アンコ死す!?

 アンコちゃんの実家は美しい自然に囲まれた、とてもいいところだった。ヤバい大妖怪が封印されていることに目をつむれば、だけど。

 知らない間にどこかにいなくなっててくれたりしないかな、アンコ山の大妖怪……杠葉ゆずりはさんからは一対一で戦えだなんて言われたけど、勝てる気がしないどころか、妖怪を相手にどうやって戦えばいいのかさえ検討もつかないぞ。


 私とハッチーとバッケちゃんとでアンコていにせっせと荷物を運んでいた間、一人だけ何もせずに広い玄関の式台に腰かけていた杠葉さんが不機嫌そうに言う。


「正午には着く予定だったのに、もう二時だ。お前たちのトイレだの何だので時間を食ったせいで、思っていたよりも到着が遅れた。今日のうちに会津冷光れいこう家の大妖おおあやかし――『うんぬば』が封じられている現場の下見くらいは済ませておきたい。このまま山を登るぞ」


「うんぬば?」


 鬼とか妖狐ようことかならばなんとなく想像がつくが、まったく聞いたことのない妖怪の名前が出てきて私は首をかしげる。


「ああ。どういう字を書くのかはわからないが、そういう名前らしい」


「えと、全然姿が想像できないんですけど、どんな妖怪なんですか?」


「俺も詳しくは知らない。これまで先祖が溜めてきた資料の大半は十一年前の大騒動の際に紛失している。うんぬばという名も昔に祖父たちが話していたのを偶然に聞いただけで、当時の俺はまだ自衛もろくにできないような子どもだったから、大妖について詳細に書かれた資料を読むことはなかった。知るだけでもさわりが起こり得るからな」


 ええ……これから一対一で戦わせられる予定の大妖怪の情報が全然ないって、あまりにもひどくないか? ヤバいということ以外何もわからないのでは対策を考えることすらできないし、もうお祈りと現実逃避くらいしかすることがないぞ。

 名は体を表すなんて言われるが、うんぬば、うんぬばか……『うん』は運か雲だろうか、それで『ぬ』は怒か濡で、『ば』は羽とか馬とか婆とか刃とかかな……? それっぽい字を選んで並べるとしたら、雲濡羽うんぬばなんていいんじゃないか? だけど、もしこれが正解だとしたらカラスみたいなやつとかかもしれないし、空を飛ぶ可能性があるな……。


「ヤマコ、何を呆けている? 危険な山なのだからお前が先頭だ、早く歩け。時間がないと言っただろう」


 杠葉さんにせっつかれて、慌てて毛玉セーターの上に持ってきていたロングダウンコートを羽織り、けものみちすら見当たらない山の中を歩き出す。山を登ると杠葉さんは言っていたから、とりあえず傾斜を上がるように歩いていけばいいだろう。

 しかし、本当は人間なのに危険な山で先頭を歩かされるし、ヤバい大妖怪と一対一で戦えなんて言われてしまうし、いくらお給料が良いとはいえ式神になるのはまずかったかもしれないな……呪術めいた契約を交わしてしまった今となっては悔やんだところで手遅れだが。


「これバッケ、鳥なんぞ放っておくのじゃ。ほれ、また前みたいに迷子になられても敵わぬからのう、わちの手を握るがよい」


 後ろを振り返ってみると、木の枝にとまっている野鳥をじっと観察していたバッケちゃんにお姉さん風を吹かせたハッチーが手を差し出していた。

 オシャレさんな小さな先輩たちは今日もお揃いのコーディネートで、ボアブルゾンを着てタイツの上からレッグウォーマーをはき、手袋をはめて耳当てをつけた全身白くてモコモコとした可愛い恰好をしている。ちなみにだがハッチーは頭の上の狐の耳のほかに人間と同じ耳もついており、ちゃんと耳当てをつける意味はある。


 とはいえ、いつもならば可愛い恰好をした可愛い先輩たちを見ているだけで元気がわいてくるのだが、後に控えるヤバい大妖怪との一対一の戦いが憂鬱すぎて今はさすがに元気もでない。

