御札ノ家

「着いたぞ。起きろ、ヤマコ」


 杠葉ゆずりはさんに肩を揺さぶられて、目を開く。

 目覚めると同時に、ワイルド系のイケメンに『眠り姫のお目覚めだ』って言われるのが私の小さな夢なのだが、今日も叶わなかったな。杠葉さんは顔はいいけどワイルドでもなければそういうセリフを言うような人でもないし、まずは言いそうな知り合いを作らないといけないか。


 あくびをしつつ、のそのそと車から降りる。真っ暗な空の下、トンビコートを着た杠葉さんが眉根を寄せて私を見ていた。その脇に、アンコちゃんとバッケちゃんが手をつないで立っている。


「散々起こしたぞ。カカオのつゆがどうこうと寝言を言っていたが、まだ食べたりないのか?」


 ああ、そんなお菓子が今朝のニュース番組で紹介されていたっけな。そういえばスイちゃんがお取り寄せするようにって、さっきまで脳内で囁いていた気がする。しかし、私が寝るたびに何かしらおねだりをしてくるな、あの子。


「んん……今って何時なんですか?」


こく、陰陽道の流れを汲む冷光家うちでは不定時法を採用しているから、立夏りっかの今は夜九つ半だな」


「意地悪しないで私にもわかるように教えてくださいよ」


「午前0時12分、ちょうど日付が変わったくらいだ。むしろ俺としては、お前にわかるようになってもらいたいのだがな」


「というか、え? なんか、目の前にヤバそうな建物があるんですけど……え、まさか今から行くんですか?」


「俺とて下見もせず、夜中にこういった場所には踏み込みたくないが、東根ひがしねがまだ生きてどこかに居るかもしれないからな。行ってみるしかないだろう」


 私としては朝になってから探せばいいんじゃないかと思うが、杠葉さんは真面目だな。東根先生が行方不明になったのは四日前だと飯尾いいおが言っていたが、四日もここにいて生きているとすれば多分明日の朝でも生きているだろうし、亡くなっているとすれば今行ったところで手遅れなのだから。


 現場だからか、アンコちゃんがいつもよりもきりっとした表情で言う。


「お札の家を出て、一つ目の蔵には入ることができなかったと飯尾さんは言っていましたよね。とすると、一番奥に見える蔵が東根さんが失踪したという、二階にひつぎのような物が並べられていた蔵でしょうか?」


 道路を挟んで、まず目に入るのは山のふもとにぽつんと佇む、ぼろぼろになった木造平屋ひらや建ての廃家はいかだ。奥に塀で囲われた蔵らしき建物が二つくっついているものの、周囲によその家などは見当たらない。

 なんだか、仮に心中事件が起きていなかったとしても、やっぱり廃墟になっていたのではないかと思ってしまうような住環境である。とはいえ、冷光れいこう家のお屋敷もアンコちゃんの実家も、それに私が居候している祖父の家だって似たようなものなのだが。


 ふと気がつくと、杠葉さんが私を見ていた。もしかして、かわいい私に見とれてしまっているのかな?


「まずは俺とヤマコで建物の外から様子を窺う。その間、杏子あんず白髪毛しらばっけは玄関前で待機だ。ヤマコ、先に行け」


 所謂いわゆる廃墟と呼ばれるようなこうした場所は、普通に事故が起きる可能性も高く、妖怪やら幽霊やらといった存在の有無にかかわらずそもそも危険だ。割れたガラスやらで怪我をするだとか、錆びた釘を踏み抜いて破傷風になるだとか、足元が見えないで崖から落っこちるだとか、腐った床が抜けて二階から落っこちるだとか、スズメバチの巣があって刺されたりもすれば、地域によっては毒を持った蛇がいて踏んづけてしまったりもするし、野犬なんかのねぐらになっていて戦いになったりもして、とにかく危険が多い。さらに言うと、性質たちの悪い不良グループがアジトみたいにして溜まっていることもあれば、強姦魔やらといった犯罪者が犯行場所として使っていたりすることさえある。

