第34話

 叔父さんの言うとおり、僕はまだ子供だった。

 責任を負うという決意もどこへやら、結局は姉と大喧嘩をしてしまったのだ。いや、僕だって我慢して、誠実に対応しようとしたのだ。だけど。

「ハルの世話が嫌になって、わざと逃がしたんでしょう!」

 姉の一言に僕はぶち切れてしまった。姉が仕事で居ない間、ハルの面倒を見ていたのは僕だ。普段だって姉はハルを可愛がりはするが、お風呂や注射など、ハルの嫌がる世話は僕に任せっぱなしだった。なのにそんなことを言うなんて許せない。

 仲裁しようとする母と叔父さんの言葉も聞かず、僕たちはつかみ合っての言い合いを始めてしまった。もし父が帰ってこなければ、どちらかが手を出していたかも知れない。

「大変だ」

 帰宅した父は僕たちの騒ぎを完全に無視して言った。

「お隣に泊まっていた娘さんの行方が分からないらしい」

 仕事用のカバンを放り出し、ごつい懐中電灯を棚から出した。

「手伝ってくれ。まさかとは思うが事故か、ひょっとしたら」

 僕は昼間の出来事を思い出した。心が暗転する。もし、もしもあの人が自殺したのだとしたら。最後に会ったのは僕ということになるのではないか。


 彼女に向かって出ていけと言った僕が。


「分かりました」

 そう言って叔父さんが懐中電灯を掴む。

「君たちも、用意して」

 くそ。一種の誤魔化しだとは分かっていたが、その提案を拒否することは出来なかった。喧嘩は中断となり僕と姉も外に出る準備を始める。そのとき、叔父さんの携帯が鳴った。

「はい。ああ、済まない。今、取り込み中で・・・・・・何?」

 叔父さんの表情が変わる。

「済みません、テレビを点けてください。ニュースを」

 携帯を掴んだまま母に言う。

「ああ、分かった。確認したら直ぐまた連絡する」

 母がリモコンを操作する。目に飛び込んで来たのは、目の部分にモザイクがかかった女性だった。姉が驚いた声を上げる。

「うそっ! ハル?」

 女性が胸の前に掲げたペット用ゲージに入っている猫。それは間違いなく、うちのハルだった。

 画面の女性が語り出す。

『島では次々に猫が捕まっています。島の人達は、自分達が犯した間違いの責任を罪も無い猫に押しつけようとしているんです』

 見覚えのある声と姿。着替える間もなかったのだろう。服装もあの時のままだ。

 語っているのは間違いなく、あの彼女だった。

『このままではこの猫も捕まり、最後には殺されてしまっていたでしょう。私はそれを防ぐために島から脱出しました。お願いです。私の声を聞いて、猫たちを助けてください』

 彼女の画像が背後に下がり、音声がスタジオに切り替わった。

『先ほどネットに公開された映像です。真偽は不明ですが、事実であればウイルスに感染した恐れのある人と猫が島の外に出たことになります。県は警察、消防と連携の上、事実確認と映像を流した女性の行方を捜しているとのことです』

 それが何を意味するのか、僕たちは即座に理解した。


――――――


 展開は急速だった。

 知り合いからの情報が流れたのか、ネット上では瞬時に個人と住所の特定がされ、映り込んだ僅かな背景から捜索すべき範囲が絞り込まれる。

 SNSでは「ヤツを探せ」なるタグが大流行し、リアルタイムで女性を捜索する映像があちこちで流れ始めた。

「そうだ。ああ。分かっているだろう。あんな連中が最初に彼女を見つけてみろ。ネットにリンチ映像が流れることになりかねないぞ。理由? 感染防止と本人の安全確保でいいだろう。彼女だってネットの騒ぎは見ている筈だ。こちらが水を向ければ、怖くなって自分の側から自発的な協力を申し出るに決まっている。いいからお前の権限で独断しろ。法律上グレーのラインまでなら、立場が悪くなることは絶対に無い」

