悪魔の所業

「……は?」


 何を言っているのか全く理解できない。

 いや、言っていることの意味は分かる。が、理解はできないししたくもない。


「申し訳ありません、ですわ」

「ちょっと待ってよ。笑えない冗談はよしてくれ」

「残念ながら、本当のことですわ」


 今現在俺の背中には半裸であろうヘカテーが触れているはずなのに、先程まで背中に集中してしまっていた神経は、今度は海馬の中に移動して俺の平常心をガリガリと削り散らし始めた。


「そんな、わけ、そんなわけないだろ!」


 俺は空に引っ張られるように勢いよく立ち上がり、振り返ってヘカテーを見た。

 そこには見たことのない悲愴な表情のヘカテーが、両腕で胸を隠しながらうずくまるようにして地面で小さくなっていた。

 わあ、本当に脱いでるー、とか、パンツ一丁でお揃いだー、とか暢気のんきに考えられる余裕は俺には一切なくなっていた。


「ユウスケ、あなたには深く謝罪しますわ。でもどうか分かってほしいですわ。それがマリナストライアの為、だったんですの」


 どれがだ? どれがマリナの為だ?

 俺の心を捻じ曲げてマリナの恋人に強制的にすることがか?


「ちょっと、待ってくれよ」


 それじゃまるで悪魔の所業じゃないか。

 お前はやっぱり、本当に悪魔だったんだな。


 ヘカテーはそれ以上何も言わない。

 俺も続く言葉を発することができない。

 しかしながら都会の喧騒のように頭の中はぐちゃぐちゃにざわついている。


 俺の頭の中だけが乱れ狂っている長い沈黙。


「こんなところに隠れて、探すのに苦労したよ……って、キミらこれどういう状況?」


 その沈黙を割り、まるで暖簾でもくぐるかのように次元の狭間に入ってきたのは、オレンジ色のキュートな喫茶店制服姿のツクヨミノミコトこと月弓だった。

 

 どういう状況? 俺が訊きたい。

 今までの俺のこの気持ちが操られた偽物の可能性があると言われて、冷静でいられるわけがない。


「うーん、別に僕は生物の繁殖行為に否定的な立ち位置の神ではないけど、自分の恋人を救うために転移した先で、違う相手との営みってのも……まあこれはこれで人間の本能というやつなのかな」


 ん? 何言っているんだこのヒト。

 繁殖行為?


 月弓の直訳不明な言葉で冷静になった俺は、あらためてうずくまるヘカテーを見た。

 うん。可愛い白のパンツ一丁だった。

 そして俺も仁王立ちしながら、パンツ一丁だった。


 まあ、はたから見ればそういう状況にも見えなくもないわけで。


「………………いやいやいや!! 別にそういうことをしようとしてたわけじゃないですよ!」

「そうかい。なかなかお似合いだとも僕は思ったけど。じゃあどうしてそんな格好を?」

「これは、その……」


 戻りたての冷静さをかき集めて海馬を辿る。

 えーと、服が怪物の唾液まみれになって、危険だから脱いで、寒くて、


「暖め合っていただけです!」

「愛を?」

「身体を!!」

「ふーん。怪しいねえ。マリナちゃんに言いつけちゃおうかなー」


 おい! ヘカテーも蹲ってないで反論に加勢してくれ! って、そんな格好させている俺が悪いか。


「どちらにせよとりあえず、二人とも服を着てよ。話があるから」


 月弓は吊り目を閉じてそう言うと、鼻から溜息を漏らした。

 すっかり寒さも感じない程、俺は脈が乱れている。

 とにかく、いったん落ち着くしかないようだ。


 * * *


 月弓はオルトロスの唾液で溶けかけた俺の衣類を一瞬で新品同様の状態にしてくれた。

 衣類の時間だけを数年戻したようだ。時間を司る神は伊達ではなかったが、使い方がしょぼい。


「さて。ヘカテーちゃんもユウスケ君に真実を告げたようだし、そろそろと行こうかな」


 灰色がかった次元の狭間の中で、月弓はポケットから煙草を取り出して一本咥えたが、どうやら火が無いらしく自身の制服を両手でパタパタと触っていた。

 動きをやめて一つ小さく唸った後、体育座りをしてしょんぼりしているヘカテーに、


「ヘカテーちゃん、火、貰えるかな」


 と言った。

 ヘカテーは俯いたまま右手を上げ、人差し指を立ててから、


発火フォーティア


 と小さく唱えると、指先からまるでガスバーナーのように火が出た。

 月弓は「どうもー」と吊り目を細めてから咥えたままのタバコをそれに近づけて火をつける。

 プハッと上向きに大きく煙を吐いてから、月弓は空を見つめたまま再度口を開いた。


「これから、マリナちゃんの居た時代、地球時間換算だと百年と四ヶ月前に向かうよ。ユウスケくん準備はいいかい?」

「百年前、ですか」

「そうだとも。それを強く望んだのはユウスケ君、キミでしょう?」


 月弓は鋭い目を向けてくる。

 そうさ。俺がマリナを救う為に望んだことだ。その筈なんだ。


「釈然としない顔だねえ。まあ、無理もないとは思うよ。想いまで操られてるとなっちゃあね。それでもだ」


 月弓はもう一つ大きく喫煙し、灰色の空に向かって煙を吐いた。


「ユウスケ君、キミは既に何度も神の力を利用している。今更、『待った』なんて効く状況だとは思わないことだよ」

「……」


 そんなことは分かっている。

 でも、もしかすると俺を突き動かしてきた感情は全て紛い物かもしれない。そう考えると俺はどうしていいか分からなくなる。


「ユウスケ君、自分の言ったこと、忘れてないよね?」

「言ったことですか」

「ここに来る前さ。あまてら……ルメ姉さんに頼む時の言葉さ」


 ――俺、なんでもしますから!