 そんな危険な場所を探索するのに未成年の女の子を先行せんこうさせようだなんてあまりにひどすぎる話だが、しかし、杠葉さんは私のことを妖怪だと信じ切っているので仕方がないといえば仕方がない。

 それに、ヤマコアイは暗闇を見通すので実際に適任だからな。緑色に光る目を人に見られるのは恥ずかしいが。


「じゃあ、はい。一番、ヤマコ行きます」


 もちろん、杠葉さんが「二番、杠葉行きます」と言ってくれることはなかったが、代わりにアンコちゃんが「気をつけてくださいねー」と手を振ってくれた。余談だが、いつかアンコちゃんのことを「ママ」と呼び間違えてしまいそうで少し怖かったりする。


 生い茂った庭木や雑草に難儀しつつも、木の枝をかき分け、やぶの隙間をくぐって、杠葉さんの忠実な式神である私はどうにか歩を進めていく。

 元々は雨戸が閉められていたようだが、その雨戸も所々外れて落ちていたりもして、外からでも問題なく建物の中を覗き見ることができた。

 しかし、やはりホラー作家がわざわざ取材に訪れるだけあって、内部の様子は異様なものだ。

 たたみの腐った和室の前で、足を止めて言う。


「うわっ……話には聞いていましたけど、ほんとにおふだだらけですね」


 ほとんどは破けてしまっているものの、壁中にお札が貼られていた形跡がある。部屋の四隅の柱の低い位置には謎の小さな丸い鏡が貼ってあり、壁の左右に一つずつ、なぜか神棚が二つも取りつけられていた。


「なんで二つも神棚があるんでしょうか。よく知りませんけど、神棚って普通は一家に一個じゃないんですか?」


「いや、別に同じ家の中に複数あっても問題はない。それと、神棚を数える際の単位は個ではなく、『ウ』だ」


「う?」


「宇宙の『』と同じ字を書く。この宇という助数詞は神棚の他にも建物や屋根、天幕などを数える際にもちいたらしいが、現在ではおそらくあまり使われていない」


「へー。はらい屋さんっぽい雑学ですね、さすがです」


「雑学扱いをするな。お前もうちの関係者となったのだから、少しずつでも知識を付けろ」


「あっ、はい。すみません……」


 そうは言っても、神棚を数えることなんて今後の人生においてもそうそうないと思うし、実際に用いることがない知識なんてものはやっぱり雑学でしかないんじゃないのかな? なんてことを思いもしたが、とりあえず気を取り直して歩みを再開する。


「こっちの部屋は、居間ですかね。こっちもさっきの和室と似たような状況ですけど、神棚に加えてお仏壇も沢山ありますね……よくこんな家に住んでいましたよね、こんなに鏡があったら後ろにオバケが映りそうで落ち着けませんよ」


「おそらく鏡は風水を意識して貼ったのだとは思うが、それにしては配置が支離滅裂なのが少し気にかかるな」


「間違っちゃってるんですか?」


「貼ってはならない所にまで鏡が貼られている。祭祀さいしによく用いられる火や水に食物しょくもつ、そして鏡といった物はけがれを祓うにも役立つが、使い方を一つ誤れば穢れを集めてもしまう。それらの物はあくまでなかだちに過ぎず、使い方次第で効果が変わる」


「えっと、じゃあ、この家の鏡は……」


「穢れを集めてしまっているな。意図したものかはわからないが、外から屋内に穢れを呼び込み、中に閉じ込めて外に出さないようにしている」


 うわあ……そんなことを聞いてしまうと、お札の家がさらに怖く見えてくるぞ。

 何が嫌って、外から様子を見終わったら、多分今度は屋内を探索させられることになるわけで……どうしよう、もしもここで私がわざと転んで足をくじいたりしたら、杠葉さんは車で待っているようにと言ってくれるだろうか?

