第28話
731部隊の再来。現代のアウシュビッツ。海外でもこのニュースは一気に取り上げられ、ものすごいタイトルが世界中を駆け巡っているという。
どうも外国は島における猫の捕獲と今回の国の実験を一緒くたにしており、日本は捕まえた猫を次々と殺処分し、更には健康な猫たちにウイルスを感染させてその死に様を観察するという完璧な悪の科学者イメージで語られているという。困ったことに、完璧な間違いとも言い難い。
『日本人には動物愛護の精神がない』
『人を生物の最上位としてみる傲慢』
『動物実験を肯定するのは時代遅れ』
『そもそも殺処分対象の猫がこれほどいるのが問題だよ。滅びて良い国』
海外のメディアと、その意見に乗っかった日本人の意見がネット上を飛び交う。
一方で、それに反論する声もあった。
『動物実験をしなければウイルスの分析やワクチンの開発が進められない』
『どうせ殺す猫ならば有効に使った方がマシだ』
『保健所が猫を捕まえるのは見捨てる飼い主のせい。政府のせいにすんな』
どうせ駆除対象だから殺しても問題無いという考え方は間違っていると僕は思う。
だけど叔父さんは言っていた。
『ペットというのは人間の都合に合わせた歪な存在だ』と。
外に出る自由や子供を作る自由は奪っても良いが、命だけは取ってはいけない。ある面では猫たちを所有物として扱いながら、一方で彼等の権利を守れと叫ぶ。叔父さんならばきっと、優しい奴隷主が自らの道徳を誇るようなものだと皮肉に笑いそうだ。
それに、と僕は考える。この島の猫たちは事実上閉じ込められた状態だ。このままではいずれはウイルスに感染していく。その死体を使って病気を調べるのと、研究室で猫にウイルスを感染させる行為は一体何が違うんだろう。僕たちをここに閉じ込めた人達はきっと、それは自然に感染したケースだから自分達の罪では無いと主張するに違いない。でもそれは、正しいことなんだろうか。
夕食時、父がテレビに向かって文句を言い始めた。
「まったく、だったらどうしろって言うんだ。病気の正体を早く探り、ワクチンを作らなければならないんだろう。なのに実験はするだなんて話がおかしすぎる」
その発言に姉が厳しい目を向ける。
「お父さん、そういうこと言うべきじゃないよ。動物実験で罪も無い猫を殺すなんて、やっぱりおかしい」
険悪になりそうな雰囲気。父は黙り込んだ。
これはヤバい話題だった。病気の正体を突き止める必要がある。それは誰もが理解できる。だけどそのために捕まえた猫を実験に使って良いのか。そこに答えは無い。
猫が好きな人同士だって、それぞれに意見が異なって当たり前の話題だ。下手をすれば家族の間でも大げんかを起こすような結果になりかねない。
次の日の朝。
「きゃっ!」
姉の悲鳴が家に響いた。シャーッ! という威嚇の声。
外に出してもらないことに怒ったハルが姉の手を引っ掻いたのだ。
「どうして分かってくれないのよぉ」
手の傷よりも、心の痛みに耐えかねたような哀しい声。
「早く、消毒」
僕は慌てて薬箱を取り出した。猫の爪は危ない。バイ菌が入ると腫れ上がる事だって珍しくないことを知っていた。アルコールをガーゼに浸す。幸い傷は深くなさそうだった。
しょげきった姉が仕事のために家を出て行く。
ハルに言葉は通じない。なぜ自分が家に閉じ込められているのか、それが必要なことであるかを語り、理解してもらうことはできない。
その時、何かが脳裏に閃いた。それは僕たちも同じじゃ無いのか。
何も分からぬまま、島の中に閉じ込められて。それが僕たちを守るためなのか、それとも傷つけるためなのかも分からない。
いや、違う。きっと僕たちを閉じ込めた人達だって、何も分かってはいないのだ。これからどうすべきなのか、何が最善なのか。何のために閉じ込めているのかすら。
だからこそ、言葉を使っても何も伝わらない。話をしても理解なんてできない。
叔父さんが台所に入ってきた。
寝ていないことが明らかな顔でやかんを火に掛ける。
「叔父さん、教えてよ」
思わず僕はそう言っていた。胸に詰まった疑問を吐き出したくて。
ミルにコーヒー豆を注ぎながら、叔父さんはあくびを一つした。
