第11話
更に数日が過ぎた頃。世の中の流れは妙な感じになってきた。
とある番組ではこんな調子だ。
『この病気の恐ろしさは皆さんの想像以上です。人間同士が無自覚のまま感染し、自宅にウイルスを持ち込んだら、飼っている猫が感染してしまう。猫の致死率は不明ですが、死亡しなかったとしても、ウイルスを保有する猫をそのままにはできません。外出は禁止され、病気の際に動物病院に連れて行くことも出来なくなるでしょう。それどころか、拡大防止のために殺処分される可能性すらある。家族であるペットがそんな運命になることを考えてみてください。それは値段を付けることができないような損失なのです』
その一方で懐疑的な見方も広まりつつあった。実のところ、未だにウイルスの危険性は明らかで無く、島で猫の死亡が特別に増えたという証拠も無い。本当にこんな大規模な対策が必要なのかという論調だ。
『ネットを中心に一部で大騒ぎをしていますが、本当にこんな大規模な対策が必要なのでしょうか。非常事態宣言は強力な権力行使です。政府はそれにより、人々の権利に巨大な制約を課すこと出来てしまう。安易にそれを許せば、将来、猫の病気を口実に政府が戒厳令を引くことになりかねません。より明確な事実が証拠として得られるまで、与党の強行採決を許すべきではありません』
それぞれのチャンネルでそれぞれの専門家が勝手なことを言い合っていた。
「ねえ、この人達ってみんな専門家を仕事にしている人なんだよね」
「世の中に、専門家という名前の職業は無いけどね」
そういう余計な突っ込みはいいから。不愉快そうな僕の眼を見て、叔父さんは苦笑しつつ言い直す。
「まあ、それなりに専門家と称してもおかしくない肩書きを持っている人達だ」
「僕なんかからすれば、頭の良い人達のはずだよね。なのに言うことが全員違ってるのはどうしてなんだろう」
「専門家と言ってもそれぞれ視点が違うからだよ。感染症対策というのは、一種の哲学問題という面もあるし」
そういって叔父さんは説明を始めた。
「飼っている猫が死ぬことによる損失と、将来、それを口実にした人権侵害が発生する損失のどちらが大きいかは比較しがたい。議論をすれば後者ということになりがちだけど、それぞれの発生確率がどれだけあるか、という点まで考慮するともう収集がつかない」
そりゃあそうでしょうね。猫が病気で死ぬというのは相当にリアルだ。一方、猫の病気を口実に政府がうんぬんという話は素直に信じがたい。猫の病気を理由に戒厳令を出すことなんてあるのだろうか。やるなら、もっとマトモな口実がありそうに思えるし。
「そこまで極端でなくても、例えば数理モデルを使って感染状況を予測する専門家と、医療の現場を管理する専門家では問題とする部分がまるで違う。PCR検査の専門家と、ワクチンの開発に関する専門家も同様だ。それぞれの専門分野では正しい意見も、異なる視点から正しいとは限ない」
しまったな、と僕は警戒する。講義モードに入ってしまったようだ。
「ロックダウンという政策を覚えているだろう」
「いま、この島がさられていることでしょ」
病気の拡大を防ぐため、その地区を封鎖することだったはずだ。
「現在、あれは一般的に有効な手段とは考えられていない」
「そうなの?」
「人間同士の接触を減らせば感染の可能性は減るというのは正しい。しかしロックダウンをしても人間の活動を完全に停止させることは不可能だ。まずはウイルスの感染拡大を防げるレベルまで活動を抑制することが現実的に可能であるのか、という点が一点」
叔父さんは指を二本立てて見せた。
「二点目は、経済を破壊することによって発生する損失に対して効果が見合わないことがほぼ確実だからだ」
「お金と命を天秤にかけるのって変じゃない?」
「我々が享受している高度な医療体制は、大量の資金がなければ維持できない。そもそも感染症対策で最も重要な要素は清潔な水ときちんとした食事、そして十分な休養だ。経済の破綻はその全てを奪い、人をストレス塗れにしてしまう」
僕は両親の姿をイメージしてしまった。ここのところ、色々な心配事が重なっていることが伝わってくる。このウイルスで人間が発症することは無いという話だったが、このままでは心労でどうにかなってしまうかも知れない。なるほど。金が無いことが健康に極めて良くないという点はそのとおりだと思う。
