第2話
僕の家は民宿を営んでいる。料理と海へのアクセスという点ではネットの評価は悪くない。だけど大きな風呂は無いし、正直なところ古くさい。ペンション風に改装したばかりの隣の宿と比べるとその差は歴然で、年代物の瓦がひどく時代遅れな印象を与えていた。
「じゃあ、いこっか」
「猫ちゃんに会えるの楽しみ~」
女子大生とおぼしき三人組が隣の宿から連れだって出て来た。日に焼けた健康的な身体がまぶしい。横目でこっそり見ていると、すれ違う直前にいたずらっぽい声を掛けられた。「こんにちわ~」
僕は一瞬動きを止め、どぎまぎしながら挨拶を返す。
「こ、こんにちわ」
そのぎこちない態度がおかしかったのか、三人は明るく笑いながら傍らを通り過ぎていった。背後から会話の続きが聞こえてくる。
「なんかスレてなくて、可愛い子だね」
「うん、この島っぽい」
「ねえ、明日のスキューバだけどさ~」
四割の恥ずかしさと六割の嬉しさ。ああもう、どうすればああいう客層に愛される宿になるのだろうか。それに比べてウチときたら。
「おー、よしよし」
家の前の道で、ひとりの男がしゃがんでいた。年の頃は三十の半ば。不器用そうに差し出された手の先には、一匹の猫がしゃがみこんでいる。
猫に威嚇されて男性は後ずさった。はっきり言って、情けない格好だ。
「ハル、ただいま」
僕に呼ばれたハルは男を無視してこちらに寄ってきた。嬉しそうに鳴いて身体をすり寄せてくる。僕は屈んでその喉を軽くなでた。
「そんな態度じゃ警戒されるだけだよ、叔父さん」
正確に言えばこの人物は僕の叔父ではない。母の弟の結婚相手の弟。叔父さんの義理の弟という微妙に遠い関係なのだが、そんなことにこだわっても意味は無い。理由があって個人名は出せないので、ここから先は【叔父さん】という表現で通すことにする。
「どうやったら猫と仲良くなれるんだろうか。コツがあれば教えて欲しい」
叔父さんは大真面目な顔でそんなことを言いだした。
「一般的なことを言えば、叔父さんは猫に強引に近づいていきすぎ」
「そうかな。そんなつもりはないんだが」
「そうだよ。猫は無理やり近づいてくる人って好きじゃないんだ」
叔父さんは困った表情を浮かべる。
「しかし待っていても寄ってこないだろう。こちらから行動するしかないと思ったんだがなあ」
この人きっとモテないな。そうは思ったがコメントはしないでおいた。どちらにしても、この辺りの空気感は口で伝えられるようなものじゃない。
「次に一般的で無い問題を言いますけどね」
そもそもそっちの方が問題だ。
「なんでビニール手袋なんてしてるの?」
叔父さんは両手に透明なビニール手袋をはめていた。
「いや、条件を一致させないと」
なんだよ条件って。言っていることの意味が分からない。
「そんなものを着けてたら、匂いで嫌がられるに決まってるよ」
言い捨てた僕はさっさと家に向かった。数歩進んで振り返ると、携帯を手にした叔父さんの声が切れ切れに聞こえてくる。
「駄目だ。他の手段を考えよう。・・・・・・いや、そう言われても不可能なものは不可能と言うしかない」
変な奴。
僕の見たところ、あの人は一生猫の気持ちを理解できないタイプだ。可哀想だが、猫が寄ってくることは無いだろう。
もちろん、そんなの僕が知った事ではないけれど。
母によれば叔父さんは昔、政治家の秘書のような仕事をしていたそうだ。しかし何かの失敗をして責任を取らされ、数年前に首になったとか。それからふらふらと職を変え、今は大学の講師をしているという。
この島へは大学の研究で来ていて、二週間ほど滞在する予定という話だった。だけどここへ来てからというものの、猫にちょっかいをかけている姿しか見たことが無い。仕事をまた首になって逃げ出してきた、という母の想像が案外当たっているのかも知れない。
まあ、民宿をやっていると妙な客というものは珍しくない。
指摘するのも可哀想だし、宿代がきちんと払われている間はそっとしておこうというのが家族の一致した意見だった。
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