第30話
僕たちは二人並んで海を眺めた。陽に暖められたコンクリートの感触。海から流れる穏やかな風。視線の向こうには陸地が見える。船でたった十五分。当たり前のように行き来していたその場所は今、果てしなく遠くに感じる。
「泳いだって渡れそうなのにね」
同じ思いを抱いていたかのように彼女は言った。
「やった奴いたよ。意外と潮の流れがきついから、怒られたけど」
数年前の騒ぎを思い出して僕は笑った。
「でもそうだよね、やろうと思えば泳げるし」
あちこちに停められている船を眺める。観光客がいない今、釣り船やレジャーボートはほったらかしにされていた。
所在なげに波に揺られ、あるいは陸に繋がれている。
「こんなに船はあるんだもの。別に、渡ろうと思えばあっという間に向こう側に行けるはずなんだよね」
彼女は軽く頷いた。僕たちは彼方を見る。そして沈黙。でもその静けさは、むしろ心地良さを感じさせるものだった。
僕は独り言のように呟いた。
「たまたまこの島だった。それだけの話なのにさ」
答えは無い。
「どうして島の外にいる人々は、あんなに好き勝手なことが言えるんだろう」
僕たちは、ただここに居たというだけの被害者だ。なのにどうしてそれを罪として捌かれなくてはいけないのか。
「外に居る人達が何か素晴らしい生き方をしていて、僕たちがそれに反していたわけじゃないのに」
波の音が収まってから、彼女が語り出した。
「私、一緒に来た二人がいて」
哀しげな声。
「私達、いつも同じ所に行っていたんだよ。なのに私だけがここに残ることになったら、あなたは何を触ったとか、あのときこうしなかったとか」
その言葉に含まれている重大な意味を、僕は理解し損ねた。
「こんな病気が広まっていたなんて、私達の誰も知らなかったじゃない。私を注意したことだって一度も無いのに」
不快な口調を真似するように口を尖らせる。
「ネットで知り合いと会話しても同じ。『どうしてこんな島に行ったのか』ですって。ただの偶然に決まっているじゃない。私に対して上から説教する人達だって、単に運が良かっただけなのに」
猫で有名な島、あるいは町なんて幾らでもある。猫コロナがこの島で生まれる必然性なんて無かったはずだ。別のどの場所でも良かったはずなのに。
たまたまこの場所だったから、住んでいた僕たちの罪にされるなんて理不尽だ。
「他人を非難するとき、人はなんであんなに偉そうになるんだろう。自分達ばっかりが正しいみたいな態度になってさ」
僕の言葉に、彼女は勢いよく同意した。
「そうそう。あったまくるよね。話をすればするほど偉そうになって。こっちを見下してることが伝わってくるの」
ああ、やっぱりそう思うのか。ストレートな同意を受けて、僕は安心した。
人間はきっと、たまたまの偶然で自分が良い結果に至ったという結論を好まないのだろう。だから上手く行った自分には理由があると考え、それを探し出そうとする。傍から見ればそれがどんなに馬鹿馬鹿しいものであったとしても、振りかざして自分の今の立場を正当化しようとするのだ。
「あんなの、この島で起きている本当のことを知りもしない人達が、空想で考えた話を根拠に勝手に騒ぎ立てているだけじゃんか」
「まったくね。役にも立たないアドバイスを山ほど押しつけられて、こっちは良い迷惑。だけどそういうヤツらほど、自分達の正しさを疑わないし。もう間違いを指摘するのにも疲れちゃった」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
少しだけ晴れやかな気分。だから僕は、もう少し思いの丈を口にした。
「だいたいさ。皆、無責任だよ」
海を眺めながらそう言った。
「口で非難するばっかりで、誰も本気でこの島を助けようとしてくれない。自分達が病気から遠ざかりたいから、この島で困っている人を見捨てて逃げだそうとしているだけなのに。適当な理屈をつけて偉そうなことを言う。卑怯だよ」
沈黙。僕は同意を求めるかのように、彼女に視線を向けた。
「ふうん」