「よく使われる例えとしては、ひどい咳を止める治療法として呼吸を止めるのを推奨するようなものさ。肺の空気が無くなれば物理的に咳を出せなくなるが、人間はそんな長時間息を止めてはいられない。そして、呼吸を再開すれば直ぐに咳の症状も戻ってしまう」
「うん、あんまり意味なさそう」
「仮に強引に呼吸を止め続けたら、身体は直ぐに危険な状態に陥ってしまうだろう。効果に比較して副作用が大き過ぎる。少なくともペストや天然痘レベルの疾病でなければロックダウンの正当化は難しい。そして、猫コロナウイルスにそこまでの脅威がある可能性は低いだろうね」
ああそうか。僕は考える。普通の病気でも、強力だが副作用のある薬を使うか、治療が長引く可能性があっても弱い薬を使い続けるのかという判断は難しいに違いない。専門家である医者同士で意見が違ってもおかしくはない。
「そもそも専門家は特定分野に関して詳しい分、逆に言えばひどく偏った狭い視点の持ち主だとも言える。感染症対策の専門家は、経済の問題はその分野の専門家がなんとかすべきだという前提で話をするし、経済の専門家はその逆だ。どちらも無責任で、正しいと同時に間違っている。だから彼等の意見は互いに矛盾してしまう。単純に専門家を集めても事態の解決には至らないのはそれが理由さ」
ふうん、と思いながら僕は疑問を抱く。
「ちょっと待って。だったら何でこの島がロックダウンの対象になっているのさ」
それは無意味な行為じゃ無いのか。
「そりゃあ、島という特殊な環境だからだよ。島に対する人の出入りを制限することが物理的に簡単だし、経済的なコストもそれほど高くない」
な、なんかムカつく言い方。
僕たちぐらいならどーでもいいと言われているような。
「そして本来はこれがロックダウンとして想定されていた規模だ。現代は交通手段が余りにも発達し、都市は巨大過ぎる。二十世紀の感染症対策が通用しないのは当然だね」
テレビからは、また別の専門家が脳天気なことを言っていた。
『これまでの知見から、接触回数を減らすことが感染拡大の防止には必要不可欠です。人と人、猫と人、猫同士が接触する機会を従来より8割減らすことが出来れば・・・・・・』
この話が馬鹿馬鹿しいことは僕にだって分かる。ここは都会じゃ無い。8割の接触を減らしたら生活なんて成立しなくなってしまう。単純に前例をそのまま持ってきてどうしようって言うんだ。
その程度であれば黙って見ていることもできたが、問題は夕食時に流れた番組だった。
最初に映されたのはモートで取材に応じた島の人々だった。観光、農業、漁業。その中には自分が知っている人も居た。彼等は口々に生活の苦境を訴えた。そして一刻も早い補償を期待するという切実な声。あ、ちょっと追記させて欲しい。後で知ったが、最初から補償の話をしたんじゃない。彼等はまず、いつも通りの生活に戻りたいと語り、テレビ局から『このまま島の封鎖が続いたら補償を求めるか』と質問を向けられたため、『補償を求めたい』という内容を答えたそうだ。だけど中間部分はばっさりとカットされ、なんだか島の人々は、とにかく金を寄越せと主張しているように編集されていた。
もっとも、それでも僕たちは違和感なくその映像を見ていた。島の人々の不安を共有していたし、この状況が簡単に収まらないことも明らかだ。助けて欲しいと声を上げることは当然の話としか思えなかった。
だけどその後で、一人のコメンテーターにカメラが切り替わる。
『だいたい、今回の騒ぎは島の住民が自主的に隔離をしたというだけの話なんだよ』
カメラから斜に見える角度で座った男が、偉そうな声と態度で決めつけた。
『影響があるのは猫だけだって話で、それも定かな証拠は無い。要するに噂。地域の人間が勝手にパニックに陥ったことを理由に法律を変えて、補償と称して税金を投入するなんてことが許されるのはおかしいんじゃないの』
「ちょ、ちょっと待てー!」
姉が箸を力一杯握りしめて画面を怒鳴りつける。
「勝手に噂を広めたのはそっちじゃんかー! そのせいでわたしたちが閉じ込められてるんだろぉボケぇ!」