 いや、言ってくれないな。ただ足が痛くなるだけだし、止めておこう。


 外からお札の家の周囲をぐるりと一周して、再び玄関の前に戻ってくる。バッケちゃんとアンコちゃんがさっきと同じ位置に立って待っていた。

 息をつく間もなく、杠葉さんが言い出す。


「中に入るぞ。またヤマコが先行して、白髪毛は俺について来い。杏子は車に戻って、蔵を含めた周囲一帯を見張っていてくれ。何かあったら連絡するか、急ぎであればとりあえずクラクションを鳴らせ」


「はい、わかりました。皆さん、気をつけてくださいね」


 ぺこりとお辞儀をして、アンコちゃんが一人で車へと戻っていく。ズルいぞ、足をくじいてもいないくせに……。

 しかし、車で待機なんて、奴隷どころかお姫様のポジションである。さっきまでアンコちゃんを心の中で奴隷扱いしていた私だったが、本当の奴隷はどうやら私の方だったらしい。


 杠葉さんの良き奴隷しきがみである私はスニーカーを履いたまま、引き戸が二枚とも外れて倒れてしまっている玄関からお札の家に上がる。靴を履いていると怪我をしにくくなるし、すぐに外に逃げられる反面、こうした木造の住宅なんかを歩くときには足音がやたらと大きくなるのが難点だ。それでもスニーカーなので、ブーツなんかと比べたらだいぶマシではあるが。

 まるで炭鉱のカナリアになった気分で、ゆっくりと廊下を歩いて行く。ヤマコアイが優秀なおかげで真っ暗な屋内もよく見えるが、だからといって勢いよく突き進むような勇気はなかった。

 床板がだいぶダメになってきているようで、歩くたびにギシィッ、ミシィッと嫌な音が鳴る。床が抜けて、本当に足を負傷しなければいいが。

 適当に部屋の様子を覗き見しつつ、まずは居間だったと思わしき一番大きな部屋に入る。


「どの部屋も物が多いな。家を相続した家族が失踪したという噂が立ったのは、このせいか?」


「ですかね。でも、これが全部心中した家族の持ち物だと思うと、それはそれでやるせない気持ちになります。なんか、子どもが描いたっぽい家族の絵とかもありますし……」


「どんな絵だ、見せてみろ」


「えっと、どうぞ」


 杠葉さんに拾った絵を手渡す。画用紙にクレヨンのような物を使って描かれた、たぶん家族四人が手をつないで横並びになっている絵だ。背景には太陽と、虹が描かれている。

 懐中電灯で照らしながら、一瞥いちべつしただけで杠葉さんが絵を返してくる。


「ふむ……ただの絵だな。元あった場所に置いておけ」


「え、はい。何を確かめていたんですか?」


「予告画といって、自分や、他人の死を事前に予言していたかのような絵を描く人間が稀にいる。念のために、そういった絵でないか確認しただけだ」


「へー、そんなのがあるんですか。でも、運命って呼ばれるようなものがあって、本当に予言しただけならまだしも……その人が描いた絵の通りに未来が変わるんだとしたら、めちゃくちゃ怖いですね」


「さてな。仕組みは俺にもわからないが、何にせよそんな物を描く人間とは知り合いたくないものだ」


 それはそうだ。いつ自分の絵を描かれるかわからないし、堪ったものではない。私や杠葉さんのように見栄えのする容姿をしていると、モデルにされてしまう可能性も高そうだしな。


「神棚、家の外から見ていたときは一部屋につき二つずつなのかと思っていましたけど、外に面した壁の上にもついていますね。だから、えーと、一部屋につき三戸前とまえですか」