「それに、そこの悪魔とも契約を交わしたんでしょう?」


 ――誓うよ。俺は絶対にマリナを救う。何があっても。どんな事実を聞いても。

 ――ああ。悪魔との誓いだ。


 そうだ。そうだったな。


「ありがとうございます、月弓さん」


 例えこのマリナへの気持ちが作られたものだとしても、今の俺はマリナを助けたくて仕方がない俺だ。今の俺の気持ちは、今の俺に嘘など吐かない。


「それにヘカテーちゃん、取り乱してごめんな」

「ユウスケ……」


 漸く顔を上げたヘカテーに、俺はできるだけ自然な笑顔を作る。


 冥魔法? 紛い物?

 そんなことはどうでもいい。洗脳を解いた時のことなど、解けた時の俺が考えればいい。

 今の俺は、マリナが好きで、マリナを救うために動く俺だ。


「月弓さん、お願いします」

「吹っ切れたみたいだねえ。つくづく人間ってのは不自由な生き物だよね。魔法なんかに翻弄されてさ。まあでも、僕も繁殖行為には多少興味があるんだけどねえ。動物はその為に生きていると言っても過言ではないようだし」

「月弓さん?」

「本能にインプットされているんだろうけど、そうまでして望むその行為は、果たしてどのくらい満たしてくれるのか。未経験の僕としてはちょっと知ってみたいところだけど」

「月弓さん!」

「分かってるって。ヘカテーちゃんもほら立って。さあ、二人とも僕の両手を握ってくれるかな」


 言われるがまま、俺は月弓の右手を、ヘカテーは左手を握る。


「それにしてもユウスケ君も大変だねえ。四半魔と恋人で、半魔と同棲もして、それにお友達のつかさちゃんからも想われてて。隅に置けないねえ」

「月弓さん!!」

「もし全部が終わって、ユウスケ君が良ければ、僕ともいろいろシテみる? 僕も興味があるんだよねえ。肉体くらいいくらでも調整が利くしさ。どう? 大人のお姉さんと、危ない関係ってのも悪くないんじゃない?」

「月弓さん!!!!」


 じゃない! それにお姉さんですらないんでしょうが! あなた性別無いとか言ってましたよね。


「あははは、ユウスケ君怒った顔面白いね」

「ふざけていないで、早くお願いしますよ!」

「ん? 何が?」

「何がって、百年前に行くんでしょ!?」

「ああ。もう着いてるよ」

「え?」


 辺りを見渡してみたが、灰色がかった森が広がっていてあまりさっきとの違いが分からない。

 ヘカテーも同じ気持ちらしく、俺と顔を見合わせてから眉を寄せていた。


「ヘカテーちゃんが作ったこの次元空間をちょっと利用させてもらったよ。この空間以外の、この星『グリース・アステリ』の時間を九十一ペリオッ……じゃなくて百年とちょっと戻した。マリナちゃんやヘカテーちゃんが地球に転生した直後の時代なはずだよ」


 月弓はそう言うと再びタバコを一本咥えた。

 そしてポカンとしているヘカテーに「火、ちょうだい」などと言っている。


 全く実感はないが、どうやらマリナが存在していた時代のプリュギア、正確にはその近くのヘカテーの根城であった東の森に来たようだ。

 ってマジかよ。時間酔いとか衝撃とか、何かそういうのあるもんじゃないのか、普通。


 ヘカテーは指を下から天目掛けて振り上げ、それと同時に次元の狭間空間が下から蒸発するように消えて行った。

 俺達は色鮮やかな森の中に舞い戻る。同時に寒さと木々の匂いも感じた。


「ヘカテーちゃん、火……」


 月弓がタバコを咥えながらヘカテーにそう言うが、ヘカテーはそれが聞こえてか聞こえずしてかフワッと数メートル浮き上がり辺りを見渡している。

 暗がりで見えそうで見えないヘカテーのスカートの中を見つめながら、俺はあらためて考えていた。


 俺のやるべきこと――この時代のこの世界で、マリナの希望となる何かを見つけださなければ。

 マリナを救う。それが今俺が此処にいる理由だ。


「ありましたわ。あっちに行きますわよ、ユウスケ」


 ヘカテーは遠くに何かを見つけたようで、浮いたまま進み始めた。

 俺はというと……仕方ない、ついていくしかないな。


「火ぃぃ……」


 俺が歩き出すと同時くらいにそう言った月弓は、いつの間にか吊り目が垂れ目になっていた。

 うん、東の森ここは禁煙ということで。吸いたいなら次元の狭間喫煙所に行ってください、月弓さん。

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