 叔父さんはあちこちの【知り合い】に電話を掛けまくり、おそらく外には決して漏らせない類いの【相談】を続けていた。

「まったく、緊急事態においては電話の優秀さが良く分かるな。直接回線を繋いで相手を拘束出来る。この即応性は他に代えがたい」

 一通りの連絡が終わったのか、携帯を胸のポケットに戻して台所に向かう。ミルにコーヒー豆をざらざらと注ぎ込む叔父さんに僕は声を掛けた。

「叔父さん、少し聞いてもらいたいことがあるんだ」

「聞いただろう。島の外にウイルスが渡ったのではないかと日本中が大騒ぎだ。あまり時間は取れない」

「そのコーヒーを淹れる間でいいから」

 叔父さんは軽く頷き、ガス台の火を点けた。中火にしてからやかんを乗せる。

 僕は昼間のことを叔父さんに話した。あの女性に会ったこと。海辺で会話したこと。そして、この島から出ていけと言ってしまったこと。


 彼女が繋がれていたボートの一艘を盗みだしたことはもう分かっていた。

 対岸に捨てられたそれが見つかり、ネットでは既に移動経路の推測を公開している人までいる。

「僕があんなことを言ったから、あの人はボートを盗んで島から出たのかもしれないんだ」

 ウイルスを島の外に出した責任は僕にあるのではないか。暗い気持ちでそう語る。それ原因で沢山の、何百万匹もの猫が死んでしまうのかも知れない。僕は自分がしでかしたことの大きさを考えて震えていた。


 なのに話を聞いた叔父さんは、丸っきり子供を見る目つきで軽く言う。

「責任感を持つのは基本的に悪いことではないが、余りに過大な責任が自分にあると思い込むのは、自己に対する過大評価と同じだよ」

 その言い方に僕はかっとなる。

「何だよ、僕は真面目に考えて! 叔父さんみたいな政治家の秘書は、責任から逃れるのが仕事なのかも知れないけどさ」

 叔父さんは火を止めて、やかんを持ち上げた。

「一つ聞いておきたい」

 湯を注がれたコーヒー豆が泡立っていく。

「君は本気で、これまでこの島から誰も外に出ていないと思っているのかい?」

「ど、どういう意味?」

「この島にどれだけ船があると思う? 碌な監視体制だって無いんだ。夜陰に乗じて海を渡り、どこかで一杯引っ掛けて帰ってくるような不心得者はこれまで何人も居ただろう」

 まるでそれが何でもないことのように。表情も変えないまま慎重に湯を注ぐ。

「アングラサイトを見れば、この島に希望の物品を届ける業者を何人も見つけられる。時折、この島では入手出来ない筈の品を見掛けることもあったしね」

 言われた僕はふと思い出す。院長の息子が持っていた携帯。まさか、あれは。

「そもそも考えてみてくれ。最初の患者が見つかるより前に、この島でウイルスが広まっていた可能性は高い。だとすれば感染した人の行き来は既に行われていたことになる。この島が封鎖されているというのは単なるイメージなんだ。今まで上手く誤魔化せていただけで、きちんと調べれば穴だらけだったことは直ぐに分かってしまう」

 叔父さんはやかんをガス台の上に戻した。

「覚えていないかな? 君自身だって、島の外にウイルスが流出する可能性を指摘していたんだけれど。少なくとも、君がこの島からウイルスを流出させた唯一の原因だということは有り得ないよ。その点は保証しても良い」

「でも、でも。知っていて対策しなかったの?!」

「無意味だからね。私はタイムマシンを持っていないから、過去の出来事は変えられない。監視の船を増やすことは可能だったかも知れないが、この国の法律では自粛の要請しか出来ないんだ。結局は突破され、それを公式記録に残すことになってしまうだろう。その方が面倒が多いから、形ばかりの警備でお茶を濁していたのさ」

「どうして教えてくれなかったのさ!」

 そんなことも知らされず真面目に悩んでいた僕たちは、まるでバカみたいじゃないか。

「教えたらイメージが崩れてしまうからね。守りたいのはそれなのに」

 あまりの話に僕は絶句する。

「県や厚労省でも時期を見計らってはいたんだ。だけど島の外にウイルスが流出している可能性を認めて、本州側でPCR検査を始めれば色々と厄介な追及を受けざるを得ない。責任を取ってくれる偉い人が見つからなくて、ずるずると引き延ばしになっていたんだ。予測できなかったからではなく、決断できずに後手を踏んだというパターンだね。まあ、どちらにしても結果は変わらないんだが」

 なんてことだ。

 僕は政治家やその秘書、お役人という人々を二度と信じないと心に決めた。


 叔父さんの携帯が鳴った。

「うん、ああそうか。分かった。頼むよ」

 手短に話を終えると僕に視線を向ける。

「警察が彼女を保護したそうだ。この家の猫も一緒に」

 僕はハッとして声をあげる。

「ハルは、ハルはどうなるの」

「先日の事があるからね。ここまで注目を浴びている案件で猫を駆除してはイメージが悪すぎる。ちゃんと保護することで話が付いたよ」

 叔父さんはコーヒーサーバーを持って自分の部屋へと向かっていった。僕はその後ろ姿を見送りつつ考える。様子からして、叔父さんはあらかじめハルのことを交渉してくれていたのだろう。


 ふん。ちょっとだけ前言を撤回させてほしい。政治家の秘書というのは全くもって信頼できない存在ではあるけれど、少しぐらいは良いところがあるという点については、認めてやってもいい。

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