「……戸前は蔵だ。神棚は宇、だ」


「あっ、そうでしたっけ? でも、あながち間違いとは言い切れないんじゃないでしょうか? だって神棚にも戸がありますし、蔵にも屋根があるじゃないですか」


 つまり私は間違えてない。はい、論破。


「お前の言い分もわからなくはないが、つべこべ言わずに覚えろ。次の部屋に行くぞ」


 先に行けということだろう、背中を押されたので居間を出て、隣の部屋に入る。

 後ろをついてきた杠葉さんが、懐中電灯で室内のあちこちを照らしながら言う。


「しかし……悪い気が溜まってはいるが、それだけだな。特別な何かの存在は感じない」


「なんか空間の歪みとか、そういうのもないんですか?」


「ないな。何かあるとすればここではなく、やはり蔵か」


「でしたら、お札の家はささっと済ませて蔵に行きますか」


 ノートやアルバムの中身や、引き出しの一つ一つを探るようなことはせずに、押し入れの中を覗いて確認しただけですぐに次の部屋に移動する。

 トイレや浴室まで見て回ったが、結局何も手がかりを得ることができないまま、私たちは外に出た。


「なんにもありませんでしたね」


 私がそう言うと、ずっと無言で最後尾を歩いていたバッケちゃんが寄ってきて、私の着ている白いコートの裾をくいっと引っ張る。


「どうしたんですか、バッケ先輩?」


「ん!」


 バッケちゃんが小さなにぎりこぶしを突き出してきたので、何か渡したい物があるのかなと察した私は手のひらを広げる。

 バッケちゃんが私にくれたのは、四枚のおはじきだった。


「え、ええ……? 先輩これ、もしかしなくても、お札の家で拾いましたか? う、うわあ……」


 背筋があわ立つ。

 どうしよう。お札の家にあったおはじきなんて絶対に持って帰りたくないぞ。でも、どことなく一仕事終えたような雰囲気のバッケちゃんに、せっかくくれたお宝を突き返すのもためらわれる。いやでも、絶対に持って帰りたくない。


「あの、えと、えと、プレゼントは凄く嬉しいんですけど、これは持って帰っちゃいけないやつなんですよ、バッケ先輩。ぼろぼろのお家ですけど、人様の家にあった物ですからね、これ。持って帰ったら窃盗罪ですよ、犯罪ですよ犯罪。ね? ですよね、杠葉さん?」


「そもそも、その人様の家に勝手に踏み込んだ時点で、俺たちが犯罪者であることに変わりはないが……そうだな。あった場所に戻して来い、白髪毛」


「や」


 おっと? 杠葉さんにたて突いたぞ。

 ヤバい廃屋でヤバいおはじきを拾ってくるわ、杠葉さんには逆らうわ、怖いものなしだな。さすがバッケちゃんだ、ハッチーから『メンタルお化け』と呼ばれて恐れられているだけのことはある。


「白髪毛。それは亡くなった子どもの物だ、返してやれ」


「ん……」


 しかし、杠葉さんが言い方を変えて再度命じると、今度は小さく頷いたバッケちゃんが私の手からおはじきを回収して、お札の家へと駆けていく。


「なるほど。バッケ先輩に言うことを聞かせるには、言い方が大事なんですね」


「そうだな。白髪毛は頑固だが、話を聞かないわけではない。ただ、こちらがまったく予想もしないような突飛な行動を取られてしまうと、さすがに止めようもないがな」


「うちの山を燃やそうとした件とかですか」


「あれには俺も驚いた」


「あ、そうでした。杠葉さんも気がついているかもしれませんけど、バッケ先輩って車が来ていても止まろうとしないんですよ。あれはどうにかしないと危ないと思います、車に乗っている人が」


「確かにそれは危険だな、あとでよく言い聞かせておく……いや、車を蹴ったりするなとは言ってあったのだがな。単純にぶつかっただけでも車に乗っている人が怪我をしたり死んだりするということを、伝えきれていなかった」


「えっと、もしかしてですけど、車を蹴っ飛ばしちゃったことがあるんですか?」


「初めて白髪毛を連れて家の外に出た時、歩道を歩かせていたら、路上駐車していた車を避けずに蹴り飛ばしたことがある。首輪をつけていたから滅多なことは起こらないだろうと思っていたのだが、家を出てたった数分の出来事だった」


「え、それって人は乗ってなかったんですよね?」


「幸いにな。だが、人が乗っていたら死んでいただろう。大型トラックに突っ込まれたような潰れ方をしていたからな。持ち主には潰れた車の新車購入額の倍を支払う代わりに、何が起きたのか詮索しないと約束してもらえたが……監視カメラがなくて助かった」


