第三十四章『Someday in the rain』

 小北と別れた後、俺は半ば闇に吞まれた敷地内を徘徊していた。

 さあ、出口は何処いずこに。

 小北に聞けばよかったなどという情けなくも憤ろしい愚考は焼却炉にて、焼き滅ぼした。

 まあ、要約すると……迷ったのか。

 俺は方向音痴ではない。だが、流石に初めての土地では縦横無尽に動き回れない。

 泣きっ面に蜂というのか、携帯も電池がない。

 日頃使用機会が殆どこれと言って無かった所為か、充電を怠った。

 いや、きっと明日までには帰れるさ。

 何の確証もない。そもそも希望の光の一筋、蜘蛛の糸一本すら未だ発見ならず。

 そう大袈裟にがっかりして、神の救済でも待ってみようかと思った時、目に飛び込んできた、見慣れたその容貌を何度も我が瞳は拡大鮮明化する。


「さ、堺……?」

「ん?何であんたがここに居るの?」


 俺を蛇蝎の如く嫌うそいつに助けを求めるというのも、背に腹は代えられぬと恥を忍んだからであることを宣言しておく。

 しかし、その反応はいつものような勢いが感じられなかった。

 それでも、心の正負は若干マイナスのようだが。

 思えば、こいつとの間にいつ軋轢が生じたのか、よく覚えていない。

 元々馬が合わなかったのでは、と言えばそこまでだが。


「お前こそ、何が悲しくて観覧車の正面にいるんだよ」

「別に……」


 なんとも曖昧だ。

 こいつに求める物など何一つないから、納得のいく受け答えがなくてもどうということはない。


「観覧車ねぇ……」


 知らないうちに呟いた。鮮明とはいかないが、一応記憶している。

 子供のころは、夢に心躍らせ、何に対しても興味を持ったものだ。

 かつての堺も多分、普通の少女だったのだろう。一体何がそれをここまで堕としたのか。

 俺には知る由もない。


「ちょっと……」


 その一言の意味を探る前に、俺の体躯は確保された。

 さあ、これから何処に連れていかれるのか。もしかすると既に俺はこの時、薄々感づいていながら、最も確率の低い事象として切り捨てていたのかもしれない。




 突然だが、俺の中に宿る全ての人格に問おう。

 なぜ、俺はこんな密室にいる。

 どうしようもなく、気まずい。相手の意図が俺の理解する範疇を越えているためであろうか。

「……」

「……」

 沈黙、静寂、粛然、深閑。

 どんな言葉を並べても、その空洞は収まる気配がない。

 マインドスポーツでもしているかのように、対峙していても対話がない。

「待った」も「王手!」も「チェックメイト」すらもない。

 遥か下の夜景はこんなにも煌々としているのにだ。

 空も海も暗くなって、世界が天地無用を忘却して、うっかり逆さにしてしまうのではないかという位、区別がつかない。


「で、なんだ?何か要件があるんだろ」

 出来ることなら、ずっと無言でいたかった。だが、それでは一向に事態が進まない。


「あんた、いや——零士」

「……⁉」


 面食らった。そりゃあ、自分の事を忌み嫌ってる奴から、名前で呼ばれれば、誰だって同様の反応をするだろう。


「いつまで、引き摺ってるの?あれからもう結構経つのに」

 何を言っている?さあ、俺にはさっぱり、心当たりがないな。

 突如として、呼び起されたその録音データには、幾つものナイフが仕込まれていた。


『人殺し!』

『君には絶望したよ』

『何故、生きているの?』

『悪魔が人間の振りをするな!』

『死んでしまえ』

『神の裁きを‼』

『所詮君は殺人者だ』


『ごめんね。もう君と同じ世界には生きていられない。だから、さよなら』


 頭蓋骨が割れそうだ。脳が破裂しそうだ。

 痛くて苦しくて辛い。もういっそパンドラの箱へと幽閉したかった。

 これは自分にとって足枷にしかならない。そう判断して我の脳は忘却という防衛方法を取った。


「ぐぁぁ……!」


 俺は鬱のように地に伏した。

 その時、堺は何も言わなかった。