さっきとはまるで違う表情をした彼女が、そこに居た。
「それを言うんだ。この島の、あなたが」
冷ややかな声。
「私ね。観光でこの島に来ただけなのに。突然部屋に閉じ込められて」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「強制じゃないなんて言いながら。結局、船には乗せてくれなくて。どうしようもなくて宿に泊まり続けたら、きっかり料金請求されて。あのクソババア、いつまでここに居るつもりなんだなんて言い出して。あんな嫌な顔を向けて。私だって、出て行けるなら今すぐにだってここから出て行きたいよ」
恨みと怒りに満ちた視線が僕に向けられた。
「あなたは私に何をしてくれたの?」
何も言い返せない僕に言葉が叩きつけられる。
「この島の人間であるあなたは、私に何をしてくれたというの?」
「そんな。僕にどうしろって言うのさ」
そんな言い様は不公平だ。いったい、僕がどうすれば良かったと言うんだ。
隣のおばさんについてだってそうだ。島の人達だって余裕のある生活をしているわけじゃない。無料でいつまでも人を泊め続けられないのは当然じゃ無いか。むしろ大変だったはずだ。陽性の反応が出た後も受け入れて、消毒や自分達の感染を防ぐために沢山のことをやらされて。
そこまで考えてから、僕の顔から血の気が引いた。そうだ、この人は。
「どう考えたって私は被害者じゃない。理由はどうあれ、病気はこの島で起きたのよ。だったら巻き込んだ人に謝罪して、なんとか無事に帰れるよう手配するのが当たり前じゃないの? なのに、誰も彼もが自分のせいじゃないみたいな顔をして」
彼女の言葉を僕はほとんど聞いていなかった。この人は、隣の宿に泊まっていた女子大生グループの一員だ。僕は立ち上がり、一歩後ずさった。
「あなたは、たしか陽性だった・・・・・・」
彼女は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そうみたいね。だから何?」
僕は自分の右手を見る。
「どうしてっ! どうして触ったんだ!!」
立ち上がるとき、僕は彼女の手を触っていた。怒りと恐怖がわき上がる。
「僕を感染させるつもりだったのかっ!」
彼女の顔もまた、激しい怒りに覆われる。
「今にも死にそうな顔してたから親切にしてあげたのに! 何よ、散々偉そうなこと言っておきながら、いざとなったら感染したかどうかで人を差別するんじゃない!!」
差別なんかじゃ無い。病気をうつさないようにするのは当たり前の話じゃ無いか。しかし彼女はそんなことすら理解できていないようだった。
「だいたい、感染させるって何よ。この島の連中が、私に感染させたんじゃない! 自分は無関係みたいなこと言って、あなたがウイルスに感染していなかったって保証なんてあるの?!」
ダメだ。僕はそう思った。この人はマトモじゃない。
「まったく。全部自業自得よ。こんな島、滅んじゃえばいい。自分達で病気を巻き起こして、それを反省もせずに他人のせいにして。どいつもこいつも、みんな最低!」
僕の心がキレる。
「ふざけるな! そんなに嫌ならこの島から出ていけっ、今すぐ!」
言い捨てた僕は家に向かって駆けだした。一刻も早く、手を洗わなければ。全速力で玄関に駆け込み、置いてあった消毒用アルコールのポンプを押す。何度も何度も、繰り返し両手をこすりあわせた。
はあはあと荒い息が収まった時、僕の視線がドアに向けられた。
「ハル?」
家に戻った時、ドアはわずかに空いていた。動転していた僕は、外に出る時にきちんと戸を閉めていなかったのだ。
「ハル・・・・・・ハル?」
一縷の望みをかけて家の中を探す。だけど、ハルの姿はどこにも無い。
目の前が真っ暗になり、半狂乱になりながら僕はまた家の外に走り出した。
背後から叔父さんの声が聞こえたような気がしたが、そんなものに構ってはいられなかった。
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