第二章 異世界(プリュギア)編

転移した先は

 暗闇の中、フローラルな香りが鼻に届く。

 嗅いだことのあるこの匂いは……。


 徐々に浮上する意識とともにゆっくりと目を開けると、目の前には少し童顔な美少女の顔があった。

 どうやら目の前の美少女の髪の毛からの匂いのようだ。


 気を失っているであろう美少女と顔が触れそうなほど近く、即座に離れるべき理性と離れたくない本能が俺の中でせめぎ合って心臓が激しくなっていると、


「う、うーん……」


 目の前の美少女は目が覚めたようだ。バッチリと目があった。

 綺麗な紫と赤い瞳だった。


「あら、人間。わたくしに欲情ですの?」


 ニヤリと口角を上げた目の前の美少女はヘカテーだった。

 ……いやヘカテーかよ。なんだよビビらせるなよ、誰だよフローラルな香りとか言ったの。俺んちのヘアシャンプーの匂いじゃねえか。


 落胆を胸の内で叫ぶ傍ら、心臓の高鳴りが治まらないのはきっと人間の醜い本能由来だなと勝手に結論付けてから俺は上体を起こした。

 辺りを見回して気付く。明らかに地球のそれではなかった。


 空には月のような輝くものが三つはあるし、見たことのない紫色のバネ状の葉っぱの枯れ落ちた木ようなものがそこらじゅうに生い茂っている。

 先程まで俺が倒れていたやたらと湿っていた地面にも、青紫色のキノコのような植物が生えていた。


「どうやら着いたようですわね。間違いなくここはグリース・アステリ星ですわ。わたくしやマリナストライアの元居た世界ですわ」


 遅れて立ち上がったヘカテーが赤い長髪をこれでもかと言わんばかりに手ではらってからそう言った。


 どうやら、ルメさんの力で無事にプリュギアのある世界に来られたようだ。

 しかし、もう一人の姿が見えない。


「ヘカテーちゃん、月弓さんが居ないぞ」

「そのようですわね」


 夜なのだろうか、それにしては目映い月光のお陰で明るいが、恐らく森の中であろう現在地からは不気味な木々以外は目に入らなかった。

 風で揺れる葉擦れの音は、どうやら全宇宙共通のようで少し安心した。


「とりあえず、月弓さんを探さないと。ルメさん曰く、ここってヘカテーちゃんが居た時代の百年後ってことなんだろう?」

「さあ。今のところはわかりませんわ。それにしてもあの堕落者、趣味の悪いところへ飛ばしてくれたものですわね。一応、わたくしが根城にしていた森のようですけど」

「そうなのか!」


 ほう。……こんな気持ち悪い風貌の森に棲んでたんだね。悪魔らしいっちゃらしいか?

 というか俺もサッパリ異世界転移を受け入れちゃっているけど……逞しいね、俺の精神。


「とりあえず、月弓さんを探そう! じゃなきゃ百年前に戻れなさそうだし、マリナを救うならその時代に行かなきゃだしな」

「待つのですわ人間」

「どうしてさ? 月弓さんだってきっと、そう遠く無い所にいるはずだよ」

「いいから待つのですわ! ……この状況、分かりませんの?」

「何が?」


 ヘカテーは頻りに目線をキョロつかせていた。

 俺はじっと辺りに注意を凝らしたが、葉擦れの音以外聞こえてこない。周りにも変な紫の木みたいなもの以外は見当たらなかった。


 ――待てよ?


「葉擦れ?」


 ヘカテーが『森』というここには確かに趣味の悪い魔界の木のようなものは生えているが……それには葉っぱなど付いていない。地面にあるのもキノコのような物のみ。ではこの音は……。


「人間、私が合図したらその場に伏せるのですわ。いいですわね?」

「伏せるって、どういうこと?」

「いいから言うことをきくのですわ。でなければ命の保証はないですわ」


 ヘカテーが言い終わるや否や、俺達が立っていた地面がグワンと動き、俺は転倒した。

 地面の青紫色のキノコのようなものは波打つように激しく動き、辺りの木々らしきものがゆっくりとこちらに向かってきていた。

 揺れに翻弄され四つん這いで必死に耐えながら空に浮く(ずるい)ヘカテーを見ていると、どうやら木々らしき紫色はヘカテーにゆっくりとつどっているようだった。

 まるで森に捕食されていくような光景だ。なんてところに住んでたんだよヘカテー。


 あと数秒でスパイラル状の木々に触れるという時に、


「人間、今ですわ!」


 ヘカテーが叫んだ。と同時に俺は伏せる、というか揺れでそもそも立てない。しかし匍匐ほふく前進のようにできる限り身を低くした。地面の湿り気が気持ち悪い。


「――気刃翔舞バルぺタグマ!!」


 直後、ヘカテーの叫声きょうせい木霊こだました。

 目一杯視線を上げて見ていると、ヘカテーを中心に白色透明の輪が広がっていき、そこから音と呼べないような重低音を伴って同色のビームみたいなものが凄まじい速さで柱のように上空に伸びていった。

 ヘカテーの放ったビームらしき魔法は、近づいてきていた紫色の木々らしきものは粉々にし、さらには三つの月が浮かぶ空すらも突き破ってはるか上空へと消えて行った。空すらも破壊とか物理法則どうなってるんだ?


 音と振動が落ちつき、改めて立ち上がって辺りを見渡すと、不思議な事に気付いた。


「空が、ある?」


 先程ヘカテーが魔法で突き破り壊したように見えた空は、月こそは無くなったが現在も綺麗な星空を伴って存在していた。

 そして、周りには見慣れた植物が生い茂っていた。地球によく似た木々。俺が立つ場所より低い位置にある地面にはよく似た雑草が生い茂っている。


「何をいってるんですの、人間」

「えと、だってさっきヘカテーちゃん、三つの月が浮いた空を魔法で壊して……」

「三つ? ああ、あれは目ですわね。口の中にも目があるなんて、全く悪趣味な魔物ですわ」

「?」


 ちょっと待て、冷静になろう。目を閉じて深呼吸をして改めて俺は周りを見渡した。

 地面に生えている青紫色のキノコのような物。

 先程まであった辺りの紫色のらせん状の木々は、根こそぎ粉々になっている。


 後ろを振り返って、俺は悲鳴を上げそうになった。

 俺が立っている湿った地面と線路で繋がるように、魔法後に現れた森の中を這っていたであろう半分から上が無くなった残骸。そう、まるで巨大な蛇のように……。


「私たちはオルトロスの口の中に転移させられたのですわ。私不在の森に巣食うなんて、躾のなっていない魔物ですわね。あの紫の歯に触れていたら今頃私たちは骨も残っていませんわ」


 みるみる自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。

 趣味の悪い木々だと思っていたものは魔物の歯で、月浮かぶ空だと思っていたものは光る目が浮かぶ上口蓋で、葉擦れの音だと思っていたものは呼吸の音で……。

 そして、俺が寝ていたり四つん這いになったり伏せたりしていた、キノコ生える湿り気の多い地面は――。


「さあ人間、さっさと唾液まみれの服を脱ぐのですわ。一応、微弱ながら唾液にも毒性がありましてよ。の上でごろごろしてた人間は少し危険ですわ」


 俺は悲鳴をあげた。

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