 その心情は解りかねるが、らしくない顔をしていたのは見ずとも読み取れる。

 一周するまで、視線が交わることはなかった。


    ***********


 ずっと考えていた、待っていた。彼が元に戻るのを。

 しかし、そんな日は来なかった。

 暫し思い出に浸るとしよう。


 あれは中学三年生になったばかりの頃だった。

 今じゃ想像もできないが、私は彼と登下校を共にしていた。

 家も近かったし、自然な流れだ。

 その当時、彼は五本の指に入るほどの秀才で、優等生だった。

 羨望の的となって鼻が高かったのは、本当だ。

 ただ少し寂しくもあった。皆に憧憬の念を抱かれ、毎日大衆の中心で静かに笑っている。

 そんな時、あの事件が起きた。

 彼を快く思わない輩もまた多数いたのは隠しようがない。所詮、嫉妬と憎悪にまかせて力を振るうような野蛮な雑魚の集合体だったが。

 勿論、彼は奴らを軽蔑の眼差しで一瞥して、余裕綽々で払い除けた。

 それぐらいならまだ良かった。不良ども相手に一騎当千するご都合主義的な武勇伝で終わっていた。

 彼には友人がいた。親友だったらしい。

 私も何度か顔を合わせたが、気弱ながらも正義感の強い青年だった。

 これ以上は……詳らかに説明しなくとも予想がつくだろう。

 そう、彼の友人はその集団の虐めによって、自殺まで追い込まれた。

 厳密には、自殺未遂で生きていたのだが、ずっとベッドに張り付いたままだった。

 私が屋上に駆け付けた時には、彼は青褪めて、汗をかき、魚のような焦点のあっていない瞳を回転させて、墓から這い出た屍のようにフラフラと歩き回っていた。

 私は驚愕して膝から崩れ落ちた。

 礼儀正しく揃えられた上履き。

 踊り狂う青い死体。

 喚き散らす有象無象。

 地獄絵図だった。悪夢にうなされているのかとさえ思った。

 犯人たちが追放されても、状況は好転しなかった。

 彼は己の正義を過信し始めた。

 悪人と思しき生徒を片っ端から、打ちのめし、従わせた。

 一部では称賛する声もあったようだが、エスカレートするにつれて雲散霧消した。

 取って代わる様に非難を浴びせた。しかし、彼はそれにも動じなかった、いや耳に入っていなかったのだろう。もう彼の世界には自分自身しか居なかったのだから。

 事件のほとぼりが冷めてくると、奴らは面白がって彼をこう皮肉った。

『英雄』と。




 水無月に入ってからというもの、五月雨は姑息に襲撃しては逃走を繰り返している。

 こんな時期にはしゃげるのは、幼稚園児位なものだ。ただ、俺はその光景を高校内で見ている。

 そいつは至って元気。これがアンチエイジングというやつなのだろうか。

 そろそろ戸籍の年齢を五つほど下げた方がいいんじゃなかろうか。

 そんな奴は決まっている。神楽である。

 一体こいつの心はどこに在るのだろうか。子供の如く全身全霊で楽しみ、裏では毒針を突き付けて。

 そんな迷宮入りしそうな謎に手を付けるのは止めておこう。さもなくば、寝首を掻かれかねん。

 まるでアライグマのようだ。


「あ~雨ですよ~!あの、来須さん、聞いてます?」

「んあ?あ、ああ……」


 うっかり現実を疎かにしてしまった。ずっと考え事をしていると、魂、心が解放されている気分になる。自分をまるで他人のようにとらえてしまうのだ。

 説明が下手くそでどうしても拙くなるが、それもこれも独り身の名残、大衆社会に生きることの弊害だ。

 他人と言えば、今のこの状況も客観的に目にしたならば、必ず変に感じるだろう。

 黒い傘と水玉模様の傘が並んでいる。

 雨粒は順に地上に投下されていく。俺たちを意にも介さず。

 雨は車軸を流し、地上のものに平等に恵みを下賜かしする。

 アスファルトのくぼみに発生した巨大な池は水面を揺らめかせ、花鳥風月を匂わせる。

 彼女はそれを避けて飛び越えていく。だが、折角足元に気をつかっても、上着に水滴がついてしまっている。


「すみません、急に付き合わせてしまって」