 というか、バッケちゃんが注目していた野鳥がうんぬばということはないだろうか? うんぬばではなくとも、うんぬばの手下という可能性もあるかもしれない。まあ、うんぬばが鳥型の妖怪かもしれないというのも単なる思いつきだし、バッケちゃんは普段から色んなものをじっと観察しているので何とも言えないけど。うんぬばがどんな姿をしているのかまったく情報がないせいで、何もかもが怪しく思えてくるな。


 とにかく注意をしないとと思うが、ひたすらに山を登り続けていると実際はただの人間である私は疲労をするし、当然ながら集中も切れてしまう。

 ぜえはあ言いながらそれでも懸命に歩を進めていると、何か縄のような物に足を引っかけてつんのめる。

 ブツンッという、何かが千切れたような感触がした。


「あわっ!?」


 危うく転んでしまうところだったが、後ろから杠葉さんに肘のあたりをつかまれて、なんとか持ちこたえた。

 足元に目をやると、枯れた色をした雑草の中に同じような色をした、千切れた荒縄が死んだ蛇みたいに横たわっている。

 もしかせずとも、これが封印だったんじゃないのか?


 杠葉さんが溜め息をついて、声をかけてくる。


「お前は元々山の妖怪だろう、ヤマコ。それが山で転ぶなど不注意にもほどがあるな」


 どうやら、杠葉さんは私が縄を切ってしまったことにまだ気がついていないようだ。

 私が不注意で封印を破ってしまったかもしれないことが杠葉さんにバレたら、怒られてしまうかもしれない。

 怒られたくない私は顔を青くして、ない頭をひねって必死に言い訳を考える。あまり長く黙っていると不自然に思われてしまうから、とにかく何か答えないといけない。


「あっ、えと、えと……なんだか、ここから先は空気が違うといいますか、なんといいますか……そうです、嫌な気配を感じたんです! そう、高い位置から気配を感じました、たぶん木の上にいます! 凄く嫌な感じの気配でしたので、もしかしたらうんぬばかもしれないです!」


白髪毛しらばっけ蜂蜜燈はちみつとう、木の上に注意しろ。俺のそばを離れるな。ヤマコはそのまま先行して、その気配を探れ」


 私の嘘を鵜呑うのみにした杠葉さんたちは、高所を警戒しながら慎重に私の後ろをついてくる。

 みんなに嘘をついてしまった罪悪感から目を背けつつ、私もきょろきょろと辺りを見回してうんぬばを探している振りをする。


「むっ……確かに嫌な気配がするのう」


 私にはよくわからないが、本当にそんな気配がするのであれば多分私が封印を破ってしまったせいだと思う。

 というか、もしもこれでうんぬばが自由になってしまって、そのせいでアンコちゃんが死んじゃったりしたら、それって私が殺したようなものじゃないか?

 怒られるのが嫌でつい誤魔化してしまったが、今からでも正直に話した方がいいんじゃないだろうか?


 杠葉さんが鋭い目つきで周りを警戒しながら、それでも焦りは見せずに平淡な調子で言う。


「まずいな、気配がどんどん濃くなる。ここに封じられているというよりか、もっと単純にここに居るような感じだ。どうやら、すでに封印が破られていたようだな……多分、今も見られているぞ」


「だとすれば、待ち構えられていたということかの。杠葉よ、これはいったん退いた方がよいのではないか? ヤマコが来ても逃げないということはじゃ、相当厄介な罠があるのかもしれぬ」


「確かにな……仕方ない。一度戻って、まずはこの山からやつを逃がさないように結界を張る。そして明日、改めて準備をしてやつをはらう」


「まあ、それが無難じゃの。今日は下見のつもりじゃったからのう、やり合うには準備不足じゃろう。ろくに下見できとらんのがちと痛いが、この状況じゃどうしようもあるまい」