 怖っ。やっぱりヤバいな、妖怪って……あんなに可愛いバッケちゃんの、短いあんよから繰り出されるキックが、大型トラック並みの威力を発揮してしまうんだもんな。

 妖力ようりょくって、いったい何なのだろう。うんぬばの体当たりも妖力を打ち消してしまえばなんてことなかったが、普通は馬のような巨体のお婆さんが突っ込んできたらそれだけで結構な衝撃があるはずだし、本当に意味がわからない。


 そんなことを考えていると、てててててっとバッケちゃんが走って帰ってくる。

 バッケちゃんは長い髪の毛もお肌も真っ白だから、闇の中で光り輝いて見えるな。いや、ヤマコアイを持っていない普通の人が見たら、さすがに光っては見えないのかもしれないが。

 そのまま杠葉さんのそばまでやって来たバッケちゃんが、杠葉さんのトンビコートの裾を握ってお札の家の方へと引っ張る。


「何かあったか?」


「ん!」


「何かあったようだな、もう一度行ってみるか。ヤマコも来い」


「あ、はい。えっと、今度は後ろにいていいんですよね?」


「ああ。白髪毛を先に行かせる」


 杠葉さんと一緒にバッケちゃんについて行き、お札の家に戻る。

 すると、廊下の途中で足を止めたバッケちゃんが、何もない壁をじっと見つめて小さく首をかしげた。

 杠葉さんがバッケちゃんにたずねる。


「ここに何かあったのか?」


「ん」


 バッケちゃんが頷くが、私には何の変哲もないただの汚れた壁に見える。もしかして、壁の中に死体でも埋められているのだろうか?

 なんだかよくわからず、杠葉さんと互いに顔を見交わしていると、バッケちゃんがぽつりと言った。


「かいだん、あった」


「え、階段ですか? でも、ここって平屋ですよ?」


「だが、飯尾の話では、行方不明になる直前に、東根が蔵で存在しないはずの二つ目の階段を見つけていたな」


 そういえばそうだった。なんというか、非常に不気味な一致だな。こうなると偶然とは思えないぞ。

 何せお札の家は平屋だし、バッケちゃんが階段と見間違えるような物も見当たらない。


「あ。もしかして、ゲルニカでもあるんでしょうか?」


「ゲルニカ? ピカソの絵、確かスペインの地名だったか……? どういうことだ?」


「え、あ、えっと、違いますよ、屋根裏部屋のことです!」


「ならば、グルニエの間違いだと思うが……」


「あっ!? そうです、そうでした! グルニエです、グルニエ! 私が言いたかったのはそれです!」


「だが、仮にそういったものがあったとしても、やはりこんな所に階段があるのはおかしいだろう。確かこの壁の裏にも部屋があったはずだ、おそらく階段を設けるような空間は存在しない……しかし、ゲルニカと間違えていたとはいえ、日本の山に居たあやかしがグルニエなんて言い方をよく知っていたな」


「うっ!? あの、恥ずかしいので、間違えていた件は忘れてほしいんですけど……東根先生の著書に、グルニエっていうタイトルの短編があるんです。東根先生はよくかっこいいルビを振るんですけど、その短編の中で屋根裏部屋と書いてグルニエと読ませていたんです。それを見てなんとなくかっこいいなと思っていたので、いつか自分でも使ってみたかったんですよ」


「東根が書いたそのグルニエという短編小説だが、どういう話だったか覚えているか?」


「えっとですね……確かフランスの話で、パリで一人暮らしをしている男が主人公なんですけど、彼は自分の実家にグルニエがあった記憶があって、そこで兄弟たちと遊んだりしたことも覚えているんです。でも、母親と電話で話したときにふとグルニエの話をしたら、『そんなものうちにはない』って言われちゃうんですよ。不思議に思った彼はクリスマスに実家に帰った際にグルニエを探してみるんですが、どこにも存在しないんですね。集まった兄弟たちにも聞いてみるんですけど、やっぱり『そんなものは知らない』って言われちゃって……困惑したままパリのアパートに帰るんですけど、それから何年か後に弟だかが事故で亡くなってしまって、夜遅かったんですけど急遽実家に帰ったんです。そうしたら廊下の天井にグルニエの入り口が開いていて、そこから階段が引き落とされていて、主人公が何かに操られているみたいに、当たり前のように階段を上っていって……それで終わりだったと思います」