「暇だから構わんが、今度は何をしでかすつもりだ」

「何も。ただ、生徒会について来須さんは全くの無知なようなので」

「それは、まあ興味が無いからな」


 実際、元来人間というものは自分の知りたい知識だけを引き寄せる習性があり、それ以外のことは無頓着で手を付けない。

 我らには無差別に情報を得る手段が必要なのだ。これがテレビやラジオが未だに存在する理由ともいえる。

 そうした知見を得ているからこそ、俺は開き直って身勝手に生きることにしたのではないか。


「そもそも会長と副会長をご存じですか……?」


 神楽があわれみの視線を向ける。回答が分かりきっている質問をしないでほしい。


「知らん」

 正直に答えた。当然呆れられた。

「副会長は浅井定治という眼鏡の頭脳派の男子生徒です。成績は優秀ですが、性格に難があるようで……屡々底辺を刺激しているとか、血気盛んな阿保どもを挑発しているとか。黒い噂は絶えませんね」


 何かどっかで聞いたような気もするが……気の所為だろう。

 公園内の四阿で雨宿りをしているその最中、俺は神楽から部員達よりもヤバそうなその人物たちについて聞かされた。


「会長の方は東紬です……というか何度も目にしていると思うんですが」


 彼女が狐のように細目をするのを凝視しながら、期待通りの言葉を返してやった。


「さあ……?初耳だな」


 恍けているのではない。単純に記憶されなかっただけだ。そう脳の所為にする。


「話を続けましょう……彼女の方は傲慢で残虐だと聞き及んでいます。尤も中々尻尾を掴ませてはくれませんから、その辺は謎に包まれていますが」


 それが真実だとすれば、この学校はその女王に支配されているといっても、過言ではない。

 校長はあの仏頂面だが、意外と放任主義だからだろう。

 何故、そう言い切れるかって?かの文芸部(仮)、楽エン部が存在していること自体がその証拠だろう?

 さて、行き過ぎた自由が何を齎すか。それは個人個人で考え方が変わってくるのだが、最悪のシナリオとしては、何もしないことを選択することにある。

 単に自由権を与えられているだけなら、これは起きにくい。

 しかし、現代はどうだろうか。社会権を筆頭としたものが複雑に絡んでくるじゃないか。

 もしかしたら万人の闘争が勃発するかもな。


「いずれにせよ、接触は避けたいですが……無理でしょうね」

「どうしてだ?」

「きっと、潰しに来ますよ。ここを」

 

 神楽は何か俺の知らぬ領域を既知であるかのような口振りで、予言した。

「——」

 その先は雨音で阻害され、耳には届かなかった。

 けれど、彼女が先程より暗い面持ちになったことははっきりと読み取れた。


         **


 さて、僕が未だ仲間に秘密にしている機密情報について、記しておこう。

 それが真かどうか、僕には判別する術がないが、何となく解る。これは冗談ではない。

 もし嘘だとするならば、自分も舐められたものだ。

 これでも元……やはり止めておこう。自慢にもならない。

 一つ解ったのは、生徒会が部を潰そうと動いていること。

 そして、もう一つは、この部の実態についての記述だ。

 今更、舌を巻くほどの事ではない。薄々分かっていたことだ。

 問題はこれを他の人間に教えるかどうかという点だが……

 一先ずは胸の中にしまっておこう。今、自分がこの事実を告白したところで、混乱を招くだけだろう。パニックまではいかなくとも、余計な悩みを増殖させるだけだ。

 

 それに、彼らには自ずからこれに辿り着いてほしい。そうしなければ、きっと僕らはいつまでも腫物のように扱われ、保護されながらも忌避されたあの頃に逆戻り、いや実際現在も止まったままかもしれない。

僕らの先にあるものを形式的な未来ではなく、個人的な将来へと変えて行けたなら。

幾分かその方が素敵だろう。

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