「山を下りる。殿しんがりはヤマコに任せる、行くぞ」


 今度はハッチーを先頭に、杠葉さんを間に挟んでバッケちゃん、そして私と続く。

 すると、ふいにバッケちゃんが足をとめてじっと地面を見つめだした。すぐにそこが例の荒縄が通っていた辺りだということに気づいた私は震えあがり、バッケちゃんの小さな背中をぐいぐい押して無理やりに歩かせた。

 そして中腹にあるアンコ邸を通り過ぎて山を下り、だいたい70歩分を歩くごとにテントを張る際に使うペグくらいの大きさの和釘を地面に打ちながら、ふもとをぐるりと一周するように歩いた。杠葉さんいわく、短い期間であればこれでうんぬばをアンコ山に閉じ込めることができるらしい。


 そんなこんなで再びアンコ邸に戻る頃にはもう日が暮れており、アンコ山には他に人家もなく街灯のような明かりも一切存在しないため、辺りは真っ暗になっていた。しかし、呪いの勾玉まがたまのせいで――美少女様を取り込んでしまったせいで目がおかしなことになっている私は懐中電灯なんて持たずとも問題なく歩けてしまう。


「おおっ、ヤマコの目が緑色に光っておる!」


「恥ずかしいんで嫌なんですけど、なんでか暗いところだと私の目光っちゃうんですよ」


「か、カッコイイのう! わちの目もそのくらい光るようにならんかのう!?」


「いやー、わざと光らせてるわけじゃありませんから、なんとも言えませんけど……かっこいいですかね、これ?」


「めちゃカッコイイじゃろうが! じゃってビームが出てるみたいじゃぞ、ビーム!」


 うーむ、ビームが出てるみたいだからこそ、私としては凄く恥ずかしいのだが。これをかっこいいと言えるような感性を持った人はなかなかいない気がするぞ、ハッチーは妖怪だからちょっと感覚がおかしいんだろうな。


 アンコ邸を出発するときに玄関の電気をけていなかったために、暗い中で鍵穴が見つからずに苛々している杠葉さんが言う。


「少しは静かにできないのか、お前たちは? ……くそ、自分の家なら何となくわかるが、他人の家の鍵穴なんてどこにあるのかまったくわからん。ヤマコ、顔を近づけて俺の手元を照らしていろ」


「あ、はい」


 ついには懐中電灯として使われる始末である。

 というか、私を妖怪だと思い込んでいる杠葉さんやハッチーたちの前だから恥ずかしいくらいで済んでいるが、例えば学校が始まってクラスメートとかに目がこんな風に光っているのを見られたら普通に騒ぎになりそうだ。隠す方法が思いつかないので、暗所恐怖症とかいう設定をでっち上げて暗いところに入らないようにするしかないかもしれない。


 ガチャリと音がしてようやく玄関の鍵が開き、杠葉さんがアンコ邸に上がって電気を点ける。ハッチーとバッケちゃんに続いて、殿を務めていた私も中に入って玄関の鍵を閉める。

 そのまま居間らしき広いたたみ敷きの和室へ行くと、杠葉さんが持ってきた灯油を給油ポンプを使ってストーブのタンクに移しつつ言う。


「ヤマコ。普段蜂蜜燈と白髪毛の世話をしている杏子あんずが今日はいない。だから、代わりにお前がこいつらに食事をさせて風呂に入れろ」


「わちは自分でできるわ、阿呆あほうが!」


 とハッチーが抗議したが、杠葉さんが無視しているようなので流して話を進める。


「わかりました。えっと、杠葉さんのごはんも用意しましょうか? お湯を注ぐのは慣れていますし」


「さすがにカップラーメンくらいは自分で作れる。腹が減ったときに勝手に食べるから俺のことは気にしなくていい、お前はこいつらの世話をしろ。ああ、あと白髪毛の歯も磨いてやれ、自分ではまだ磨けないからな」


