第三十八章『聖域の記録』

 幻想的な湯煙が視界を覆いつくす。

 心なしか清められていく気がする。

 桶が床にこつんと当たる音にさえ、風情を感じる。


「うわ~!広いですね」

「温泉旅行からもう一年も経つのかぁ……」

「何の事ですか?」


 ああ……そういえば一年生と美海先輩は知らなかったんだっけ。

 日月逾邁じつげつゆまいを実感する。もたもたしていては全部手遅れになるのだろうという静かな焦燥に駆られる。


「はぁ~極楽、極楽」

「何かお婆さんみたいですね」

「それ、褒めてるんですか~?」


 和やかな団欒だんらん、平和な会話。

 その一つ一つが掛け替えのない時間を形作っていく。


「ユッキー、まだなんか計画してるの?」

「フッフッフ、まだ秘密だよ」

「大丈夫……?」

「大丈夫だよ、石見ちゃん。これで平常だから……」

 何か良からぬことを企んでいそうな笑い。目立つのでやめましょうよ。


「楽しみですね!」


「え……」

「私も同感です!旅にデンジャラスは付き物ですしね」


 え、そうなのか。

 うーん、危機感を覚えているのは私だけなのか……

 仄かな疎外感を感じつつ、白河の方を一瞥。

 完全にリラックス状態。動かざること山の如し。

 体の芯まで温めたことを確認すると、一同は屋外に向かった。

 所謂露天風呂。今日はあんなに雨が降っていたけれど。

 あの凄まじい雷が嘘のように、雲が消失していた。


「綺麗ですね~」


 沈々とした大空に懸かる月。その周りを彩る星々。

 都会で観測していたのとは、まるで別物。第何等星まで見えているのか。

 そんなことに現を抜かしていると、どこからか声が聞こえてくる。

「柳ちゃん、何やってるの?」


「しーっ……!気づかれちゃいますよ」

 ふと目をやると、石見と柳が壁に耳を当てているのが見える。

「面白そうですね……」

「皆やるなら私も」


 夜遅かったこともあって、幸いにも他の客はいない様子。

 完全に不審者じゃないか。

 かく言う私も聞き入っていたのは恥ずべき失態だ。


「素晴らしい景色ですね~。そう思いません?」

「そうだな。お前と考えが一致するのは癪だが」

「二人とも、いつもこんな感じなんですか?」

「あーそうだな。だからそんなに気にすることじゃないぞ」


 旅行に来てるっていうのに、こんなにも平常運転とは、逆に感心する。


「そういえば、まだ聞いてなかったんですけど、三人は人間関係のほどは」

「というと?」

「ご友人とか、こ……恋人とか」

「いないな」

「いませんね」

「いる筈もないな」


 即答か。何とも恥知らずというか正直だ。

 そっか……


「それじゃ……好きな人とか……」

「ないですね」

「有り得ない」

「嫌いな人間なら無数にいるんだがな」


 どれだけネガティブ思考なら気が済むんだ。

 そんな会話を聞かされているにも関わらず、誰もピクリとも動かないとはどうしたことだ。


「じゃあ、せめて好きなタイプとか……」

「「性格が良い」」


 漠然として限りなく零に近くて、それでいて単純な共通項。

 身も蓋もない。


「じゃあ、そろそろ出るぞ」

「ですね、指がふやけてきました」

「そうするか」

「あ、ちょっと、待って下さい!」


 傍聴していた会話が途切れると、こちら側では暫しの沈黙が流れた。

 とても居心地の悪い感覚。一体どうしようか。


「私たちも出よっか」

「「はい」」


 そうして滑って転倒しないように足早に風呂場を後にした。


      *******


「ふわぁぁ~」

 眠い。


「それならさっさと寝ろ」「何なら永眠しておけ」と野次を飛ばされそうだが、今夜は少しばかり用事があって、布団へのダイブもお預けだ。

 対話といっても字面だけ。相手の姿は不可視。


『それで?何の御用ですか?』

『例の件は?』

 やはり閑談をしている暇はないらしい。何か聞き出せると思ったんだけど。

『それなら、現在調査中です』

『了解。では完成でき次第送信せよ』

                 

 無機質な命令口調で受け答えをしているのを見ると、多分正体がばれるのをおそれているのだろう。

 スマホの電源を切ると、僕はほっと息を吐いた。

 相手の名前は「CPU」となっていた。

 イニシャルは三文字にはならないから、何かの略か、語頭三文字か。

 気を紛らわせるのに丁度いい。

 苦しげに微笑を零した後、俺は口をつぐんだ。

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