「嫌な終わり方だな……お前は普段、そんな話を好んで読んでいるのか」


「いえ、グルニエのお話は東根先生の作品だから読んでいただけでして、正直を言うと全然好みじゃなかったです。やっぱり東根先生の作品は死体が出てこないと物足りないんですよね」


「それはそれで理解できそうにないが、そうか。しかし……ここも、その存在しないはずのグルニエと同じなのかもしれないな」


「え、やっぱりグルニエがあるんですか?」


「階段の先がグルニエかどうかはわからないがな。もっと言えば上りではなくて下り階段という可能性もある。さっきも今も空間的な違和感はなかったが、唐突に入り口が発生して、そしてすぐに閉じるのかもしれない。たとえば、誰かが一人きりでお札の家や、蔵を訪れた時にな」


「そういえば飯尾さんが蔵を出て、東根先生が蔵に一人きりになったときに階段が現れて……今も、バッケちゃんが一人きりでお札の家に戻ったタイミングでしたよね」


「ああ。偶然かもしれないが、共通点といえばそのくらいだ。可能性としてはありえるな。だが、まずは一度蔵の方も見に行くぞ」


 杠葉さんが玄関に向かって来た道を戻り始めたので、私もバッケちゃんの手を引いて後に続く。


「私、そのおかしな階段が出てきたとして、行かないですからね……だって、戻って来られなくなったら怖いですもん」


「そこを行く以外にもう手段がないとなったら、東根の捜索を諦める。ないとは思うが、万一お前が異界に封じられでもしたら困るからな」


 え、あれ? 杠葉さんがデレた……?

 え、もしかして、私のこと好きなのかな?


「あの、あの杠葉さん。明日は高級なステーキ屋さんに連れて行ってください、杠葉さんのおごりで」


「行かん」


「あ、はい。行きませんよね、すみませんでした……」


 これはいったいどういうことだろうか、私のことが好きなんじゃないのかな?

 それとも、ただの照れ隠しか? うーむ、さっぱりわかんないぞ。


 お札の家から再び外に出る。廃屋の中はほこりっぽく、空気がよどんでいたので、外の新鮮な空気がとてもおいしく感じる。

 飯尾が言っていた通り、お札の家の隣に建つ蔵を囲む塀は、鉄板で完全に塞がれていた。鉄板を固定するのに使われているボルトなどもさびにより真っ赤になっているし、最近になって塞がれたわけではなさそうだ。

 杠葉さんの判断でこの蔵の探索は後に回すことになり、奥に建つ、東根先生が失踪した蔵へと向かう。

 こちらの蔵を囲む塀は塞がれておらず、錆びていて重たかったものの引き戸も動いた。

 ギイ、ガタ……ギギ、ガタタタッ……と音を立てて、何とか人が通れるくらいの隙間を作り、中に入る。

 いくつか物は置かれてはいたが、蔵の一階は飯尾が言っていた通り片付いていて、人が隠れられるようなスペースも、二つ目の階段も見当たらない。


「あとは、ひつぎのような物があるという二階か。ヤマコ、先に行け」


「いやもう、ほんとに、照れ隠しにしてもひどすぎますって。私だって怖いんですからね?」


「? 何を言っている? いいから早く二階に上がれ」


 眉間にしわを刻んだ杠葉さんに急かされてしまい、しぶしぶと階段に足をかける。

 好きな女の子にわざわざ怖い思いをさせて、嫌われちゃったらどうしようとか杠葉さんは思わないのだろうか? それとも、やっぱり杠葉さんが私を好きっていうのは私の思い違いなのかな? いや、だけど、吊り橋効果を狙っているとか、実は美少女の涙が大好物とかいう可能性もあるな……。


 そんなことを考えながら、階段――梯子はしごと階段を足して2で割ったような物――を上っていき、無事に二階に到着する。私の後に続いて、杠葉さんとバッケちゃんも二階に上がってきた。

 みんなできょろきょろと周囲を見回す。四方の壁に換気用の小さな窓があるだけの、物が一つも置かれていない、がらんとした空間だ。だが、全部の壁と天井に、びっしりとお札が張り巡らされていた。

 懐中電灯の灯りをあちこちに向けながら、杠葉さんが言う。


「何もないな、棺はどこだ? それに、飯尾は蔵の二階の壁中にも護符ごふが貼られていたなんてことは、一言も口にしていなかったはずだがな」


「ええと、東根先生がいなくなってから今日までの四日の内に、誰かが棺をどこかに持って行っちゃって、壁中にお札を貼ったとか……」


「絶対にないとは言い切れないが、数十年も放置されていた物が、この四日の間に持ち出されたのか? しかも、護符はどれもかなり年季が入っているように見える。まだ飯尾が嘘をついていたという可能性の方が高いように思えるな」


「あー、まあそういう可能性もありますよね、考えていませんでしたけど。ただ、そうだとしても棺があったなんて嘘をつく意味はわかりませんが……あれ、何か落ちていますね?」


 暗闇を見通すヤマコアイが、床の上に転がった手帳のような物を発見した。

 拾って読んでみると、なんとそれは東根先生のネタ帳も兼ねたスケジュール帳だった。


「ゆっ、杠葉さんこれっ、これ! 東根先生の直筆じきひつですよ! たぶん! もしかしたら新作の構想なんかも書かれているかもしれません! 字が凄く上手です!」


「何……? 飯尾はその手帳が落ちているのを見逃したのか? まあ、何か手がかりになるようなことが書かれているかもしれないし、あとで車で確認するか」


 四つある窓の内、階段を上って左手にある窓を――お札の家の側にある窓から外を見ていたバッケちゃんが、てててててっと駆けてきて、私と杠葉さんのコートの裾を引っ張り出す。

 少し驚いた様子で、杠葉さんが訊ねる。


「どうした?」


「いえ、ある」


 家がある? お札の家の他に、別の家が出現したとでも言うのだろうか?

 気になった私たちは窓際まで歩いていき、外を覗く。 

 しかし、お札の家の他には何の建物も見当たらない。


「んん? お札の家しか見えませんけど……」


 そう言って私は首をかしげるが、ふと杠葉さんを見やると顔が強張っていた。

 硬い声で、杠葉さんが言う。


「今俺たちが居るのは、塀が塞がれていた方の、探索を後回しにしたはずの蔵の二階だ」


「は? えっと、どういうことですか?」


「奥に建つ蔵からこちら側を見たら、お札の家との間に建つもう一つの蔵が見えるはずだ。蔵と蔵の距離が近いから、きっともう一つの蔵に隠れてお札の家は見えないだろう。だが、この窓からはお札の家だけが見えている……」


「えっ、えっ? でも、じゃあ、なんで東根先生の手帳がここに? 塀はさっき通ったときにも塞がれていましたし、東根先生は首と腰が悪くて乗り越えることもできないって飯尾さんが言ってて……」


大方おおかた、東根が見つけた、存在しないはずの二本目の階段がここに繋がっていたのだろう」


「ええっ? なら、今私たちが上ってきた階段もそうだったってことですか? だけど、蔵の一階には他に階段なんてありませんでしたよね?」


「何がどうなったのかは俺にもわからない。もしかしたら入り口を通って、蔵に入った段階ですでにこちら側に飛ばされていた可能性もある」


 突然、ぞわりと、全身に鳥肌が立った。

 まだ見てもいないはずの、四つ並べられた棺がなぜか、はっきりと想像できてしまう。

 その内の一つから、人間の女のような形をした黒いもやが這い出てくる。

 虫の声ひとつしない静寂を破って、プウウウウウウウウウウウウウウウッと緊急事態を報せるクラクションの音が外から聞こえた。

 直後に、ギイ、ガタ……ギギ、ガタタタッ……という物音が、下の階から聞こえてくる。多分、蔵の引き戸が開かれた音だ。

 そして……ギシィッ、ミシッ、ミシィッ……と、階段が下から一段ずつ、軋んで鳴り始める。


 もしももなかちゃんがここに居たなら、もうショック死しているかもな――現実逃避気味に、ふとそんなことを私は思った。

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