第19話

 PCR検査が始まってから、毎日のテレビには見つかった感染者数を示すグラフが映されるようになった。初日は2人。次の日は4人。その次の日は4人と2匹。そして8人と2匹。

『感染者の数が急激に増えています。島で取られている対策が不十分であることは明らかで、抜本的な対策を取らなければ更なる拡大を招くでしょう』

 何を言っているんだ、と僕は呆れる。島での検査態勢はまだ構築の途中で、徐々にその規模を増やしている段階だった。対象者は旅行者だけで、島の人々の検査はまだ先。検査件数は初日が10件、二日目で20件。三日目は50件といった調子だ。

 検査数を増やしているのだから、見つかる感染者数が日々増えていくのは当たり前だった。

『陽性率がここまで高いというのも問題です。これは思ったよりも深刻かも知れませんね』

 テレビの司会者に対し、いつものように叔父さんが突っ込みを入れ始める。

「陽性率が高いのは、偽陰性を怖れて判定を厳しめにしているからなんだけどね。遺伝情報が似ている関係で、ワクチンを打って間もない人は高確率で陽性になってしまうんだ」

 ちなみに叔父さんは二度目の検査も陰性だった。その結果、居間で普通に生活をすることを許されている。本人はもう少し少し時間を置いた方が良いかもしれないと言っていたが、母がそれに反対したのだ。陽性のお客さんが泊まっているお隣さんとは普通に毎日話をしているのに、同じ屋根の下にいる親類の人を避けるのもなんか変、というのがその理屈だった。良くも悪くも人間とは慣れるもので、僕もすっかり警戒心が無くなっている。


 それはおいておいて。先ほどの話に僕は聞き捨てならないものを感じた。

「ちょっと待って。この島じゃワクチンの定期接種は3月後半からだよ」

 学校でパンフレットを配られた日が遠い昔に思える。

「僕たちが検査を受けたら、全員陽性になっちゃうってことにならない?」

「そういった問題もあるから、対象を旅行者に限定しているんじゃないか。このままだと陽性率が恐ろしい値になって、パニックを起こしかねない」

 あー、なるほど。確かにそうだ。住民の8割とか9割が陽性なんて結果が出たら、日本中が大騒ぎになるだろう。

「だから島の人達に対して検査をするときは検査の判定基準を変えるだろう」

「どういう意味?」

「もう少し検査を詳細にやって、確実に猫コロナウイルスだと分かった場合にのみ陽性の判定をする」

 ふむ? なんか分かるような分からないような。

「でも、それって問題ないのかなぁ」

 なんだかいい加減というか、自分達の都合で陽性と陰性の数を調整することにならないんだろうか。

「旅行者へのPCR検査はこの島から出る許可を与えるためのものだ。だとすれば判定が厳しくなるのは仕方ない。一方、島の住民に対するそれは罹患率を調査するために行っているだけだから、基準をやたらと厳しくすることに意味は無い。検査には目的があるんだ。それが違えば、方法も基準も変えるのが当たり前なんだよ」

 うっかり見過ごした患者を島の外に出したら大変なのだ。だから検査を厳しくする。それはある意味当然のことなんだろうけど。でもなんかヘンだよなあ。

「そもそもPCR検査というもの自体、厳密に規格化された同一手順で行われているわけじゃないんだ。こんな風に政策的な都合で基準を変化させるのはごく普通だし、経済的な理由、技術や知見の向上による手法の変更も頻繁に行われる」

「でも、そんなこと聞いたことないよ」

「COVID-19では各国の数値を比較するのが流行ったけどね、検査数も対象者の抽出も、具体的な検査手順も全てバラバラなそれについて生の数字を直接比べたってほとんど意味は無いんだ。良くて参考程度にしかならない。国家間どころか、都道府県同士の公表数値ですら同列には取り扱えないんだから」