「私は寝不足だ。15分後には次の会議が控えている。丁寧には話せないけれど、それでもいいかな」
「いいよ、それで」
今まで丁寧に接していたつもりだったんだと、僕はまずそのことに驚く。とてもそんな風に思えていなかったんだけれど。
叔父さんが座るよう促した。テーブルにお互いが向き合う形で腰を下ろす。
「僕たちはこれからどうすればいいんだろう。島の外の猫を救うために、自分達はこのまま島の猫が病気になっていくのを我慢して見ているべきなの?」
混乱した感情のままに僕は言葉を吐き出す。
「島の外の猫にも生きる権利があるのは分かるよ。だけどこの島の猫にだってあるはずだよね? どうして僕たちだけが我慢しなければいけないのさ。なんで島のことを滅茶苦茶言う人達のために、僕らがハルに嫌われなけりゃいけないんだろう」
叔父さんはコーヒーミルを手放してテーブルに置いた。
「済まないが、私は権利というものについて議論するのがあまり好きじゃない」
両手を組んで肘をテーブルに突く。
「なぜなら現代における人権という概念は事実上、宗教の代替物だからだ。あれは欧米社会で生まれた変形のキリスト教なんだよ」
そんな話を聞きたいんじゃない。
そんな僕の内心を無視して、叔父さんは話を続けた。
「その証拠に、権利に関する議論は容易に神学論争の領域に入ってしまう。人権という神は何を求めているのか。どんな存在であるべきか。奇跡を起こせるのか起こせないのか。それを信じない背教者にはどんな罰を与えるべきか。そんな話ばかりだ。あんなものは、それを方便として人が努力し、より良い社会を作るための虚構に過ぎないのに」
「叔父さんの考え方、ヘンだよ!」
そう言った僕の顔を叔父さんは見つめ、そして不意に言った。
「津波に遭った町を見たことがあるかい?」
感情を感じさせない、その瞳。
「坂に立つとね。津波から三ヶ月以上経った後でも、どこまで水が来たか一目で分かるんだ。坂の途中、ある高さより上の建物には何の傷も見えない。しかし、その下の建物は全て根こそぎ波に攫われているから」
言葉を失った僕。叔父さんは僕の遙か背後を見ているようだった。
「水がその高さで止まったのは単なる偶然だ。意味も必然性も在りはしない。しかし、それで全てが決まってしまう」
口の端を歪めて笑う。その笑みの意味を、僕は理解できない。
「そんなものを見るとね、自分が今ここに生きているのは単なる幸運なのだと良く分かる。世界に存在を保証されたものなど何一つ無く、全ては一瞬で奪われ、消え去っていくだけなんだと」
穏やかな声の中に込められた強い感情が僕を揺さぶる。
「権利とは只の言葉だ。言葉自体には何の力も無い。奇跡を起こすことなど出来ない。津波に向かって人の生きる権利を叫んでなんになる?」
叔父さんは僕から視線を外し、平板な声のままに言う。
「しかしだ。『津波だ、逃げろ!』という叫びを聞いて駆けだすことが出来たならば。その人は奇跡を掴む機会を得られるだろう。それが言葉の本質、そして限界だ」
語る内容よりも、そこに秘められた何か僕を打ちのめした。だけど、やっぱり僕には理解することが出来ない。
「叔父さんの話、良く分かんないよ・・・・・・」
混乱したままで僕は声を張り上げる。
「このままじゃ、猫が滅んでしまうかも知れないのに」
顔を上げた叔父さんは、冷静な顔で僕を見た。
「その点については訂正させて貰うよ。このウイルスは、猫という種にとっては何の害ももたらさない」
はあ? 予想外の言葉に僕は戸惑う。
「病気という概念は意外に恣意的なんだ。それは【私達に不利益をもたらす何か】を指す」
「何言ってるのさ。病気は病気じゃん」
「人間の体重が短期間で倍になり、歩行が困難になったらそれは病気と呼ばれるだろう。しかし我々は様々な技術を用いて食用動物の体重を数倍に増加させているが、それは【効率的な飼育】と呼ばれる。喰うための肉が増えるのは、私達が望んだ結果だからだ」
僕はその語りにぞっとした。穏やかな表情。話の筋は論理的で、淡々と事実を述べているだけ。だけど。
「例えば今回の猫コロナウイルスと同じケースが鶏に発生したとしよう。おそらくそれは病気と呼ばれない」
「なんでだよ。鶏が死ぬんでしょ」
「高齢の鶏というのは例外的な存在だ」
静かな口調のまま叔父さんは断定した。
「私達にとって金銭的な価値のある若い鶏は、ウイルスに感染しても少々調子が悪くなるだけ。一方、高齢の鶏が死ぬことによる損失など無いも同然だ。だとすれば私達はそれを―――おそらくは無害なウイルスと呼ぶ筈だ。文字通り、私達に与えられる損害は何も無いという理由で」
僕はどこかこの人を恐ろしいと思った。
世界の外に棲むエイリアンのような違和感。
今にして思えばそれは、政治の世界に棲む者の傲慢。他者の進む道を上から眺め、操ることを生業とした人間が放つ強烈な腐臭だったのか知れない。
「猫の平均寿命が十歳を大きく超えたのはごく最近の話だ。もしこのウイルスが世界中に広まったとしても、猫の平均寿命が数十年前の水準に戻るだけだよ。全体としてみれば、猫という種は平然と生き残る。むしろ高齢化した個体が減る分、健全な状態になるとすら言えるかも知れない」
その時、恐怖よりも強い怒りが僕の心の奥に灯った。
「このウイルスはね、猫という種にとっては何の脅威にもならないんだ。勿論、人間の社会にとってもそうだ。猫は十歳で死ぬのが当たり前。全員がそう納得してしまえば、事実上、無害なウイルスと定義することだって出来る」
「ふ、ふざけんなっ!!」
僕は立ち上がってテーブルの向こうに座る男を睨みつける。
「僕は、僕はハルに死んで欲しくなんかないっ! 何が無害だよ! そんなもん、納得なんてできるかっ!!」
叔父さんは平然と僕の怒りを受け止めた。
「そう、まさにその点が問題なんだ」
時計を見て、傍らのコーヒーミルに手を伸ばす。ハンドルをくるくると回しながら、その話は続いた。
「種、あるいは社会という規模で見れば無害と定義出来ても、実際に死んでいく猫、そしてその家族にとっては耐えがたい損失だ。納得なんて出来るものじゃない」
こりこりと音を立てて、豆の香りが部屋中に広がっていく。
「大規模な感染症は通常、社会と個人双方にとっての脅威になる。しかしこの病気はそれが全くの非対称であるという点に大きな特徴があるんだ。だからこそ、解決が難しい」
コーヒーの粉がペーパーフィルターにあけられた。
「動物の権利という建前を口にはするが、内心では他人の猫などどうでもいいと思っている人々。そして他人の負担などお構いなしに自分の猫を救いたいというエゴを抱く人々。その間で合意など成立する訳が無いからね」
やかんから落とされる湯。コーヒー豆から黒い液体が抽出されていく。
「思いつくのはポリティカルコレクトを持ち出して無理矢理に相手を黙らせる方法ぐらいだが、そんなことをしても全くの無意味だ。それでは【神のご意志】に従えと言っているのと変わらない。行き詰まる事は歴史が何度も証明している」
「だったらなんなんだよ! 一体なにが言いたいんだよ?」
叔父さんは不思議そうに首を傾げた。
「君が発した質問への答えだよ。私には君がこの事態をどう考えるべきか、自分の猫と他人の猫のどちらを優先すべきか。まして他人のためにどこまで自分を犠牲にすべきかという問題について答えることは出来ない。なぜならそれは君の生き方そのものであり、君自身が決定すべき事だからだ」
こ、この野郎。僕はその澄ました顔をグーで殴りたい衝動に駆られる。相変わらず回りくどい話を延々としやがって。やかんから湯が落ちる危険な状況でなければ、本当に手が出ていたかも知れない。
叔父さんは、そんな僕の様子を面白そうに眺めていた。
「分かっただろう? 他人が語る正しさの中身など、知れば胸糞が悪くなるようなものでしかないんだ」
手に持ったやかんがガス台に戻される。
「自分の正義を他人に委ねてはいけない。一方で、他人もまたそれぞれの信じる正義を持つという現実を知らなければならない。私がアドバイス出来るのはその程度さ」
叔父さんがドリッパーを外した。
「済まないが、時間だ」
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