第9話
叔父さんは僕に検温を行い、フェイスガードとマスクの着用を指示した。ビニール手袋と合わせて、なかなかに暑くて面倒くさい。叔父さんは自分の体温も同じように計った上で記録を付けていた。
「なんだか手間かかるんだね」
「きちんと記録を付けていないと、何かあったとき私の責任にされるからね」
うわぁ、ものすごくお役人っぽい発想。ん? でも。
「猫コロナって、人間には危険は無いんじゃなかったの」
「既に軽い発熱の例はある。まだ性質が完全に分かってはいないし、用心に越したことはないだろう」
平然と加えられた一言だったが、僕は微かな不安を覚えた。自分がやっていることが思っているよりもシリアスで、危険を含んだ行為であるような気がして。だけどその思いが形になる前に、叔父さんが明るく話しかけてきた。
「まずは数を揃えたい。猫の集まる公園なんかを重点的に調べよう」
最近では見なくなった物々しい格好で、僕たちは外に向かった。
「ビニール手袋はウイルスを完全には防げない。あくまでも汚物が手に付着するのを防ぐだけだから、定期的に石鹸で手を洗うように」
「アルコール消毒は?」
「必要無い。きちんと石鹸で洗えば十分だ。実のところ効果に差は無いし、肌も荒れない分、石鹸の方がずっと良い」
道すがら糞を見つけるとアプリで写真を撮り、位置と時間を記録してから箸でつまんで保存袋に入れる。叔父さんはその後で袋を更にラップで巻いた。箸も同じように使い捨てにする。間違えて犬の糞じゃなけりゃいいけど。
一時間もしないうちに僕は作業に飽きてきた。猫の糞の匂いはあっさりとマスクを貫通してくる。暑くて臭い。ビニール手袋に包まれた指先がふやける。そして全然作業は進まない。あちこちに転がっているように思えて、探すとなると猫の糞を見つけるのは意外なほど難しかった。
「なんだか効率悪いんじゃない、これ」
僕のぼやきに叔父さんも頷く。
「まったくだ。人数が欲しいところだなあ」
マスクで呼吸が苦しい。
「糞を拾うとき以外はマスク外しても良いよね」
「そうするか。無理しても仕方ない」
叔父さんはバッグからタオルを出した。受け取った僕が汗を拭いているうちに近くの自販機に向かい、ペットボトルを二本持ってくる。
「ありがと」
喉を流れ落ちる冷たい水が心地良い。気が利いて親切なところもあるんだな。そう思いかけた僕は心の中で首を横に振る。
いやいや。騙されてはいけない。こういうのが叔父さんの手なのだろう。
勝手な偏見かも知れないが、ナチュラルに他人に取り入る才能とでも言うべきか。知らず知らずのうちにこの人が味方だと思わせるような立ち回りを、僕はこれまで何度か見ていた。
ふう。息を吐いて気持ちを落ち着かせる。ガードレールに腰を預け、フェイスガードを団扇代わりにしてあおいだ。ふと見れば叔父さんも同じようにしている。
「マスクとか色々してるけどさ、僕たちって家で普通にハルと生活してるじゃない。作業の間だけこんなもの着けても無駄じゃ無いの?」
「言っただろう。半分は気分の問題だよ。こうやっていれば、何かあっても作業中に感染したのでは無いと思うことが出来る」
「そのためにこんな苦しい格好するわけ?」
「意外と大事なんだよ、それは」
話はそれで終わり、作業が再開された。効率的に進めるため、公園などの猫の集まる場所を重点的に探すことを僕は提案する。やってみると、道路をいちいち確認しながら歩くよりずっと数を稼げた。だけど公園にはどうしたって人がいる。叔父さんはともかく、僕にとってこの辺りの人達は全員顔見知りだ。やがて一人のおばちゃんが笑いながら声を掛けてきた。
「まあまあ、あんた。もうそんな格好しているのかい」
僕たち二人の物々しい格好を見て笑う。恥ずかしくなって口ごもる僕をよそ目に、叔父さんはビニール手袋を外して手にスプレーを吹きかけた。十数秒待ってから両手をこすり合わせ、素早く名刺を取り出す。
「失礼します。実は私、こういう者でして」
おばちゃんはその紙切れをしげしげと眺めた。
「あら、大学の先生さんですか」
「この子の親類なんですが、猫の糞に含まれているウイルスが原因で病気が広まる可能性があるかため、清掃のボランティア活動をお願いしているところで」
流れるように適当なことを言い出す。なにやら僕を褒めちぎるようなトークを連ね、やがて丸め込まれたおばちゃんは感心した様子で『頑張ってね』と言って立ち去っていった。呆れた僕はジト目で叔父さんを見る。
「なんなの、ボランティアって」
「疑われて変な噂が立っても困る。島にとって良いことをしていると思って貰った方が、作業がスムーズに進むと思ったんだ」
「よくもあんなにスラスラと嘘がつけるね」
「思いついたのは今だけど、猫の糞にウイルスが含まれているのならば回収するのは理に適っているだろう。完全な虚偽じゃないよ」
「それにさっきは石鹸で十分だとか言っておいてさ。結局、アルコールスプレー持ってるんじゃない」
「水道が無い場所でも使えるのが利点だからね。それぞれに長所はある」
なんだかなぁと僕は思う。やっぱりこの人、どこか信用置けないよ。僕は飲み残しのペットボトルを一息で空にした。
「あんなこと言ったら、今度はこっちの公園を清掃してくれとか言われるんじゃないの。それも面倒だと思うんだけど」
僕の一言に、叔父さんはぽんと手を叩いた。
「それだ。思い切って本当にボランティア活動にしてしまおう」
なんだかまた変なことを言い出す。
「清掃活動ということにすれば、島の人達が糞を見つけて回収を依頼するように仕向けられるだろう。わざわざ探す手間が省ける上に、周囲から好意的に受け取って貰える。うん、実に良い意見だ」
叔父さんは思いつくままに自分のアイディアを語り続けた。
「もっと人手があったほうが良い、君の同級生を誘ってもらえないか。参加者にはちゃんと費用を払おう」
はあ、まあと僕は曖昧な返事をする。こんな怪しい人に雇われて大丈夫なのかな、と思いながら。
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