「了解です。それじゃ、私たちはさっそくディナーにしちゃいましょうか?」


「そうじゃな!」


 ハッチーが勢いよく返事して、バッケちゃんもこくりと小さく頷く。

 昼間のうちに車から運び込んでおいた荷物の中から、食べたいカップラーメンを物色する。私はお姉さんなので、まずはバッケちゃんに選ばせてあげることにした。

 ひとつずつ手にとってバッケちゃんに見せていくと、きつねうどんのところで「ん」と頷く。きつねは妖狐であるハッチーが好きなんじゃないかなと思い喧嘩にならないか少しだけ心配だったが、ハッチーは「わちはシーフードのビッグサイズじゃ!」と言ってきつねには見向きもしなかった。どうやら油揚げよりも魚介の方が好きらしい。ちなみに、私は無難に油そばにした。酢やマヨネーズやコショウやラー油といった味変用の調味料がないのがちょっと不満だが、素の状態でもおいしいのでそこはまあ我慢しよう。


 キッチンで見つけて軽く洗ったヤカンで沸かしたお湯をそれぞれの容器に注いで数分待ち、調理したカップラーメンをみんなで食べていると様々な不安を忘れて幸せな気持ちになってくる。私は結構カップラーメンが好きなのだ。私的おいしいものランキング1位がワクドナルドとケンタくんフライドチキンとモグバーガーで、カップラーメンはたぶんその一つ下くらいに位置する。なお、お母さんの料理は高級レストランみたいであまり好きじゃない。ホワイトソースのことをベシャメルソースとか言うしな、お母さん。


 食事を終えて、三人分のカップラーメンの容器を軽くお湯ですすいでゴミ袋に入れると、今度は浴室に行ってやたらと広い湯舟を持ってきたスポンジと洗剤でがんばってゴシゴシと洗う。

 十分ほどかけてピカピカにした湯舟にお湯を溜めつつ、待っている間が暇なのでみんながいる居間へと戻ると、杠葉さんが壁や床に何かの粉末を撒いていた。


「なんですか、それ?」


「これはズコウだ。魔除けになるから、今晩俺が寝るこの居間に撒いている」


「図工?」


「塗る香りと書いて塗香ずこうだ。塗香であればどのような香りのものでも魔除けになるが、白檀びゃくだんを選んだのは単純に俺が好きな匂いで、寝るときに香っていてもあまり嫌ではないからだ」


「そういえばなんだか懐かしいような、落ち着く匂いがしますね。たくさん部屋があったと思いますけど、居間で寝るんですか?」


「ストーブもここにしかないし、荷物も全部この居間に置いてあるからな。ある程度の防御を施した上で、念のために白髪毛と蜂蜜燈も置いてここで寝るつもりだ」


「ん……? あれ、私は別なんですか?」


「ヤマコはうんぬばに対するおとりだ、二階の大広間を開け放って寝ろ」


「え? 囮? え、え? 私一人でですか?」


「山の外にうんぬばが出られないように結界を張ったからな。もしもやつにヤマコを含めた俺たちを倒さねば自由になれないと理解する頭があったなら、ヤマコが一人で魔除けの一つも置かずに寝ていれば好機と見て仕掛けてくるかもしれない。そうなってくれれば、できるだけ早くやつを祓って家に帰りたい俺としては都合がいい」


「は……?」


「ブザーが鳴っているぞ、風呂ができたんじゃないか? 早く行って湯を止めてこい、ヤマコ」


 追い払われるようにして居間を出て、速足で浴室に向かう私の心中には嵐が吹きすさんでいた。

 もう何も考えたくない、不安なことは全部忘れてしまいたい。なんで私は杠葉さんの式神になんてなってしまったのだろうか? いくらお金が貰えたとしても、ろくに使えずに死んでしまったら何の意味もないという事実にようやく思い至った。


 だけど、もうどうしようもない。

 近いうちに私はうんぬばにやられて死んじゃうかもしれないが、だからこそ、今のうちにできるだけ生を満喫しよう。とりあえず不安になることは考えないようにして、ハッチーとバッケちゃんとのお風呂タイムをまずは楽しもう。今を楽しむんだ。