画面の男は姉の罵声をものともせずに話を続けた。
『前回のパンデミックでは自治体が給付金のバラ撒き合戦を始めて、なんだか配る金額が多ければ多いほど素晴らしい政治家だ、みたいなイメージが広まっちゃった。だけどあれは自治体の借金。政治家が個人の金を配っているんじゃ無くて、住民が自分で金を借りているだけの話なの。なのに財布の中身が増えたと喜ぶのは恐ろしい勘違いで、日本人の政治に関する無関心というか、意識の低さの表れだと僕は思うんだよね』
偉そうな態度のままボードを取り出す。
『そんなことばかりやっていたから、幾つもの自治体が財政破綻寸前までなったのに、前回に味を占めた人達が何かあればとにかく金を配れと言うようになっちゃった。政治家の人気取りの手段としてはほぼ最悪な手法なんだけど、そんなことも理解できない連中が本当に多い。まして自分達で被害を演出しておいて、それを理由に金を欲しがるなんてのは筋違いもいいとこ』
「この野郎-! わたし達が金欲しさにこんなコト始めたとでも言うのかっ。言って良いことと悪いことがあんだろーっ!!」
暴れる姉を僕は慌てて抑えた。父が居なくて良かったと心から思う。二人でヒートアップしていたら、本気でテレビを壊していたかも知れない。
それにしてもこれは酷いと僕は思う。まるで島の人々が補償欲しさのあまりに詐欺を始めたと言わんばかりの内容だった。
「まあ、問題提起という点では悪くない視点なんだが」
叔父さんはいつものように落ち着いて刺身に箸を伸ばした。
「むー、なんですか叔父さん」
姉が不満そうな顔をする。
「こいつらの言ってるコトの肩持つの?」
姉の意見に僕も賛成だった。僕たちは純粋な被害者だ。仕事に困っている人だって大勢いる。なのにこんな風に言われる筋合いなんてない。
「いや、別に肩を持ってはいないよ。知事の選挙対策として給付金の大盤振る舞いをした東京都は貯金を遣い尽くし、翌年に発生した台風水害とそれによるオリンピック中止の後始末で重大な財政危機に直面した。だから問題点として指摘すること自体は間違っていないというだけで」
なんだか煮え切らない態度のまま醤油を皿に注ぎ足す。
これだから理屈好きの人間は、と僕は思った。なんでもかんでも冷静に語るのが正しいわけじゃないのに。こういう時には心の在り方というか、ひどい目に遭っている僕たち島の人々の味方であることをしっかりと示すべきだと思うんだけど。
「とは言え、確かに印象操作が酷い。妙に悪意を感じる編集だし、この島の人口規模で国家的な財政規律に影響するとも思えない。その意味では、明らかにおかしいね」
おかしい、というのは気になる点があるという意味だろうけれど、姉は好意的に解釈することにしたらしい。
「そーでしょ。こいつらの言ってることってヘンだよね」
叔父さんは野菜の煮物をもぐもぐと口にしながら、軽く頷いた。
「ともかく、こういった番組にはマトモに応じない方がいい。現代社会では異なる主張や意見をシャットダウンすることも時に必要だ。真面目に全てを相手にしていたら、心を病んでしまいかねない」
「うん。素直にチャンネル変えよう。腹が立つばっかりだもんね」
それが良いと言って叔父さんは姉にビールを注いだ。テレビからお気楽な通信販売のトークが流れ出す。
「猫の健康を保つには、普段の食生活が重要です。そこで今回お勧めするのは・・・・・・」
最近急増している猫の健康食品のコマーシャルが流れ出したところで、叔父さんは席を立った。
「ご馳走様。ちょっと部屋に戻る」
その様子が少し気になり、僕は廊下に叔父さんを追った。小声で聞く。
「何か気になったの?」
どこかとまたオンライン会議を始めるつもりなのだろう。それも急ぎで。
「あの局はどちらかと言えば野党寄りの見解を流すことが多い。あの論調を始めたのには意図があると見るべきだ」
「意図って?」
「一言にまとめれば野党は対立姿勢に舵を切った。素直にこの島の支援をスタートさせる気は無いようだ。明日からの国会はきっと揉めるよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます