嫉妬の悪魔
エリュが嵐のように俺の家の食品を食い尽くして去ってから数日後。
本日は土曜日、本来なら仕事は休みなのだが――。
「ユウスケ様、そろそろ起きてください。今日はお昼にはショクバというところに行かれるのですよね?」
寝違えそうな首の角度で机に突っ伏す俺に優しく声を掛けてくるマリナ。
残念ながら休日の特権である惰眠貪りをするわけにはいかなくなってしまったのだ。
欠伸と頷きを同時にマリナに見せてから、俺は昨日の職場でのできごとを思い出す。
普段うざ絡みしてくる先輩の、優しい指導……そう、俺は昨日職場でミスを犯してしまった。
後始末の為、本来休日である土曜の今日、俺は職場に赴かなければならなくなったのだ。
いつも苦笑いをすることしかできない程のうざい絡み方をしてくる先輩が、こういう時だけ優しくしてくるなんて、ずるいよな。俺が女だったらちょっとときめいちゃってたかもしれない。
その先輩にも休日出勤をさせてしまう羽目になってしまっているので、今度何かでお詫びをしなくちゃならない。
「コーヒーと朝食、準備できておりますので、居間にお越しください」
マリナはそう言うと、妖精でも纏っているような笑顔を俺に向けてから部屋を出て行った。
……荒む心に、本当痛み入るな。
職場での段取りを予習しながらスーツに着替え、居間に向かったところでインターホンが鳴った。
「私が出てきます。ユウスケ様はどうぞ、お食事を」
慣れた光景だが、なんかこの感じ、メイドさんでも雇っているみたいな気分だな。
……恰好が相変わらず青の芋ジャージ上下なので、雰囲気はアレだけど。
もしかすると先週ネットで頼んだ布団一式が届いたかな? 等と考えながらテーブルのトーストに齧り付いてコーヒーを一口。
うん、やっぱり朝はパンが良いな、ってもう十時だけど。
「おーっすユウスケ、久しぶりだなー」
聞きなれた声と共に玄関からずかずかと入ってきたのはピンクのカーディガンと白のチュールスカートを着こなすつかさだった。
素人目からしても物凄く似合ってはいるのだが、相変わらず女子には嫌われそうな格好だ。
無論、男の俺からしたら控えめに言って至高ではあるが。
「お、おう。久しぶり」
声を出す自分がやけにぎこちないのに遅れて気づいた。
つかさとは若干気まずい関係になっている気がしたからだった。
「なんだよユウスケ、夜更かしでもしたのか? マリナちゃんやヘカテーちゃんと同居してるからってまだ浮足立ってるのかよ? カッカッカ」
対してつかさはいつも通りだった。
――それとも、これはいつも通りの演技なのか?
鱚を買ったあの日、スーパーの帰り道すがらの、ライトの下で陰影をつけて異様な雰囲気を醸し出していたつかさの表情を一瞬思い出して、俺は声に出さずに問いかけた。
「師匠、今珈琲淹れますね」
マリナは摺り足のようにキッチンに向かって歩いて行った。
眼で追ったつかさが「お構いなく~」と
「ユウスケ、お前マリナちゃんとキスしたろ?」
「んガフッ」
唐突な問いに、俺は黒い液体が気管に侵入し、思い切り
その様をじろりと見つめるつかさがニンマリと顔を歪ませる。
「やりゃできるじゃんか」
「なんでそう思うんだよ」
「マリナちゃんの顔、かな。女の顔になってたからよ!」
「マリナはもともと女だぞ」
「……ユウスケ、お前それ本気で言ってるなら俺はがっかりだぞ?」
もちろんわかってるさ。俺もあの時、マリナから色気を感じたのは否めない。
でもそれを一瞬で見抜くつかさって、やっぱりこういうのは経験がものを言うものなのだろうか?
「んで、今日はどうした? 申し訳ないんだけど俺これから仕事に行かなきゃならなくて」
「マジかよ? 土曜なのに……まあ特にこれといって用って訳でもなかったからいいんだけどよ! なんとなく、手持無沙汰になるとここに来ちまうんだよなあ。それもそろそろ、やめねえといけないってわかってるんだけどな! ははは」
つかさは頭の後ろに手を組んだり、テーブルの上で指遊びをしたりして落ち着きがない子供のようだった。
きっと、つかさも少しは気まずさを感じてるのかな。
「そういえばつかさ、訊きたいことがあるんだけど」
「おう? なんだなんだ?」
細かい事件が多くて有耶無耶になり訊けていなかった事。
それはつかさが過去に読んだ『グリースの四半魔』の事だった。
「マリナ達が出てくる『グリースの四半魔』の事なんだけど……話ってどのくらい覚えてる?」
「んー、ぼんやりとなんだよなぁ……登場人物とかはある程度思い出せるんだけどよ」
「じゃ、悪魔……というか魔族? は他に出てきたか? ヘカテーちゃんとエリュ以外にだ」
「んー」
つかさはなかなか進まないレジを待っている時のような顔で唸りだした。
頼む、もう一人の魔族が地球に居るはずなんだ。思い出してくれ。
「お待たせいたしました師匠」
湯気立つマグカップを難しい顔をするつかさの前に置くマリナ。
流れる金髪を見て、俺は背筋がピクッと伸びる。
そうだ、今までどうして思いつかなかったのか。
当事者に聞くのも手じゃないか。
「マリナにも訊いていいか?」
「はい? なんでしょうか、ユウスケ様」
マリナは若干の戸惑いの表情を浮かべながら、碧眼を俺に向けてくる。
「マリナが知っている、マリナの世界の魔族について教えて欲しい。ヘカテーちゃんとエリュ以外で」