 湯舟にお湯が溜まっていることを確認して蛇口を閉めると、ふたたび居間へと戻った私は背後からハッチーに忍び寄り、がばっと抱きつく。


「ハッチー捕まえました! さあ、みんなでお風呂に入りましょう!」


「ぬお、なんじゃ!? ヤマコ、超元気じゃな!? 半端ない大妖を退治しに来とるのに、おぬしときたら余裕じゃのう!」


「違います、私は妖怪退治しに来たんじゃありません、旅行に来たんです! ハッチーとバッケちゃんと楽しい旅行なんです! ほら、バッケちゃんもお風呂に行きますよ!」


「ぬう!? わちを引きずるでない! バッケもとらんでわちを助けんか!」


 洗面所とは別に用意された脱衣所に小さな先輩たちを連れて入ると、三人分の着替えが入ったトートバッグを棚に載せて、さっそく私はバッケちゃんのモコモコとしたボアブルゾンを脱がしにかかる。


「はい、脱ぎぬぎしますよ、ばんざいしてくださいね」


 言われるがまま、素直に両手をあげてくれるバッケちゃん。そのままタイツやら何やらも全部脱がせて、裸にいたバッケちゃんを浴室に入れる。

 そして振り返ると、残念なことにハッチーは自分で服を脱いでしまっており、すでにすっぽんぽんだった。ハッチーの服も私が脱がせてあげたかった。


「さむっ! 本家も山の上じゃしそれなりに寒いが、ここはもっと寒いのう! わちも入る!」


 そう言ってハッチーが私の脇を走り抜けて浴室に入っていき、直後にジャボンッと湯舟に飛び込んだような音が鳴る。


「ふああ~、やっぱり寒いところであったかい湯舟に浸かるのは気持ちがいいのう! とはいえ、もうちょっと熱い方がわち好みじゃな! ヤマコ、これもっと熱くできんか!?」


 自分の服を脱ぎ終わり、私も浴室に入って、広い湯舟の中で騒いでいるハッチーに言い訳する。


「だって小っちゃい子がいますし、ぬるい方がいいかなと思ったんです。バッケちゃんが熱くて入れなかったらかわいそうじゃないですか」


「確かにバッケはチビじゃしお子様じゃが、鬼じゃ! 熱湯だって平気じゃぞ! ほれ、熱い湯を足すのじゃ、ほれ!」


 ハッチーにせっつかれて、本当は早くシャワーを浴びたいのを我慢して湯舟に熱いお湯を足していく。雇用主といい上司といい、人使いの荒い職場である。


「ていうかハッチー、山に登ったり散々歩き回ったのにシャワーも浴びないでいきなり湯舟に入らないでください」


「かっかっか! 心配いらぬ、わちがあの程度の山歩きで汗なんかかくわけなかろう!」


「汗はかいてなかったとしても、土埃とかそういった汚れが絶対についてると思いますけど……」


「これ、ヤマコ! アンコや杠葉のような小言はよさぬか、せっかくここには妖怪しかおらぬのじゃからな!」


「はあ……ほんとは私、人間なんですけど」


「ん、何か言ったか? 湯をくんでる音がうるさくて聞こえん!」


「なんでもないです。湯舟の温度はこれくらいで大丈夫ですか?」


「うむ! さすがヤマコじゃな、ちょうどよいぞ!」


「まったくもう、調子がいいんですから。そうしたら、ハッチーはそのまましばらく湯舟に浸かっていてください、まずはバッケちゃんを洗っちゃいます」


「うむ、わちはもうしばらく湯舟に浸かっておるぞ!」


 ようやくハッチーがおとなしくなったので、改めてお湯の温度を調節してシャワーに変えて、バッケちゃんを本家から持ってきた黄色いプラスチック製のお風呂椅子に座らせる。

 その後ろで私は膝立ちになり、バッケちゃんの真っ白でサラサラな長い髪の毛を指ですく。


「じゃあまずは髪の毛を洗いますから、ちゃんと目を閉じていてくださいね」


「ん」


 返事があったのを確認して、バッケちゃんの頭にシャワーのお湯をかける。それから、手のひらにとったシャンプーに少量のお湯を混ぜて泡立てて、バッケちゃんの頭を優しく丁寧に洗っていく。触って初めて気がついたが、バッケちゃんの頭には長さ1センチメートルほどの短いが硬く尖った角が二本生えていた。

 可愛い角もよく洗い、泡をしっかりとお湯ですすいで、手で軽く髪の毛をしぼってピンク色のタオルキャップを巻く。


「はい、できました。じゃあお顔と体も洗いましょうねー」


「ん!」


 洗髪されるのが気持ち良かったのだろうか、表情こそ変わらないものの、バッケちゃんがさっきよりも元気に返事をしてくれる。

 体が小さいので洗うのはすぐだったが、とにかくスベスベしていてモチモチしていて、小さな子どもの肌って凄いなあと何だか感動してしまった。


 私は洗い終わったバッケちゃんを持ち上げて湯舟に入れると、代わりにハッチーの手をつかんで引っ張り上げる。


「んお!? なんじゃなんじゃ!?」


「次はハッチーの番です、綺麗にしてあげますね」


「は? わちは自分で洗えるわ、ちょっ!?」


「いいから座ってください。私は今をめいっぱい楽しむことに決めたんです。だって、もうすぐうんぬばにやられて死んじゃうかもしれないんですから。ハッチーが嫌がっても怖くないですよ、どうせ私なんて明日には死んじゃうかもしれないんですから!」


「はあ? ヤマコ、なんだかおぬし様子がおかしいぞ、落ち着かぬか! ええい、尻を撫でるでない! ぬわっ、わちを助けるのじゃバッケ! はよう!」


 ハッチーが「ぬわーーーーッ!!!?」と悲鳴を上げたせいで、廊下から杠葉さんに「気が散る、静かにしろ!」と怒鳴られた。何か集中が必要な作業をしていたようだ。

 お風呂を上がると、私は先輩たちにパジャマを着せたり、先輩たちの髪を乾かしたりしてから、最後にバッケちゃんの歯磨きに取りかかる。


「はい、アーンしてください」


 バッケちゃんが「あー」と言いながら、小っちゃいお口を開く。先が鋭く尖った小っちゃい歯が綺麗に並んでいた。

 やっぱり鬼って肉食なんだなと思いつつ、私は力を入れないように気をつけながら手早くバッケちゃんの歯を子ども用の小さな歯ブラシで磨いた。

 紙コップにくんだぬるま湯で何度かうがいをさせて、パジャマ姿のバッケちゃんとハッチーを引き連れて居間へ戻る。


 座椅子に腰掛けて、薄い木片に筆で墨を塗っていた杠葉さんが顔を上げて言う。


「見たらわかるだろうが、明日のために準備をしているところだ。邪魔をするな」


 これがパワハラというやつだろうか。お風呂から戻ってきただけで、私たちはまだ喋ってすらいないのにひどい言い草である。


「さすがに言いがかりですよ。命が懸かってるのに邪魔なんてするわけないじゃないですか」


「そうだ、命が懸かっている。こうした面倒な作業を行うのも、ヤマコが心置きなく一対一でうんぬばと戦えるようにするためだ。もしもヤマコがうんぬばを仕留め損なえばまず俺が喰われて死に、俺が死ねばこの山に張った結界が解けて自由になったうんぬばに杏子も弓矢も喰われるだろう。わかっているのならいい」


 いやいやいや、ちょっとやめてほしい。

 自分の心配だけでもいっぱいいっぱいなのに、そんな風にプレッシャーをかけないでほしい。うんぬばと戦う前にプレッシャーで死んじゃいそうだ。


 緑茶が入った2リットルサイズのペットボトルを「プハァッ」と口から離して、ハッチーがまくし立てる。


「暗っ! あいっかわらず杠葉はくっらいのう! ほんっとにおぬしときたらほんっとに……わちが育てたのになんでそんなに弱っちいんじゃ、ざこ!」


「事実を言っただけだ。俺はそういう覚悟で戦ってきたし、今回もそうするまでだ。それよりも、お前の飲んでるそのペットボトルだが本当にただのお茶か? 焼酎しょうちゅうのお茶割りか何かじゃないだろうな……お前は酒を飲むと妙に熱くなる」


「そんなわけないじゃろうが! いくらわちが酒好きとはいえ、いつ戦いになるかもわからぬのに酒なんぞ飲むわけなかろうが! 証拠隠滅じゃ! ング、ングングッ……!」


 ペットボトルの中身を一気飲み干したハッチーが、そのままふらふらと歩いていき、畳の上に横になる。

 すると、すぐに寝息が聞こえてきた。

 小さく嘆息して、杠葉さんが私に言う。


「ヤマコ。布団を三組敷いて、蜂蜜燈を寝かせてやれ。いつ戦いになるかわからない状況で酒を飲んでしまうような無責任な愚か者だが、とはいえ俺の育ての親であることに間違いはないからな。さすがに床に寝かせておくわけにもいかない」


「ほんとにハッチーに育ててもらったんですか?」


「ああ、俺はあやかしに育てられた。だが、こんなやつでも実の親や祖父よりかずっとマシだったぞ。妹を失ったことで当時の俺は抜け殻のようになっていたのだが、もしも父や祖父が生きていたら俺はそのまま人形にされていたはずだ」


 やれやれといった風に頭を振って、杠葉さんは木片に墨を塗る作業に戻る。

 私は広い畳敷きの居間に、別の部屋の押し入れで見つけた多分来客用の布団を三組並べて敷いた。やはり長い間使ってなかったようでなんだか埃っぽいし若干カビ臭さもあるが、まあ今から買いに行くのも難しいので我慢するしかない。


 やっぱりもう一組、私の分のお布団も一緒に並べたいなと思い、おそるおそる今一度杠葉さんに確認を取る。だって、私だってうんぬばが怖いのだ。それに杠葉さんがハッチーとバッケちゃんと寝るのに、女子高生である私だけハブられるって変じゃないか? いや実際はハブられてるわけじゃなくて、むしろもっとひどくて囮に使われるわけだけど。


「えと、あのですね、杠葉さん。やっぱり私もこの部屋で寝ちゃダメでしょうか? ほら、やっぱり近くにいた方がいざという時にも何かと都合がよさそうな気がしますし」


「いや、心配はいらない。この部屋の守りはそれなりに固いはずだ。俺のことは気にせずに、お前はうんぬばが現れたら逃がさずに仕留めることだけを考えていろ」


「うぅ、はい……」


 杠葉さんの有無を言わせない態度に、私はすごすごと引き下がるしかなかった。

 みんなと一緒に寝ることを諦めた私は敷いた布団の上に寝ているハッチーを引っ張り上げて、その隣の布団にバッケちゃんを寝かせて、居間から廊下へと続くふすまを開ける。


「えっと、それじゃあおやすみなさい」


 就寝の挨拶をした私を上目で見て、木片を墨で塗りながら杠葉さんが言ってくる。


「ああ、うんぬばが出たら頼む。期待しているぞ」


 ヤバい大妖と戦って勝つ自信がない私は頷くことができず、目礼だけしてそっと襖を閉めた。

 そして一人寂しく、冷え冷えとした板張りの廊下を、たいして厚くもない靴下一枚だけを履いた足で歩く。

 杠葉さんたちが普段暮らしている本家と同様に、この屋敷にも廊下を含めた全室に床暖房の機能が備わっているようだが、居間のストーブに入れる分の灯油しか持って来なかったので今は使うことができない。当たり前のことだが山の上なので平地よりも気温が低く、ストーブのない二階で朝まで過ごすのは結構辛そうに思えた。

 二階へ上がる階段を照らす電球はなんだか薄暗く、真っ暗闇でならば非常によく見える私の呪われた目でも微妙に見にくく感じる。まだ明かりを灯していない二階の暗闇の方がかえって見やすいくらいだった。


