは出来そうにない。そこはかとなく不安が募る。
彼女は少し潤んだ眼でこちらを見上げている。この瞳に吸い寄せられたからか俺の口は勝手に喋り出した。
「明川さんなら出来ます。頑張ってください……!」
「はい!」
何ともまあ、ちっとも論理的でない綺麗事を語ってしまった。
「ありがとうございます。来須さんの御陰で自信が湧きました!」
「それは良かったです……」
「では、失礼します」
何やら思い立ったように淑やかには程遠いスピードで去ってしまった。
部に用事があったのでは……まあいいか。
こんな時でも早歩きとは正に生徒会の鑑である。
「さて、そろそろ戻るか」
彼女の異様な変化に目を皿にしながらも、どこか嬉しく感じる自分がいる。
俺はペットボトル二本と小さくも中身の詰まったその箱を抱えてゆっくりと歩き出した。
「あ、ご苦労様です、来須君」
「お前なぁ……」
こちらに背を向けているにも関わらず最初から見透かしていたかのように、予め偉そうな言葉を吐く。
掌の上で踊らされていたということか。憎たらしい。
こちらは端から高度な心理戦を仕掛ける心算は更々なかったのだが。
「ほらよ」
「サイダーですか……」
「文句言うな。癖で買っちまったんだよ」
不満気な態度の小北は放っておき、小箱を密かに鞄へ仕舞う。
今日は珍しく人が少ない。
一段と寂寞としているその部屋は夕暮れまで賑わうことはなかった。
結局最初のメンバーからほぼ変わらず、赤い日光が窓から差し込み始めた。
あったことといえば完全に忘れ去られていた但馬が途中で来たことぐらいか。
「では、もうそろそろ」
「解散にしましょうか」
他の自由な奴らは気にせず、部室に残留していた俺たちは長時間のフリータイムの末にやることが無くなり、何と言うこともなく散らばった。
「帰るとしましょう」
「いやいや、何故お前と帰り道も一緒なんだよ」
「まあ、
「あのなぁ……」
そこで唐突に着信音が鳴る。ここ暫く聞いていなかったためか、異常に慌ててしまった。
ブルブルと振動して持ち難い。
発信元は……堺?
「もしもし、何の用だ?部活にも来ないで」
『屋上に来て』
プッツン
切れた。一言だけ告げて切るのならメッセージかメールでいいだろうに、態々電話をかける意味があるのだろうか。
今まで以上に不可解な行動である。やっと輪郭が浮き出てきた気がしていたのに、また引き離されたようで無駄だったのかと自問自答したい気分になる。
「間違い電話だったんですか?」
まあ、この短さじゃ普通そう思うよな……
「小北、先に帰ってろ」
「来須君は?」
「ちょいと呼び出しを食らった」
一目散に駆け出したため、奴の表情は見えなかったが、どんな顔をしているかは想像に難くなかった。
もうここに何回訪れたかカウントするのも面倒だ。
この敷地内で最も空に近く、人気もないという何とも理に適った場所である。
そしてまた、その門を開く。今日はとても重い気がする。
そこを開け放つと同時に突風が吹きこんでくる。
歯を食い縛りそうになるほど体中がひんやりと冷えて鳥肌が立つ。
半ばブリザードのような荒れた風に耐え、瞼を上げると向こうに北風に靡く彼女が映る。
ただ一つ彼女が平生とは異なっているということだけは察しがついた。
「何故電話したんだ?一言だけならメールとかで良かっただろ」
「何となく、したい気分だったのよ」
返された声のトーンは予想をはるかに超えて明るく、優しさすら匂わせる程であった。
それに加え眼に一点の曇りもない。淀みも濁りも無く透明な心を映し出す。
俺はとうとう幻が見え始めたかと思う程に、目も鼻も口も耳も信じられなくなった。
「堺……?大丈夫か?」
「何よ、急に。あんたに心配されるほど私は
良かった。目の前にいる人は矢張り幼馴染の堺美咲のようだ。
しかし、丸い。丸過ぎる。河原の小石のようである。
不機嫌なら呆れて愚痴を零し、優しく接されたらされたで戸惑い訝しむ。
一体俺は彼女に何を求めているのだろうか。
「一応これを渡しておくわ」
「あ、ああ……ありがとな」
表情筋の動きが定まらない。こんな時どういう顔をすればいいのか、俺の人生における浅い経験から導き出すのは困難を極める。
俺の微妙な反応を見て、堺の調子が少し戻る。
「何よ、その顔は」
「いや、二回目なんだが未だに慣れなくてな。気を悪くしたなら謝る」
「別にいいわよ、器の小さい人間にはなりたくないし」
何と言うことだろう。今の彼女の心はひょっとすると洋々と広がる大海原なのかもしれない。
「じゃあ用事も済んだし、帰るわ」
「分かった。日も落ちてきたから気を付けろよ」
「ふふ。あんたからそんな言葉を掛けられるなんて夢にも思わなかったわ」
「俺も驚きっぱなしだ」
扉が
そしてそれが物陰に完全に隠れた時、その方向から声がした。
「返し期待してるわよ」
「そんなにプレッシャーをかけるな」
俺も珍しく明るい声音で返すと満足したように気配を消した。
今日はとても奇妙な一日だったが、俺の心臓はいつにも増して高鳴っていた。
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