 テレビでは三つの山が特徴的なグラフが映されていた。

「前回の新型コロナウイルスの感染拡大の経緯と比較しますと・・・・・・」

 叔父さんが心から嫌そうな顔をする。

「これもそういった例の一つだ」

 4月と8月の、そして11月以降の部分が盛り上がった、だんだんと山が高くなるようなグラフ。見慣れたそれは、新型コロナウイルスの感染者数グラフだった。

「2020年4月時点でのPCR検査数は、8月のそれより一桁近く少ない。8月の11月の全国の検査態勢にも大幅な違いがある。なのに見つかった感染確認者の人数だけを比較しても意味は無いんだよ。真面目な研究の場では、2020年の5月時点では東京都だけでも人口の0.5%から1%。少なくとも5万人から10万人の感染者が存在して、そのほとんどが無自覚か軽症だったというのが定説だ。なのに未だにこんなグラフを持ち出してくるんだものなあ」

「でもさ、実際に見つかったのはこの数なんだから。想像で資料も作れなくない?」

「確かに使っている数字自体は正しい。しかしこれはデータを使ったフェイクと言うべきものだよ」

 あ、出た。すっかり講義口調になった叔父さんが長い話を始める。

「感染症対策は事実と客観的なデータを基に進めなければならない。そしてその中で最も重要なのは、【私達がウイルスに関して知っていることは余りにも少ない】という事実なんだ」

 低い声の中に、静かな熱が籠もる。

「しかし現代の人々は、自分が所有している情報が決定的に不足していることを、そもそも十分な情報を得る手段が無いのだという事実を認めようとしない。自分が無力だと認められないが故に、分かりやすい数字に飛びついてしまう。その結果、総合的には極めて信頼性の低いデータが、繰り返し報道されたというだけの理由で真実のように見做され、全ての政策はグラフが描く幻影に沿って歪められてしまった」

 その口調の中にある何かを僕は感じとった。

「COVID-19で証明されたのは、現代の感染症対策がイメージ戦だという事実だ。正しい道を示すだけでは足りない。人々にそれを納得させ、受け入れさせなければならないんだ。その点を欠いてしまえば、どんな対策も絵に描いた餅で終わる」

 一般的に学者とかセンセイとか呼ばれる立場の人々ならば、色々と批判とか文句を言うものだろう。だけど叔父さんの態度はどこかそれとは違っているように思えた。なんと表現すべきだろうか。自分ならばやってみせると言わんばかりのその態度。


 ああ、そうだ。僕の知っている中で一番近いそれを思い浮かべる。

 何かの理由で大会に参加できなかったゲーマーの姿。言葉のはしばしに、自分の実力を試したくてたまらない心が見え隠れしている。

 ふと思う。叔父さんは大学の先生をする以前は、政治家の秘書をしていたという。

 もしかしたら。この人は昔、野心家としての一面を持っていたのではないだろうか。自分の手で世界を変える。そんな気概を、ごく当たり前のこととして考えるような。

 僕の視線に気づいた叔父さんが言葉を止め、恥ずかしそうに笑った。

「済まない。こういう話しをしていると、つい止まらなくなってね。悪い癖だな」

 僕は首を横に振る。拍手をするような気にはなれなかったけれど、叔父さんがある種の想いを持ってこの場にいることは理解できた。

 会議があるから失礼するよ。そう言って叔父さんは部屋に戻って行く。うるさい人が居なったせいか、ニュースの音声がやけに大きく響く。

『新型コロナウイルスのワクチンを安定供給するまでには、二年以上がかかりました。今回、それよりは早いとしても一年程度の時間がかかると見られています。また、猫コロナウイルスののDNAは新型コロナよりもむしろそのワクチンに近いため、ワクチンの副作用であるサイトカインストームを引き起こす確率を高めるのではないかとの懸念も示されており・・・・・・』

 僕はテレビを消した。どれだけテレビを見続けても、本当のことが何なのかを知ることはできない。

 少し前まで、僕はもっと無邪気に誰かの、何かの発する言葉を真実だと信じていられたような気がする。だけど今。誰も世界の真実など知らないという現実を知ってしまった。

 そう、誰もこのゲームのルールを知らないのだ。

 だとしたら僕たちは一体、どうやってこの先の手を進めれば良いのだろう。

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