「なんか、気持ちが落ち着かないというか、ちょっと怖いし、行きたくないなぁ」


 ヤバい大妖が屋敷に入ってきたら杠葉さんやハッチーなんかが気がつくだろうし、さすがにうんぬばがすでに上に居るなんてことはないはずだ。


「……でも、あの勾玉を取り込んでから、普通にオバケみたいなのとかも視えるからなぁ」


 たいていの妖怪? やら幽霊? みたいなものは、私に気がつくと怯えて逃げていくのだが、だからといって急に変なものを視てしまって動揺しないわけもなく、たとえ相手が怯えていようが私は私でやはり怖い思いをする。

 こんなに雰囲気のある、それも実際にいわく付きのお屋敷で変なものを視てしまったら、多分よりいっそう驚くはずだ。

 何も居ませんようにと願いながら、恐怖心を誤魔化すために口笛でお気に入りのまつ囃子ばやしを奏でつつ、踏むたびにギシギシと音が鳴る階段を上がっていく。


「うん……よかった、とりあえず廊下には何も居ない」


 暗いところはよく見えるものの、何となく怖いので一応二階の廊下の電気も点ける。

 そして二間ふたま続きの宴会場のような広い和室と広縁ひろえん、廊下からだけでなく和室から広縁を通って行くこともできる書斎のようになっている洋室と、その洋室と扉で繋がっている広い物置部屋をやはり口笛を吹きつつ見て回り、物置部屋から再び廊下に出て簡易キッチンと洗面所とトイレも確認したが、そのどこにもおかしなものの姿はなかった。

 他にはもう部屋はないようだったので、杠葉さんが言っていた『大広間』はたぶん二間続きの和室のことだろうなと判断して、物置部屋で見つけた布団を運び入れる。

 どの辺りに布団を敷くかで大いに迷ったが、最終的に押し入れがない方の和室の隅っこに決めた。いざという時に押し入れに隠れるという選択肢もないではなかったが、押し入れに入ってしまったらそれ以上は逃げ場がない上に、もしもうんぬばが押し入れから登場したらと思うと凄く怖かったからだ。

 ちなみに、変なものが居ないことを確認したとはいえ完全には恐怖心を拭うことができず、布団を運ぶのも敷くのもやはり口笛を吹きながらおこなった。

 そして最後に、隣の押し入れ付きの和室と繋がる襖はもちろんのこと、本当に嫌だったが廊下側の襖も杠葉さんの指示通りに開け放した。しかし、広縁へと続くガラス障子しょうじは開けておくと冷たい空気が流れ込んできてあまりに辛かったので、そちらは閉じてしまった。本当に妖怪であれば寒さで体を壊すことなんてないのかもしれないが、何度も言うが実際には私は妖怪ではなく人間なので、あまりにも寒すぎると眠れないし最悪の場合凍死してしまう。


「電気は……一応、点けておこうかな。暗くても見えるけど、やっぱりオバケとか怖いし……」


 杠葉さんも電気を消せとは言っていなかったし、もしかしたら言い忘れただけなのかもはわからないけど、まあいいだろう。もしそうだったとしても、言い忘れてしまった杠葉さんが悪いのだ。

 電気を点けたままの広い和室の片隅に敷いた布団の上に、私は土壁に背中をくっつけるようにして横たわり、毛布を二枚重ねた上にさらに羽毛布団を三枚も重ねて体に掛けた。そして、仕方なしに目を閉じる。明日は明日でまた山に登ったりするのだろうし、怖いからといって眠らないわけにもいかない。


 最初は恐怖で眠れないのではないかと案じていたが、しかし、溜まった疲労のせいかすぐに眠気がやってくる。思い返してみればまず車に乗っての長距離の移動があり、それから山やその周辺を体感ではあるがおそらく10キロメートル以上歩き、さらにはうんぬばと一対一で戦うだとか退治に失敗したらアンコちゃんやらが死んでしまうだとかいう状況から発生する心労もあってで、当然といえば当然だ。


 何事もなく朝を迎えられますように、今夜うんぬばがやって来ませんようにと祈りながら、私は眠りに落ちた。

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