「魔族、ですか。直接私が会ったのは、ここにいる……今は姿は見えませんが、ヘカテーだけです。エリュちゃんも
「それじゃ、会っていなくても聞いたことのある魔族は?」
「はい、何名かは……」
不意に目を伏せるマリナ。
あまり良い気分にならないとは思うが、俺は知っておかなければならない気がする。
「できれば、教えて欲しい」
「……分かりました。ユウスケ様が、そう仰るなら」
マリナは真っ直ぐに綺麗な青い瞳を向けて、俺に小さく会釈をしながらそう言った。
対面で、顔に皺を作ってうんうん唸っているつかさが環境音になりつつある居間で、俺は小さめに深呼吸をした。
* * *
俺の家の居間のテーブルには椅子が二つしかないので、唸りマシーンと化したつかさには一時的に退場して頂き、俺とマリナで向かい合うように座る。
そういえば、今日は朝からヘカテーの姿は見えないな。
「私が知っている悪魔……魔族の類は、全部で五人です」
早速マリナが切り出す。
「一人目は、ユウスケ様もご存じのヘカテー・トリウィアスです」
「ヘカテーちゃんね」
「傲慢の悪魔とも言われていて、私の住んでいたプリュギアの東の森を根城としておりました。野草や果実を収穫しようとする者を毎回襲撃している、小悪魔でした」
「こ、小悪魔」
俺はちょっぴりにやけてしまった。
小悪魔ね……ヘカテーの真の思いを知るだけに、ピッタリな愛称かもしれないな。
「二人目もユウスケ様ご存知の、エリュアーレ・グライアです」
「エリュちゃんは、今は地球の神様になっちゃったけど」
「はい、プリュギアに居る頃には直接会ってはいませんが、噂は聞いておりました。遠方の国に、手の付けられない程の暴食の悪魔が居ると」
確かに、あれには本当困るのよね。
俺の月の給料の半分は食費に消えちゃってる気がするし。
「三人目は、ユースという悪魔です」
「ユース」
「なんでも、男性ならば例外なく魅入ってしまう程の美貌をユースという悪魔はお持ちだとか……これも遠方の国での噂なので詳しくは私も知りませんが――」
「ユース・ノミアですわ。色欲の悪魔で、私とも親交がありましてよ」
いつの間にか俺とマリナのちょうど間の頭上に、ヘカテーがふわふわと浮いていた。
「男の欲望の事なら知り尽くしている、正に悪魔の中の悪魔ですわね」
「おはよう、ヘカテー。どこにいたの?」
「少しばかり試したいことがあったのですわ。そのうち話してあげますわ、それよりも、ユース・ノミアがどうしたんですの?」
「ああ、俺が訊いてたんだ。他の魔族の話。地球に居るもう一人の魔族のヒントになるかなって思って」
俺がそう言うと、ヘカテーは「ふうん」という表情をして黙ってしまった。
なんだ、いつになくヘカテーが大人しい。
チラリと横に目をやると、床で胡坐をかくつかさはまだうんうんと唸っていた。脳細胞の為にも早く思い出してくれ、つかさよ。
「続けて良いですか?」
「うん、お願い」
「はい、四人目は……これは魔族、かどうか私にはわからないのですけど」
「というと?」
「はい、名前は分かりませんが、プロフェットです」
おお、ここに来て例の預言者か。
「恐らく、ですが、プロフェット様は普通の人間ではないのです。何故なら、私がお言葉をもらう際に会った時には既に百年以上は生きていると言っておりました。しかし、見た目はどう見ても幼い少女の姿なのです。このような芸当は人間にできるとは思えなくて……もちろん、プロフェット様は人間に
「それは多分違いますわ、マリナストライア」
頭上からヘカテーの怠そうな声がした。
「あの堕落者はたしかに人間ではないですわ。でも悪魔、魔族の類でもないですわ」
「堕落者?」
俺が顔を上げてヘカテーに問いかけると、ヘカテーは長い赤髪を振り回して俺の方に身体を向けた。
「ええ、人間どもが崇拝していたあのプロフェットと呼ばれる方からは、怠惰のオーラが滲み出ておりましてよ。それはもう、大いに」
「ヘカテー! プロフェット様に失礼だ! あのお方は確かなお言葉を我々にくださる存在だ、悪く言うと許さないぞ!」
「ふん……まあ、預言のような芸当ができるのですわ、人間とは違うのは疑いようがないですわね。でも、魔族ではないのも
実際に俺がプリュギアに行ったり、プロフェットと呼ばれる預言者に会ったりしていない以上は、聞き伝手の想像をすることしかできないが、どうやら地球に居るもう一人の魔族、ではなさそうな気がするな。勘だけど。
「なんにせよ、二人ともありがとう。情報、助かるよ」
「いえ、ユウスケ様の為になるのでしたら」
「ふん。別に人間のためではないですわ」
「はは、それでマリナの知ってる五人目の魔族は?」
「……はい」
ここで明らかに顔を曇らせたマリナ。
ヘカテーもふわふわと浮いたまま、口を噤んで目を閉じてしまった。
悲嘆のオーラでも嗅ぎ取ったのだろう。
オーラを読むことの出来ない俺でも、マリナが明らかに悲しそうなのは見て取れる。
「マリナ、言いたくないなら別に――」
「いえ、ユウスケ様の為ですから」
献身は嬉しいが、身を滅ぼさないでくれよ、という気持ちを顔に込めてマリナの顔を見る。
マリナは一瞬笑み、それから真剣な顔で、
「五人目は、へイリアという者です」
そう言った後、一つ肩を上下させてからこう続けた。
「勇者である私の両親を殺した、嫉妬の悪魔です」
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